第一話 まつ出奔
姫路城に、慌ただしい足音が響いた。
「兄者!」
戸が勢いよく開く。
入ってきたのは、休夢だった。
「どうした、休夢」
いつになく険しい顔をしている。
休夢は息を整える間もなく、職隆の前まで来た。
「……松が」
「松が?」
一瞬の間。
休夢が告げる。
「出奔した」
「…………何?」
職隆の顔から、表情が消えた。
「今朝、松の屋敷で女中が見つけた」
「何をだ」
休夢は懐から、一通の文を取り出した。
「……置手紙だ」
職隆はそれを受け取った。
紙を開く。
そこに書かれていたのは、短い言葉だった。
職隆は、受け取った置手紙を開いた。
そこに書かれていたのは、短い言葉だった。
『もう黒田には居れません。 申し訳ありません』
「…………」
職隆は、しばらくその文を見つめていた。
「……早まったな」
「儂もそう思う」
休夢が答える。
「何があった?」
「分からぬ」
「昨日まで、何もなかったのか?」
「少なくとも、儂の知る限りでは」
職隆は手紙を握る。
戦が終わって、まだ一月ほど。
松は戦の後始末にも動いていた。
龍野への慰撫まで、自分の私財を出して行おうとしていた。
そんな松が、突然、
「もう黒田には居れません」
と書いて出ていく。
「……分からん」
職隆は首を振った。
「何かあったはずだ」
「そうだろうな」
「誰かと揉めたのか?」
「それも分からぬ」
職隆は立ち上がった。
「松の屋敷を調べろ」
「もう調べさせている」
「他に置手紙は?」
「今のところ、これだけだ」
「荷物は?」
「大したものは持ち出しておらぬようだ」
職隆は眉をひそめる。
「……では、どこへ行った?」
その問いに、休夢も答えられなかった。
まだ二人は知らない。
松が、すでに姫路から遠く離れようとしていることを。
「……松の屋敷を調べろ」
職隆の命を受け、家臣が屋敷へ戻る。
しばらくして、再び報告に来た。
「申し上げます」
「何か分かったか」
「はい。松様が乗られたと思われる馬が、一頭おりません」
「馬が?」
「はい」
職隆は黙る。
「ほかには?」
「松様が雇われていた弥八郎という浪人も、屋敷にはおりません」
「…………」
休夢も顔を上げる。
「弥八郎もか」
「はい」
職隆は置手紙を見る。
松はいない。
馬が一頭いない。
そして、弥八郎もいない。
「……他におらぬ者は?」
「確認しております」
しばらくして、別の家臣が答えた。
「惣吉様は、おります」
「……惣吉はおるのか」
「はい。乳母とともに」
職隆は少し考えた。
惣吉は、まだ一歳ほどの子だ。
職隆が松の養子にした子。
「……そうか」
休夢が言う。
「惣吉を置いていったのなら、戻るつもりがあるのかもしれぬ」
だが職隆は首を振った。
「いや」
「なぜだ?」
「赤子を連れて逃げるのは、簡単ではない」
職隆は、静かに置手紙へ目を落とす。
「身軽に逃げるなら、連れていかぬ方がいい」
「…………」
「松は、何かを捨てて逃げたのだろう」
職隆の脳裏に、もう一つの名前が浮かぶ。
「……弥八郎」
休夢も、その意味を察した。
「まさか」
職隆は苦い顔をした。
「まだ決まったわけではない」
そう言いながらも、頭の中では一つの推測が形になり始めていた。
「……弥八郎」
職隆は、もう一度その名を口にした。
「松が雇った浪人だな」
「そうだ」
休夢も頷く。
「だが、あの男が松と一緒に逃げたという証拠はない」
「分かっておる」
職隆は答えた。
「だからこそ、足取りを追う」
すぐに飾磨へ人を走らせた。
しばらくして。
「申し上げます!」
使いの者が駆け込んでくる。
「松様と思われる女人を、飾磨の港で見たという者がおります」
「何をしていた?」
「馬を一頭、売ったようです」
「……馬を売った?」
「はい。その後、船に乗ったと」
職隆の顔が険しくなる。
「船はどこへ向かった?」
「瀬戸内を回る交易船だったようです」
「では、どこで降りた?」
「それが……」
使いの者が頭を下げる。
「船が戻ってこなければ、追うことは難しいかと」
「…………」
職隆は黙り込んだ。
松はいない。
弥八郎もいない。
屋敷の馬も一頭ない。
そして松は、その馬を売って海へ出た。
「……」
休夢が呟く。
「本当に、逃げたのか」
職隆は答えなかった。
ただ、頭の中で一つ一つを繋ぎ合わせていた。
身軽な荷。
売られた馬。
海へ出た松。
そして
いなくなった元浪人の弥八郎。
職隆は、ゆっくりと息を吐いた。
「……まさか、な」
まだ認めたくはなかった。
だが、これだけ揃ってしまえば。
「松は……」
職隆は苦い顔で呟いた。
「男と逃げたのではないか」
休夢は何も言わなかった。
否定する材料がない。
職隆はもう一度、置手紙を見る。
『もう黒田には居れません。申し訳ありません』
「……しかし、あの松がな」
「何を思い詰めたのかは分からぬ」
「ああ」
職隆はため息を吐く。
「だが、出ていったのなら探すしかない」
そして、ふと別のことに気づく。
「……松は、銭をどれほど持って出た?」
「確認させます」
しばらくして返事が来る。
「私財の大半は屋敷に残っております」
「そうか」
職隆は目を閉じる。
ならば。
「手元にあるのは、飾磨で売った馬の代金くらいか」
「おそらく」
「…………」
職隆は頭を抱えた。
「身一つで、馬を売った銭だけ持って、男と海へ逃げたのか……」
休夢も困った顔をする。
「職隆、まだ弥八郎と決まったわけではないぞ」
「分かっておる」
職隆は立ち上がった。
「だからこそ、探すのだ」
そして、家臣へ命じる。
「飾磨だけではない。瀬戸内の港を当たれ」
「はっ」
「松を見つけたら、何としてでも連れ戻せ」
「承知!」
家臣が駆けていく。
職隆はその背中を見送った。
「……松め」
呆れと心配が入り混じった声だった。
「いったい、どこまで行ったのだ……」




