第14話 手袋
目覚ましが鳴る三分前に、誠は目を開けた。
眠った記憶はなかった。
それでも時計は午前六時二十七分を示している。
机の上には、昨夜書いた予定表があった。
朝礼。
一時間目から六時間目までの授業。
昼休み。
放課後。
午後六時。
最後の時刻だけ、赤い線で囲んである。
誠は予定表を裏返した。
制服へ着替え、鞄の中身を確認する。
教科書。
筆箱。
生徒会のファイル。
黒い手袋。
小さな容器。
折り畳んだ申請用紙。
それらを見ても、何も感じなかった。
感情がなくなったのではない。
多すぎて、どれを感じればいいのか分からなかった。
*
朝食は、焼いたパンとスクランブルエッグだった。
久美子がコーヒーを置く。
「今日は早いのね」
「朝礼があるから」
「顔色は昨日よりいい」
「寝たから」
嘘だった。
猛は新聞を読み、澪はテーブルへ頬をつけている。
「眠い」
「食べてから寝なさい」
「食べたら学校」
「正解」
久美子が言う。
澪は不満そうにパンをかじった。
誠は妹の顔を見る。
動画が公開されれば、この顔が全国へ晒される。
学校へ行けなくなるかもしれない。
仕事を失うかもしれない。
家族が壊れるかもしれない。
玲奈を殺せば、それを防げる。
本当に防げるのかは分からない。
昭伸が約束を守る保証はない。
それでも、ほかに選べるものが残っていなかった。
「お兄」
澪が顔を上げる。
「また見てる」
「ごめん」
「今日、何かあるの?」
誠はコーヒーカップへ視線を落とした。
「生徒会の仕事」
「ふうん」
澪はそれ以上聞かなかった。
誠が玄関で靴を履いていると、背後から声がした。
「お兄」
振り返る。
澪が廊下に立っている。
「今日、早く帰ってきて」
「どうして」
「昨日の話、まだ終わってないから」
勝手に守るなと言われた話。
誠は頷いた。
「分かった」
「絶対ね」
「うん」
今日は、約束ばかりしている。
守れない約束ばかりを。
*
朝礼で、誠は全校生徒の前に立った。
学校案内日への協力について礼を述べ、来週の委員会予定を伝える。
原稿を見なくても、言葉は出てきた。
「以上で、生徒会からの連絡を終わります」
一礼する。
体育館に拍手が広がった。
壇上から二年生の列が見える。
玲奈がいる。
恭介もいる。
東は舞台袖で進行表を持っていた。
福原、大鳥羽、紬もそれぞれの持ち場にいる。
誰も、今日の午後六時を知らない。
誠は壇上を下りた。
東が小声で言う。
「今日は間違えませんでしたね」
「昨日は間違えたみたいに言うね」
「昨日は三回、言い間違えました」
「数えてたんだ」
「仕事ですから」
東は次の登壇者を呼びに行く。
誠はその背中を見送った。
生徒会室を使用禁止にした理由を、東はもう尋ねなかった。
*
一時間目が始まる前、誠は職員室へ行った。
申請用紙を差し出す。
「垂れ幕の固定部を、もう一度確認したいんです」
対応した教師が用紙を見る。
「交換業者の点検は終わってるだろ」
「生徒会の記録用写真を撮り忘れました」
「写真?」
「来年度の引き継ぎに使います」
教師は少し考え、壁の鍵箱から屋上の鍵を外した。
「昼休みまでに返せよ」
「分かりました」
貸出簿へ名前を書く。
五十嵐誠。
使用目的。
垂れ幕確認。
借出時刻。
八時二十一分。
自分の筆跡が残る。
消せない記録だった。
それでも鍵を受け取った。
一時間目の開始までに屋上へ上がり、扉を開ける。
朝の風が制服の裾へ入った。
誠は垂れ幕の固定部をスマートフォンで撮影した。
