↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/16

第14話 手袋

目覚ましが鳴る三分前に、誠は目を開けた。


眠った記憶はなかった。


それでも時計は午前六時二十七分を示している。


机の上には、昨夜書いた予定表があった。


朝礼。


一時間目から六時間目までの授業。


昼休み。


放課後。


午後六時。


最後の時刻だけ、赤い線で囲んである。


誠は予定表を裏返した。


制服へ着替え、鞄の中身を確認する。


教科書。


筆箱。


生徒会のファイル。


黒い手袋。


小さな容器。


折り畳んだ申請用紙。


それらを見ても、何も感じなかった。


感情がなくなったのではない。


多すぎて、どれを感じればいいのか分からなかった。


*


朝食は、焼いたパンとスクランブルエッグだった。


久美子がコーヒーを置く。


「今日は早いのね」


「朝礼があるから」


「顔色は昨日よりいい」


「寝たから」


嘘だった。


猛は新聞を読み、澪はテーブルへ頬をつけている。


「眠い」


「食べてから寝なさい」


「食べたら学校」


「正解」


久美子が言う。


澪は不満そうにパンをかじった。


誠は妹の顔を見る。


動画が公開されれば、この顔が全国へ晒される。


学校へ行けなくなるかもしれない。


仕事を失うかもしれない。


家族が壊れるかもしれない。


玲奈を殺せば、それを防げる。


本当に防げるのかは分からない。


昭伸が約束を守る保証はない。


それでも、ほかに選べるものが残っていなかった。


「お兄」


澪が顔を上げる。


「また見てる」


「ごめん」


「今日、何かあるの?」


誠はコーヒーカップへ視線を落とした。


「生徒会の仕事」


「ふうん」


澪はそれ以上聞かなかった。


誠が玄関で靴を履いていると、背後から声がした。


「お兄」


振り返る。


澪が廊下に立っている。


「今日、早く帰ってきて」


「どうして」


「昨日の話、まだ終わってないから」


勝手に守るなと言われた話。


誠は頷いた。


「分かった」


「絶対ね」


「うん」


今日は、約束ばかりしている。


守れない約束ばかりを。


*


朝礼で、誠は全校生徒の前に立った。


学校案内日への協力について礼を述べ、来週の委員会予定を伝える。


原稿を見なくても、言葉は出てきた。


「以上で、生徒会からの連絡を終わります」


一礼する。


体育館に拍手が広がった。


壇上から二年生の列が見える。


玲奈がいる。


恭介もいる。


東は舞台袖で進行表を持っていた。


福原、大鳥羽、紬もそれぞれの持ち場にいる。


誰も、今日の午後六時を知らない。


誠は壇上を下りた。


東が小声で言う。


「今日は間違えませんでしたね」


「昨日は間違えたみたいに言うね」


「昨日は三回、言い間違えました」


「数えてたんだ」


「仕事ですから」


東は次の登壇者を呼びに行く。


誠はその背中を見送った。


生徒会室を使用禁止にした理由を、東はもう尋ねなかった。


*


一時間目が始まる前、誠は職員室へ行った。


申請用紙を差し出す。


「垂れ幕の固定部を、もう一度確認したいんです」


対応した教師が用紙を見る。


「交換業者の点検は終わってるだろ」


「生徒会の記録用写真を撮り忘れました」


「写真?」


「来年度の引き継ぎに使います」


教師は少し考え、壁の鍵箱から屋上の鍵を外した。


「昼休みまでに返せよ」


「分かりました」


貸出簿へ名前を書く。


五十嵐誠。


使用目的。


垂れ幕確認。


借出時刻。


八時二十一分。


自分の筆跡が残る。


消せない記録だった。


それでも鍵を受け取った。


一時間目の開始までに屋上へ上がり、扉を開ける。


朝の風が制服の裾へ入った。


