第三話 恩人がネギしょって
船が、堺の港へ入った。
潮の匂い。
荷を運ぶ人夫たちの掛け声。
船から降ろされていく荷。
行き交う商人たち。
松は港の喧騒を眺めながら、ふっと息を吐いた。
「……堺ね」
黒田を出て、ここまで来た。
もう戻るつもりはない。
少なくとも、今は。
「松様、こちらで?」
隣を歩く弥八郎が尋ねる。
「ええ」
松は頷いた。
「以前から商売で付き合いのある商家があるの」
「ほう」
「まずは、そこを頼るわ」
堺で身を隠すなら、まったく知らない場所よりも、昔から付き合いのある相手のほうがいい。
何より、
松には、砥堀で商売をしていた頃からの繋がりがある。
二人は港から町へ入り、目的の商家へ向かった。
やがて見覚えのある店構えが見えてくる。
店先では、何人もの者が忙しそうに荷を運んでいた。
松は足を止める。
「……ここね」
そして店へ入る。
「ごめんください」
店の者が振り返る。
「はい、どちら様で、」
そこで、目を見開いた。
「……え?」
奥から主人が出てくる。
そして松の姿を見るなり、驚いた顔になった。
「これはこれは!」
「松様ではございませんか!」
松は小さく笑った。
「お久しゅうございます」
「いやぁ……これは驚きましたな!」
主人は嬉しそうに頭を下げる。
「こうしてお会いするのは、布団を仕入れてほしいとお申し出をしに行ったとき以来ですな」
「そうでしたね」
主人は店内を見回す。
以前とは比べものにならないほど、店は賑わっている。
「おかげさまで」
主人は満面の笑みを浮かべた。
「えらい繁盛させてもろとります」
松も、その言葉に少しだけ表情を緩めた。
「それは、よかったです」
「松様のおかげでございますよ」
そう言って笑う主人。
だが、松には、そんな商売の話を楽しむ余裕はなかった。
今日は、別の頼みがある。
松は一度だけ息を整えた。
「……ところで」
主人が首を傾げる。
「はい?」
松は、静かに口を開いた。
「少し……お願いがあるのです」
主人の笑顔が止まった。
「お願い、でございますか?」
「ええ」
松は一度、弥八郎を見る。
そして主人へ向き直った。
「少しの間……」
ほんのわずかに間を置いて。
「私を、匿っていただけないでしょうか」
「…………」
主人の表情が止まった。
「匿う……?」
「はい」
松はそれ以上、事情を話さない。
話せない。
黒田を出てきたこと。
なぜ出てきたのか。
腹に宿したもののこと。
それを話すわけにはいかなかった。
主人も、松の様子を見て何かを察したのだろう。
「……なるほど」
しばらく黙っていた主人が、松の後ろへ視線を向ける。
そこには弥八郎がいる。
主人は松を見る。
弥八郎を見る。
そして、
すっと人差し指を立てた。
「……これですか?」
「…………」
松は固まった。
弥八郎も、指を向けられて目を瞬かせる。
「……わたしですか?」
松の顔が、一気に熱くなる。
「ち、違」
言いかけて、止まった。
どう説明しろというのだ。
主人は慌てて手を振った。
「まぁまぁ」
「…………」
「なにやら、わけありのようですな」
「……ええ」
松は目を逸らす。
「詳しいことは……聞かないでいただけると」
「もちろんでございます」
主人は、それ以上追及しなかった。
そして少し考えてから、
「黒田の方々が、こちらへお探しに来られることもございましょうな」
「……はい」
「そのときは、」
主人はにこりと笑った。
「うまくごまかしておきます」
松が顔を上げる。
「……ありがとうございます」
「なに」
主人は笑う。
「松様には、こちらこそ大きな御恩がございます」
そして、何でもないことのように続けた。
「しばらくでしたら、どうとでもなります」
「……本当に、ありがとうございます」
松は深く頭を下げた。
主人はそんな松を見て、少しだけ笑う。
「では、立ち話もなんですから」
「はい」
「私の別宅がございます」
「別宅?」
「ええ」
主人は店の奥へ向かう。
「そちらをお使いくださいませ」
松は思わず目を丸くした。
「そんな……そこまでしていただくわけには、」
「お気遣いなく」
主人は振り返る。
「松様には、それだけのことをしていただいておりますから」
松は返す言葉がなくなった。
「……では、お言葉に甘えます」
「ええ。どうぞ」
こうして松は、堺で、身を隠す場所を得ることになった。
主人に案内され、松と弥八郎は別宅へ向かった。
店から少し離れたところに、その屋敷はあった。
門をくぐったところで、松は足を止める。
「…………」
庭がある。
しかも、かなり広い。
建物も立派だ。
松が想像していたのは、せいぜい人目につかない小さな家だった。
「……あの」
「はい?」
「ここ、本当に別宅ですか?」
主人は笑った。
「ええ。私の別宅でございます」
松はもう一度、屋敷を見る。
「……随分と立派ですね」
「いやぁ」
主人は嬉しそうに屋敷を見上げた。
「これも、松様のおかげでしてな」
「私の?」
「ええ」
主人は振り返る。
「以前、松様から布団の商いのお勧めいただいたでしょう?」
「……ええ」
「あれが、えらい繁盛しましてな」
主人は笑う。
「おかげさまで、こうして別宅までこさえることができました」
「…………」
松は何とも言えない顔になる。
そんなつもりで商売を教えたわけではない。
ただ、少しでも売れるものをと思って提案しただけだった。
主人が屋敷の中を指す。
「それに、家人もおりますので、お世話をさせていただきます」