嘘を、嘘だけにはしないためだった。
そのあと何をしたのかは、自分の中でも順番に並べないようにした。
屋上。
垂れ幕。
生徒会室。
三つの場所を確認する。
黒い鞄を置く。
一度だけ、山側の柵から下を見る。
校舎は斜面に建っている。
校庭側より地面までの距離がある。下にはコンクリートの通路と、低い植え込み。
誠はすぐに目を逸らした。
授業が始まる前に職員室へ戻り、鍵を返す。
返却時刻は八時四十二分。
屋上の扉が完全に施錠されたかは、確認しなかった。
*
昼休みになった。
残り六時間。
恭介は自分の席で弁当を広げた。
いつもどおりだった。
玲奈は友人たちと教室を出た。購買へ飲み物を買いに行くらしい。
恭介は一度その背中を追い、立ち上がりかけた。
しかし弁当を見て、座り直す。
誠は教科書を開いたまま、その様子を見ていた。
焦る必要はない。
恭介が席を離れる瞬間は来る。
自分へ言い聞かせる。
五分後、野々村が恭介を呼んだ。
「三浦、廊下。先生が探してた」
恭介は弁当箱の蓋を閉めず、教室を出た。
偶然だった。
誠が作った機会ではない。
だからこそ、逃せなかった。
周囲を見る。
教室に残っている生徒は少ない。
窓際では二人がスマートフォンの動画を見ている。前方では女子生徒が机を寄せて話している。
誰も誠を見ていない。
誠は立った。
恭介の席へ向かう。
床に落ちた消しゴムを拾うふりをして屈む。
鞄から小さな容器を出す。
前夜までに用意したものだった。
ジャガイモに由来する毒性成分が、どれほど含まれているのかは分からない。
人を殺すためではない。
腹痛か吐き気を起こし、放課後に玲奈を追えなくなればいい。
その程度で済むはずだった。
確証はなかった。
確証のないものを、他人の弁当へ入れようとしている。
手が止まる。
廊下から足音が近づいた。
誠は容器の中身を、弁当の一部へ落とした。
量は見なかった。
見れば、自分が何をしたか分かってしまう。
容器を鞄へ戻し、自分の席へ戻る。
恭介が教室へ入ってきた。
誠を見ない。
弁当箱の前へ座り、箸を持つ。
食べる。
一口。
二口。
誠は教科書の同じ行を読み続けた。
文字は一つも頭へ入らなかった。
*
五時間目。
恭介は倒れなかった。
保健室へも行かない。
六時間目。
恭介は教師に指され、正しい答えを言った。
顔色も悪くない。
休み時間には、水を飲んだだけだった。
誠は理解した。
失敗した。
準備したものが無意味だったのか。
口に入った量が少なかったのか。
そもそも、ネットで読んだ情報を都合よく信じただけなのか。
理由は分からない。
分かるのは、放課後になれば恭介が玲奈を追うということだけだった。
毒なら顔を見なくて済む。
そう考えた。
毒は、誠の代わりに何もしてくれなかった。
最後の授業が終わる。
教室に椅子を引く音が重なった。
玲奈がこちらを見る。
約束を覚えている。
恭介も、玲奈を見ている。
誠は立ち上がった。
*
玲奈が一人になるまで、七分かかった。
友人に呼び止められ、進路希望調査について話している。
恭介は教室の後方で、鞄へ教科書を入れていた。
誠は廊下で待った。
玲奈が教室から出る。
「待たせてごめん」
「大丈夫」
「どこで話す?」
決めていなかった。
本当は、恭介が動けなくなったあとで、玲奈を学校の外へ連れ出すつもりだった。
人目の少ない場所。
恭介の知らない道。
それから先は、決められなかった。
教室の中で、恭介が顔を上げる。
誠と目が合った。
すぐに視線を逸らす。