誠は垂れ幕の固定部をスマートフォンで撮影した。


嘘を、嘘だけにはしないためだった。


そのあと何をしたのかは、自分の中でも順番に並べないようにした。


屋上。


垂れ幕。


生徒会室。


三つの場所を確認する。


黒い鞄を置く。


一度だけ、山側の柵から下を見る。


校舎は斜面に建っている。


校庭側より地面までの距離がある。下にはコンクリートの通路と、低い植え込み。


誠はすぐに目を逸らした。


授業が始まる前に職員室へ戻り、鍵を返す。


返却時刻は八時四十二分。


屋上の扉が完全に施錠されたかは、確認しなかった。


*


昼休みになった。


残り六時間。


恭介は自分の席で弁当を広げた。


いつもどおりだった。


玲奈は友人たちと教室を出た。購買へ飲み物を買いに行くらしい。


恭介は一度その背中を追い、立ち上がりかけた。


しかし弁当を見て、座り直す。


誠は教科書を開いたまま、その様子を見ていた。


焦る必要はない。


恭介が席を離れる瞬間は来る。


自分へ言い聞かせる。


五分後、野々村が恭介を呼んだ。


「三浦、廊下。先生が探してた」


恭介は弁当箱の蓋を閉めず、教室を出た。


偶然だった。


誠が作った機会ではない。


だからこそ、逃せなかった。


周囲を見る。


教室に残っている生徒は少ない。


窓際では二人がスマートフォンの動画を見ている。前方では女子生徒が机を寄せて話している。


誰も誠を見ていない。


誠は立った。


恭介の席へ向かう。


床に落ちた消しゴムを拾うふりをして屈む。


鞄から小さな容器を出す。


前夜までに用意したものだった。


ジャガイモに由来する毒性成分が、どれほど含まれているのかは分からない。


人を殺すためではない。


腹痛か吐き気を起こし、放課後に玲奈を追えなくなればいい。


その程度で済むはずだった。


確証はなかった。


確証のないものを、他人の弁当へ入れようとしている。


手が止まる。


廊下から足音が近づいた。


誠は容器の中身を、弁当の一部へ落とした。


量は見なかった。


見れば、自分が何をしたか分かってしまう。


容器を鞄へ戻し、自分の席へ戻る。


恭介が教室へ入ってきた。


誠を見ない。


弁当箱の前へ座り、箸を持つ。


食べる。


一口。


二口。


誠は教科書の同じ行を読み続けた。


文字は一つも頭へ入らなかった。


*


五時間目。


恭介は倒れなかった。


保健室へも行かない。


六時間目。


恭介は教師に指され、正しい答えを言った。


顔色も悪くない。


休み時間には、水を飲んだだけだった。


誠は理解した。


失敗した。


準備したものが無意味だったのか。


口に入った量が少なかったのか。


そもそも、ネットで読んだ情報を都合よく信じただけなのか。


理由は分からない。


分かるのは、放課後になれば恭介が玲奈を追うということだけだった。


毒なら顔を見なくて済む。


そう考えた。


毒は、誠の代わりに何もしてくれなかった。


最後の授業が終わる。


教室に椅子を引く音が重なった。


玲奈がこちらを見る。


約束を覚えている。


恭介も、玲奈を見ている。


誠は立ち上がった。


*


玲奈が一人になるまで、七分かかった。


友人に呼び止められ、進路希望調査について話している。


恭介は教室の後方で、鞄へ教科書を入れていた。


誠は廊下で待った。


玲奈が教室から出る。


「待たせてごめん」


「大丈夫」


「どこで話す?」


決めていなかった。


本当は、恭介が動けなくなったあとで、玲奈を学校の外へ連れ出すつもりだった。


人目の少ない場所。


恭介の知らない道。


それから先は、決められなかった。


教室の中で、恭介が顔を上げる。


誠と目が合った。


すぐに視線を逸らす。


玲奈が尋ねる。


「会長?」


屋上。


朝、扉を確認した。


