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『興国の悪女 ~性転換転生したら黒田官兵衛の異母姉だったので、弟の尻を叩いて行く』  作者: カワカン
新天地

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第二話 悪女

まだ、空が白み始めたばかりだった。

砥堀の屋敷は、まだ眠っている。

松は物音を立てぬよう、静かに廊下を歩いていた。

荷は少ない。

必要なものだけをまとめた。

これ以上、持っていくつもりはない。

松は足を止める。

その先に、惣吉の部屋がある。


「…………」


戸を開ける。

惣吉は、まだ眠っていた。

一歳ほどの小さな身体を丸め、静かな寝息を立てている。

松はその傍らに座った。


「惣吉……」


返事はない。

松は小さな手を取る。

温かい。


その手を、しばらく握った。


「……ごめんなさい」


小さく呟く。

連れていけない。

この子まで連れていけば、逃げることができない。


それに

この子には、黒田で生きていく場所がある。

松は、眠る惣吉の顔を見る。


「ごめんね……」


もう一度だけ、その手を握る。

そして、ゆっくりと手を離した。

立ち上がる。

振り返る。


「……元気でね」


松は戸を静かに閉めた。

そして誰にも告げることなく、屋敷を出た。

外には、出立のために用意した馬が一頭。

松は馬にまたがる。


「……行きましょう」


手綱を取る。

蹄の音を響かせながら、松は砥堀を後にした。

もう、振り返らなかった。

そのはずだった。


「松様」

「…………?」


背後から、聞き覚えのある声がした。

背後から聞こえた声に、松は馬を止めた。

ゆっくり振り返る。


「……弥八郎?」


そこには、荷を背負った弥八郎が立っていた。


「なぜ、あなたがここに?」

「それはこちらの台詞ですな」


弥八郎は松の馬へ近づいてくる。


「松様、お逃げになるおつもりでしょう?」

「…………」


松の顔が固まった。


「なぜ、それを?」

「分かりますとも」

「何を根拠に……」


弥八郎は肩をすくめる。


「置手紙を残して、荷は少なく、朝早くに出立。しかも馬まで一頭」

「…………」

「それに、昨日までとは明らかに様子が違う」


松は黙った。


「どうして知っているの?」

「あの日、次の間におりましたので」

「…………」


一瞬で、松の顔が赤くなった。


「……あの日?」

「はい」

「まさか……」


松は額を押さえる。


「聞いてたの?」

「聞こえてしまったのです」

「…………」


弥八郎は悪びれる様子もない。


「姫様の声が」

「やめて!」


松は馬上で顔を覆った。


「いや、なかなか情熱的でしたぞ」

「もう! やめて! 恥ずかしい!」


弥八郎は苦笑した。


「まあ、次の間まで聞こえてきたものですから」

「…………」


松はしばらく俯いていた。


「……お願いだから、忘れて」

「それは難しいですな」

「弥八郎!」

「はいはい」


弥八郎は両手を上げる。


「これ以上は申しません」


松は真っ赤な顔のまま、深いため息をついた。


松はしばらく顔を覆っていた。


「……あなた、どこまで聞いたのよ」

「どこまで、と申されましても」


弥八郎は少し考える。


「次の間におりましたので、聞こえたものは聞こえた、としか」

「…………」


松はますます顔を伏せる。


弥八郎はそんな松を見ながら、ふっと表情を改めた。


「しかし、松様」

「……なに?」

「お逃げになるということは」


弥八郎の視線が、松の腹へ向く。


「その腹に宿ったものを、産むおつもりなのでしょう?」


松の表情から、羞恥が消えた。


「……そうよ」


迷いのない声だった。


「官兵衛には、汚点を残させない」


弥八郎は黙って聞いている。


「私がすべて被ればいいだけのこと」


松は前を向いた。


「私が黒田を出ればいい」

「……」

「好き勝手に男と通じて、子まで宿した女」


自嘲するように、松は笑った。


「そういう悪い女になればいいのよ」

「松様……」

「官兵衛は、これから先も黒田を背負っていく」


松は手綱を握る。


「その道に、私のせいで泥を塗るわけにはいかないもの」


弥八郎は、しばらく松の横顔を見つめていた。


やがて、小さく息を吐く。


「……なるほど」


そして、自分の荷を背負い直した。


「では」

「?」

「わたしも播磨にいる理由がないわけですな」


松が振り返る。


「……あなたまで何を言っているの?」

「旅をご一緒させてもらっても?」

「なぜよ」


弥八郎は、少し遠くを見るような顔をした。


「……あの日以来、国元に置いてきた妻子の顔が見たくなりましてな」

「…………」


松は目を細める。


「……現金な人ね、あんた」

「はい」


即答だった。


弥八郎は、何事もなかったように歩きながら尋ねた。


「それで、どちらへ向かわれるおつもりで?」

「堺よ」

「ほう」

「堺なら、私にもいくらかツテがある。身を隠す場所くらいは探せるでしょう」

「なるほど」


弥八郎は頷いた。

