第15話 現行犯
ニュース速報の音は、よくできた警報に似ている。
何が起きたかを知らない人間にも、何かが起きたことだけは伝わる。
権藤昭伸は、テーブルの上のリモコンを取った。
壁に埋め込まれたテレビの音量を上げる。
画面の下を、赤い帯が横切っていた。
『本日午後、私立青藍学園高等部で、二年生の女子生徒が校舎脇に倒れているのが見つかりました』
上空から撮影された校舎が映る。
正門にはブルーシートが張られ、その前へ報道陣が集まっている。
校名は合っていた。
時刻も、期限の二時間前だった。
『女子生徒は搬送先の病院で死亡が確認されました。警察は、現場にいた同学年の男子生徒を殺人の疑いで現行犯逮捕し、詳しい事情を――』
昭伸はテレビを消した。
部屋が静かになる。
向かいのソファでは、勝が足を組んでいた。
小宮山はテレビの脇に立ったまま、消えた画面を見ている。
「五時間も持たなかったな」
勝が言った。
「二時間です」
小宮山が訂正する。
「殺してから捕まるまでの話じゃねえ。俺らがあいつを見つけてから、全部終わるまでの話だよ」
「終わったとお考えですか」
昭伸が尋ねた。
勝は鼻で笑った。
「兄貴は違うのか」
昭伸は答えず、テーブルの上の携帯電話へ目を落とした。
連絡は来ていない。
完了したという報告も、助けを求める電話もない。
ただ、橘玲奈は死んだ。
同学年の男子生徒が、その場で捕まった。
それだけを並べれば、答えは一つしかなかった。
「お坊ちゃまには、少々難しい試験だったのかもしれません」
小宮山が言う。
「殺害までは成し遂げたのです。最低条件は満たしております」
「殺したあとに捕まる人間を、殺し屋とは呼びません」
昭伸の声に、失望はなかった。
最初から期待していなかったようにも聞こえた。
勝がソファの背へ腕を回す。
「誠はそんなタマじゃない」
昭伸が弟を見る。
「ずいぶん買っていますね」
「買っちゃいねえよ。匂いの話だ」
「匂い」
「捕まる奴は、捕まる前から逃げる顔をする。あいつは違った」
「昨日まで、殺せずに逃げるとおっしゃっていたのでは」
「逃げるなら、殺す前だ」
勝は消えたテレビへ顎を向けた。
「やったあとで屋上に突っ立ってるほど、素直なガキじゃねえ」
小宮山が口を挟む。
「報道では、逮捕された男子生徒の氏名は伏せられています」
「未成年ですからね」
「なら、まだ分かんねえだろ」
勝は立ち上がった。
テーブルの上の煙草へ手を伸ばし、小宮山に見られて戻す。
「外で吸ってまいりますか」
「そういう言い方されると、吸いたくなくなるんだよ」
「健康的で何よりです」
勝は舌打ちした。
昭伸は携帯電話を手に取る。
画面に表示された時刻は、午後六時十二分。
期限を過ぎている。
それでも、誠からの連絡はない。
「小宮山」
「はい」
「確認を」
「学校へでしょうか」
「警察へです」
小宮山は一礼した。
部屋を出る直前、勝がその背中へ声を投げる。
「賭けるか、じいさん」
小宮山が振り返る。
「何をでしょう」
「捕まったのが、誠かどうか」
「賭博はいたしません」
「つまんねえな」
「ただし」
小宮山は扉に手をかけたまま、わずかに目を細めた。
「勝様がお支払いになる方へ、千円を」
扉が閉まる。
勝はしばらく黙ったあと、笑った。
「やっぱ、あのじいさん嫌いだわ」
昭伸は笑わなかった。
携帯電話の画面を伏せる。
自分がどちらへ賭けているのかは、弟にも教えなかった。
*
姫野巌は、署内で怒鳴らない。
怒鳴る必要がないからだった。
身長百八十八センチ。