山側は外から見えない。


下校時間が近づけば、校舎に残る生徒も減る。


そして、生徒会室は使用禁止にしてある。


「屋上で話したい」


言葉が出た。


玲奈が目を見開く。


「屋上?」


「僕が先に行く」


「鍵かかってない?」


「開いてる」


玲奈は誠の顔を見た。


やがて、小さく笑う。


「分かった」


「十分後に来て」


「一緒に行かないの?」


「誰にも見られたくない」


玲奈の頬が赤くなる。


誠の言葉を、別の意味に受け取った。


「そういう話なんだ」


誠は否定しなかった。


「誰にも言わずに来て」


「うん」


玲奈は返事をした。


嬉しそうだった。


誠は階段へ向かった。


背後を振り返らない。


恭介が見ているかもしれない。


玲奈がまだこちらを見ているかもしれない。


誰の視線も確認したくなかった。


*


屋上には風があった。


空は薄く曇っている。


遠くの山が、灰色の輪郭だけになっていた。


誠は鞄から黒い手袋を出し、両手にはめた。


指を曲げる。


きつくはない。


冬に何度も使った、自分の手袋だった。


時計を見る。


残り二時間十三分。


屋上の扉が開いた。


玲奈が出てくる。


一人だった。


「お待たせ」


風に髪を押さえながら、こちらへ歩いてくる。


「寒くない?」


「平気」


「手袋してるのに?」


誠は両手を下ろした。


「冷え性なんだ」


「初めて聞いた」


玲奈が笑う。


昨日までとは違う笑い方だった。


何かを期待し、それを隠そうとしている。


「こっちへ行こう」


誠は山側へ歩いた。


玲奈がついてくる。


校庭側では、部活動の声が聞こえる。山側へ回ると、校舎そのものが音を遮った。


風の音だけになる。


「ここなら、誰にも見えないね」


玲奈が言う。


「うん」


「それで、話って?」


誠は柵の近くで止まった。


玲奈も隣へ立つ。


眼下を覗き、すぐに一歩下がった。


「高い。猫田先生、よくこんなところから猫を落とせたね」


「あれは一階の屋上だって言ってた」


「でも嫌でしょ」


「うん」


「私、猫だったら絶対噛む」


玲奈は右手で噛みつく仕草をした。


猫のぬいぐるみに貼られた付箋を思い出す。


人間も落とさないでね。


まだ、やめられる。


玲奈にすべて話す。


今から一緒に警察へ行く。


澪へ謝る。


家族へ話す。


間違えたことを認める。


それで失うものを、全員で選ぶ。


「玲奈」


名前を呼んだ。


玲奈が誠を見る。


「なに?」


「僕は――」


屋上の扉の向こうから、音がした。


足音。


階段を上ってくる。


一段。


二段。


ゆっくりだった音が、途中から速くなる。


誰かが来る。


恭介かもしれない。


教師かもしれない。


別の生徒かもしれない。


確認する時間はなかった。


見つかれば終わる。


玲奈をここへ呼んだこと。


手袋。


屋上。


全部がつながる。


玲奈も足音に気づき、扉の方を見た。


「誰か来るね」


その視線が誠へ戻る。


黒い手袋に止まった。


「ねえ」


玲奈が尋ねる。


「なんで手袋してるの?」


誠は答えなかった。


玲奈の腰へ腕を回す。


「え?」


身体を持ち上げる。


軽くはなかった。


人間一人の重さだった。


玲奈の手が、誠の肩をつかむ。


「五十嵐くん?」


何をされているのか、まだ分かっていない声だった。


誠は一歩踏み込んだ。


柵の向こうへ、玲奈の身体を押し上げる。


玲奈の目が見開かれた。


初めて、恐怖が浮かぶ。


「会長」


最後に呼ばれたのは、五十嵐くんではなかった。


誠は両腕を前へ伸ばした。


肩をつかんでいた玲奈の指が滑る。


重さが消えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。