そして、何気ない顔で続ける。


「ならば、船に乗る必要がありますな」

「ええ」

「でしたら、わたしもご一緒した方がよいでしょう」

「……どうして?」

「わたしは元流浪の身ですからな」


弥八郎は胸を張った。


「こういうときの身軽さだけは、誰にも負けませぬ」

「自分で言うこと?」

「それに」


弥八郎は懐を探る。

ちゃり、と小さな音がした。

松が眉を寄せる。


「……何、その音」

「少々、屋敷から拝借いたしました」

「は?」

「旅には銭が要りますので」

「あなたねぇ……」

「ご安心を。全部ではありません」

「そういう問題じゃないわよ!」


松は思わず声を荒げた。

だが弥八郎は悪びれない。


「戻るつもりもありませんし、いずれ返す機会もございましょう」

「返す気はあるの?」

「できれば」

「できれば、ね……」


松は呆れたように息を吐く。

けれど、ふと前を見る。


まだ朝靄の残る道。

その先には、飾磨津がある。

そして、その先には海がある。

自分はもう黒田へ戻らない。

官兵衛にも。

父上、養父にも。

惣吉にも。

しばらく会うことはない。


そう思うと、胸の奥が痛んだ。


「……好きにしなさい」

「では、お供いたします」

「ただし」


松は弥八郎を睨む。


「私の足を引っ張ったら置いていくわよ」

「心得ました」


弥八郎は笑った。


「なに、姫様について行けば、船にも乗れましょう」

「……結局、それが目的じゃない」

「それもございます」

「正直ね」


二人はそのまま、飾磨津へ向かって歩き始めた。

松は一度だけ、来た道を振り返る。

遠くに、まだ黒田の領地がある。

そこには、眠っている惣吉もいる。


そして、官兵衛も。


「……ごめんね」


誰に向けた言葉なのか。

弥八郎は何も聞かなかった。

ただ、松の隣を歩いた。



飾磨津へ向かう道を、二人は黙って歩いていた。

やがて潮の匂いが濃くなってくる。

松は足を止めた。


「……海ね」

「ええ」


弥八郎も前を見る。

船が幾つも浮かんでいる。

荷を積む者。

荷を降ろす者。

怒鳴り声。

笑い声。

いつもの港の喧騒だった。

けれど、松にはそれがまるで別の世界のように感じられた。

もう自分は、あそこへ戻れない。

姫として。

黒田の者として。

官兵衛の姉として。

そのすべてを置いてきた。


松は懐に手を入れる。

そこには、ほんの少しの銭しかない。


「……これで、しばらくは何とかなるわね」

「何とかなりますとも」


弥八郎が笑う。


「堺へ着けば、あとはどうとでも」


松は答えない。

視線だけを海へ向ける。

その向こうに、黒田のある播磨がある。


そして、その播磨には、官兵衛がいる。


「……官兵衛」


小さく呟いた。

胸が締め付けられる。

けれど、涙は流さなかった。


「生きなさいよ」


誰もいない海へ向かって言う。


「私がいなくても」


そして、一度だけ深く息を吸った。


「あなたは、天下を狙える男なんだから」


弥八郎が隣で黙っている。

松は振り返らなかった。


「行きましょう」

「はい」


二人は船へ向かって歩き出す。

その背中は、もう黒田の屋敷へ戻ることはない。


だが、松はまだ知らない。

自分が消えたことで、黒田の中に残されたものが、これから大きな波紋を広げることを。


そして、


自分が「悪い女」としてすべてを背負って海へ出たその日から


黒田官兵衛の人生もまた、大きく動き始める。


船に乗る直前。

松は、もう一度だけ振り返った。

遠くに見える播磨の山々。

その向こうに、黒田の屋敷がある。

そして、そこには惣吉がいる。


「……ごめんね」


今度は、はっきりと口にした。

小さな手を握ったときの感触が、まだ残っている。


けれど、


「あなたは、黒田で生きなさい」


それだけを残していく。

松は涙を拭った。

そして顔を上げる。


「行きましょう、弥八郎」

「はい」


二人が船へ乗り込む。

船がゆっくりと岸を離れていく。

松は船尾から、遠ざかる播磨を見つめ続けた。

もう戻らない。

戻ってはいけない。


自分が悪女になればいい。

自分がすべてを背負えばいい。


そうすれば、


官兵衛は、黒田は、生き残れる。


「……これでいい」


松は小さく呟いた。

その声は、潮風に消えていった。


一方、同じ頃、姫路では、


「まだ見つからぬのか!」


職隆の怒声が響いていた。

松が残した一枚の書状。

そこに記された言葉は、たった一つ。


『もう黒田には居れません。申し訳ない』


誰も、その理由を知らない。

誰も、松が何を背負って出ていったのかを知らない。

そして官兵衛もまだ知らない。


自分との一夜が

姉を黒田から連れ出したことを。


海の上、松は、遠ざかる播磨を見つめていた。

そして最後に一度だけ。


「……さようなら」


その言葉を海へ落とした。

船は進む。


堺へ

よくは知らない土地へ。

新しい人生へ。


黒田の姫、松。


その名を捨てて。


自ら「悪女」となるために。



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