柔道で潰れた耳。
眉間には、黙っていても消えない縦皺が二本ある。
廊下を歩くだけで、新人は自分の襟元を確かめた。
今も、給湯室から出てきた巡査が姫野を見るなり背筋を伸ばした。
姫野は何も言わず、その横を通り過ぎる。
「また一人、無実の人を怯えさせましたね」
隣を歩く殿崎ひよりが言った。
二十五歳。
肩に届かない髪と、眠そうに見える垂れ目。
初対面の相手には、刑事だと名乗ると驚かれる。
姫野は前を向いたまま答えた。
「怯える理由がある奴が悪い」
「あの人、コーヒーを淹れていただけです」
「砂糖を三本入れていた」
「有罪ですね」
殿崎は手元の紙コップを見た。
自分のコーヒーにも、砂糖が二本入っている。
二本までなら見逃されるらしい。
二人が刑事課へ戻ると、机の上の電話が鳴った。
殿崎が取る。
「はい、刑事課――あ、います。目の前に。威圧感まで含めて、います」
姫野が手を出す。
殿崎は受話器を渡さず、メモを取り始めた。
「青藍学園。女子生徒一名死亡。被疑者は同学年の男子生徒。十七歳」
姫野の手が止まる。
青藍学園。
どこかで聞いた名前だった。
殿崎が電話へ頷く。
「身柄はそちらですね。はい。保護者への連絡は……まだ。分かりました。姫野と向かいます」
電話を切る。
「誰が行くと言った」
「課長です」
「先に言え」
「先に言うと、電話を代われって顔をしていました」
「顔で会話するな」
「姫野さんが言います?」
殿崎はメモを一枚めくった。
現場の校名が、太い字で書かれている。
「青藍って、五十嵐さんの息子さんが通っている学校ですよね」
姫野はそこで思い出した。
交通課の五十嵐猛。
部署は違うが、署の道場で何度か組んだことがある。
酒の席では、息子が生徒会長になったという話を聞かされた。
頼んでもいないのに、写真まで見せられた。
癖のない黒髪。
整った制服。
父親とはあまり似ていない、穏やかな顔。
「被疑者の名前は」
「電話では伏せられました。未成年なので、無線でも最低限にしているそうです」
「現場は」
「所轄が封鎖。鑑識が屋上を見ています。身柄は学校近くの署へ移送済みです」
「なぜ俺たちが呼ばれる」
「死亡事案になったので応援です。それと、被疑者がまともに話せない状態だとか」
「黙秘か」
「話してはいるそうです。同じことを、何度も」
姫野は上着を取った。
殿崎が紙コップを持ってついてくる。
「置いていけ」
「まだ半分あります」
「車にこぼす」
「姫野さんの運転なら、取り調べ室まで持ちます」
「なら走るぞ」
殿崎は紙コップを机へ置いた。
「現場へ着く前に自白します。安全運転してください」
*
車内のラジオでも、青藍学園の事件が流れていた。
死亡した女子生徒の氏名は、橘玲奈。
市議会議員、橘晴臣の長女。
身柄を確保された男子生徒については、同じクラスの生徒とだけ報じられている。
「政治家の娘ですか」
殿崎が助手席で言った。
「仮置きします。交際のもつれ」
「根拠は」
「同級生の男女、高校の屋上、放課後。世間が最初に作る筋書きです」
「お前の筋書きか」
「世間のです。私はまだ置いただけ」
殿崎は推測するとき、必ず仮置きと言う。
外れたときに撤回しやすいからではない。
仮説を事実の隣へ置かないためだ。
見た目より慎重で、口調より疑い深い。
姫野がこの若い刑事を連れ歩く理由の一つだった。
「現行犯逮捕の根拠は」
「悲鳴と落下音の直後、屋上から下りてきたところを教員三人が確保。衣服に被害者の血はなし。目撃証言も、今のところなし」
「薄いな」