「家人まで……?」
「はい」
「いや、そこまでしていただくのは……」
「お気遣いなく」
主人は笑った。
「どうぞ、ご自由にお使いくださいませ」
「…………」
松は屋敷を見回す。
立派な屋敷。
庭。
家人。
そして、ここを自分たちのために使わせてくれるという。
「……なんか」
松が小さく呟いた。
「えらいところに来てしまったかも」
弥八郎が隣で屋敷を眺める。
「わたしは、たいそう結構なところへ来たと思いますが」
「あなたは黙ってて」
「へい」
主人は笑いながら一礼した。
「では、私は店へ戻りますので」
「はい。本当にありがとうございます」
主人が去っていく。
松はその背中を見送った。
しばらく黙っていたが、
「……なんか、悪い気がしてきたわ」
弥八郎を見る。
「あなた」
「はい?」
「屋敷から拝借したものあるでしょ、主人に渡しなさいよ」
弥八郎は少しだけ目を逸らした。
「……承知しました」
「まさか、まだ何か持ってるの?」
「いや、これ一つだけでございます」
そう言って、懐へ手を入れる。
そして取り出したものを見て、
松の目が丸くなった。
「…………あんた」
弥八郎の手の中にあったのは。
ビードロで作られた、小さな器だった。
松は弥八郎の手元を見つめた。
「とんでもないもん持ってきてるじゃない」
「そうですか?」
「これ、砥堀で作らせた試作品よ」
松は器を指差す。
「まだ市場に出してないの」
弥八郎は器を眺める。
「そうでしたか」
「そうでしたか、じゃないわよ」
松は呆れたように息を吐く。
「あなたのことだから、銀粒とか、せいぜい銭を少し持ってきたんだと思ってたのに……」
「銀粒もございますが」
「……まだ持ってるの?」
「はい」
松は額を押さえた。
「もう……」
そのとき、屋敷の外から声がした。
「松様?」
主人だった。
「何かございましたかな?」
松は弥八郎を見る。
「……ほら。渡しなさい」
「はい」
弥八郎は器を主人へ差し出した。
主人は受け取ると、しばらく黙って眺める。
「これは……」
光に透かす。
角度を変える。
指先で器の縁を確かめる。
「素晴らしいですな」
「ええ」
松が答える。
「ビードロで作った器です」
「ビードロ……」
主人はもう一度、器を見る。
「これを、松様のところで?」
「そう。まだ試作品だけど」
「……まだ市場には?」
「出してません」
「なるほど」
主人の声が、少し変わった。
松は気づく。
さっきまでの主人とは違う。
何かを考えている。
そして主人は、器から顔を上げた。
「松様」
「はい?」
「これを作れる方が」
「え?」
「こちらに、いらっしゃるのですか?」
松は首を傾げた。
「いや、知ってるぐらいです私は、」
主人の目が輝いた。
「そうですか」
「……?」
「それは……」
主人は器を大事そうに握ったまま、ふっと笑った。
「これは、面白いことになりそうですな」
松は嫌な予感がした。
「……あなた」
「はい?」
「今、何か考えたでしょう」
主人は笑う。
「少々」
その顔は、完全に、商人の顔だった。
主人は、器を手にしたまま黙っていた。
透明な器を、光に透かす。
裏返す。
縁を見る。
そして、ふと松へ尋ねた。
「松様」
「はい?」
「この器は、本当に、まだ市場には出しておられないので?」
「ええ」
「そして、砥堀ではこれを作るための技術を?」
「……試しているところです」
主人は頷いた。
「なるほど」
もう一度、器を見る。
その顔から、先ほどまでの驚きが消えていた。
代わりにあるのは、
商人の顔だった。
「作れる職人がいる」
「……?」
「松様は、その作り方をご存じである」
主人は指を一本立てる。
「ならば、松様にご指導いただければよい」
もう一本。
「職人ならば、私にも、いくらか当てがございます」
さらに一本。
「職人を集める」
そして器を見つめる。
「工房を作る」
松は、ぽかんと主人を見る。
「…………」
主人は、楽しそうに笑った。
「堺で作り、堺で売る」
「ちょっと待って」
松が口を挟む。
「私、隠れるために来たのよ?」
「もちろん、承知しております」
主人は即答した。
だが、その目は完全に商売を見ている。
「ですが松様」
器を両手で大切に持つ。
「これほどのものの作り方をご存じの方が、こちらにおられる」
そして、
「しかも、私には職人のあてがある」
松は黙る。
主人はにっこり笑った。
「ならば、工房を作らぬ手はないでしょう」
「…………」
弥八郎が横から呟く。
「松様」
「なに?」
「これは完全に……」
主人を見る。
「商人の顔ですな」
松は深いため息をついた。
「……でしょうね」
自分は黒田から逃げてきた。
もう何も考えず、しばらく身を隠すつもりだった。
なのに。
堺へ着いた途端、
また新しい商売の話が始まってしまった。
主人にとって松は、
かつて布団の商いを教えてくれた恩人。
そして今、
新しい利益の種まで背負って、目の前に現れた恩人だった。
松は器を見る。
それから弥八郎を見る。
「……あなたが持ってこなければ、こんなことにはならなかったのに」
「しかし、主人はたいそう喜んでおられますぞ」
「それは……そうだけど」
主人は満面の笑みを浮かべた。
「松様」
「……はい」
「工房の話、少しだけでも、」
「…………」
松は空を仰いだ。
「私、逃げてきたんだけどなぁ……」
堺での新しい暮らしは。
どうやら、静かに身を隠すだけでは終わりそうになかった。