玲奈が尋ねる。
「会長?」
屋上。
朝、扉を確認した。
山側は外から見えない。
下校時間が近づけば、校舎に残る生徒も減る。
そして、生徒会室は使用禁止にしてある。
「屋上で話したい」
言葉が出た。
玲奈が目を見開く。
「屋上?」
「僕が先に行く」
「鍵かかってない?」
「開いてる」
玲奈は誠の顔を見た。
やがて、小さく笑う。
「分かった」
「十分後に来て」
「一緒に行かないの?」
「誰にも見られたくない」
玲奈の頬が赤くなる。
誠の言葉を、別の意味に受け取った。
「そういう話なんだ」
誠は否定しなかった。
「誰にも言わずに来て」
「うん」
玲奈は返事をした。
嬉しそうだった。
誠は階段へ向かった。
背後を振り返らない。
恭介が見ているかもしれない。
玲奈がまだこちらを見ているかもしれない。
誰の視線も確認したくなかった。
*
屋上には風があった。
空は薄く曇っている。
遠くの山が、灰色の輪郭だけになっていた。
誠は鞄から黒い手袋を出し、両手にはめた。
指を曲げる。
きつくはない。
冬に何度も使った、自分の手袋だった。
時計を見る。
残り二時間十三分。
屋上の扉が開いた。
玲奈が出てくる。
一人だった。
「お待たせ」
風に髪を押さえながら、こちらへ歩いてくる。
「寒くない?」
「平気」
「手袋してるのに?」
誠は両手を下ろした。
「冷え性なんだ」
「初めて聞いた」
玲奈が笑う。
昨日までとは違う笑い方だった。
何かを期待し、それを隠そうとしている。
「こっちへ行こう」
誠は山側へ歩いた。
玲奈がついてくる。
校庭側では、部活動の声が聞こえる。山側へ回ると、校舎そのものが音を遮った。
風の音だけになる。
「ここなら、誰にも見えないね」
玲奈が言う。
「うん」
「それで、話って?」
誠は柵の近くで止まった。
玲奈も隣へ立つ。
眼下を覗き、すぐに一歩下がった。
「高い。猫田先生、よくこんなところから猫を落とせたね」
「あれは一階の屋上だって言ってた」
「でも嫌でしょ」
「うん」
「私、猫だったら絶対噛む」
玲奈は右手で噛みつく仕草をした。
猫のぬいぐるみに貼られた付箋を思い出す。
人間も落とさないでね。
まだ、やめられる。
玲奈にすべて話す。
今から一緒に警察へ行く。
澪へ謝る。
家族へ話す。
間違えたことを認める。
それで失うものを、全員で選ぶ。
「玲奈」
名前を呼んだ。
玲奈が誠を見る。
「なに?」
「僕は――」
屋上の扉の向こうから、音がした。
足音。
階段を上ってくる。
一段。
二段。
ゆっくりだった音が、途中から速くなる。
誰かが来る。
恭介かもしれない。
教師かもしれない。
別の生徒かもしれない。
確認する時間はなかった。
見つかれば終わる。
玲奈をここへ呼んだこと。
手袋。
屋上。
全部がつながる。
玲奈も足音に気づき、扉の方を見た。
「誰か来るね」
その視線が誠へ戻る。
黒い手袋に止まった。
「ねえ」
玲奈が尋ねる。
「なんで手袋してるの?」
誠は答えなかった。
玲奈の腰へ腕を回す。
「え?」
身体を持ち上げる。
軽くはなかった。
人間一人の重さだった。
玲奈の手が、誠の肩をつかむ。
「五十嵐くん?」
何をされているのか、まだ分かっていない声だった。
誠は一歩踏み込んだ。
柵の向こうへ、玲奈の身体を押し上げる。
玲奈の目が見開かれた。
初めて、恐怖が浮かぶ。
「会長」
最後に呼ばれたのは、五十嵐くんではなかった。
誠は両腕を前へ伸ばした。
肩をつかんでいた玲奈の指が滑る。
重さが消えた。