「ただ、携帯電話から被害者の写真が大量に見つかったそうです」
姫野は前方を見たまま、眉間の皺を深くした。
「交際相手か」
「本人は否定しています」
「何を」
「交際も、殺害も」
赤信号で車が止まる。
殿崎はメモへ一本、線を引いた。
「仮置きを変更します。片思いの暴走」
「簡単に置き直すな」
「だから仮置きなんですって」
信号が青になる。
姫野はアクセルを踏んだ。
頭の片隅に、猛が見せた写真が残っている。
生徒会長の腕章をつけた少年。
穏やかに笑っていた。
写真で人間は分からない。
親が子供の何を知っているかも、分からない。
それでも姫野は、猛への連絡を後回しにした。
本人を確認してからでいい。
そう判断した。
*
取調室の前には、制服姿の警察官が二人立っていた。
「中は」
姫野が尋ねる。
「補導員が一名。本人は落ち着いてきましたが、供述が一貫しません」
「黙秘ではないんだな」
「むしろ逆です。話し続けています。ただ、自分は見ただけだと」
「何を見た」
警察官が一瞬、答えに迷う。
「遺体を」
殿崎が姫野を見る。
姫野は扉の小窓から中を覗いた。
少年が、机に両肘をついて座っている。
両手で頭を抱え、何かを呟いていた。
顔は見えない。
青藍学園の制服。
二年生の校章。
背格好は、記憶にある五十嵐猛の息子と大きく違わない。
姫野が扉を開ける。
少年の声が、はっきり聞こえた。
「俺じゃない」
姫野は向かいの椅子を引いた。
殿崎はその隣へ座る。
少年が顔を上げた。
泣いた痕がある。
頬は青ざめ、唇が震えていた。
姫野は写真で見た少年の顔を思い出す。
違う。
五十嵐誠ではない。
「俺は、玲奈を見てただけなんです」
少年が言う。
「いつもみたいに、見てただけで」
殿崎のペン先が止まった。
「いつも?」
「違う。そういう意味じゃない。守ってたんです。俺が見てれば、変な奴が近づかないから」
「屋上まで守りに行ったのか」
姫野が尋ねる。
「玲奈が上がっていったから」
「一人で?」
「分からない。俺が見たときは、一人だった」
「なぜ、すぐ追わなかった」
「見つかりそうになったから、少し待って……それから」
少年は両手で顔を覆った。
「音がして、上へ行ったら誰もいなくて。下を見たら、玲奈が」
呼吸が速くなる。
補導員が背中へ手を伸ばそうとした。
姫野は目だけで止める。
「屋上には誰もいなかった」
「はい」
「お前以外は」
「俺が行ったときには!」
少年が机を叩いた。
扉の外で、人の動く気配がした。
姫野は瞬きもしない。
少年の方が先に目を逸らした。
「写真は、どう説明する」
殿崎が静かに尋ねる。
「好きだったから」
「本人の許可は」
「ない」
「帰り道を撮った写真が、百枚以上あります」
「それは認めます。でも、殺してない」
「教室で撮ったものもある」
「撮った。でも殺してない」
「自宅の近くでも」
「ついていった。でも殺してない!」
嘘をついている人間は、すべてに嘘をつくとは限らない。
本当のことを話している人間も、すべてが潔白とは限らない。
姫野が嫌うのは、善人か悪人かで供述を分けることだった。
罪は、一人の中で同居する。
この少年は、橘玲奈をつけ回していた。
それは事実だ。
橘玲奈を殺した。
それは、まだ事実ではない。
姫野は机の上の書類を閉じた。
表紙には、少年の氏名が記されている。
五十嵐ではない。
「最初から聞く」
少年が顔を上げる。
「氏名」
掠れた声が、取調室に落ちた。
「三浦」
一度、息を呑む。
「三浦恭介です」




