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『興国の悪女 ~性転換転生したら黒田官兵衛の異母姉だったので、弟の尻を叩いて行く』  作者: カワカン
新天地

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第四話 堺の片隅で

堺へ来て、しばらく経った。

松は、商家の主人が用意してくれた別宅で暮らしていた。

最初のうちは、思っていたよりも忙しかった。


「松様、こちらをお願いします」

「ええ」


工房から職人が持ってきた紙を、松は広げる。

そこには、ビードロの器を作るための簡単な図が描かれていた。


「ここは、こうしたほうがいいわ」


松は筆を取り、図の一部を書き直す。


「この形にしてから、こちらを合わせてみて」

「なるほど……」

「それと、厚さはできるだけ揃えて」

「はい!」


砥堀で試していたことを思い出しながら、松は職人たちへ一つずつ伝えていく。

自分で作るわけではない。


ただ、どうすれば形になるのか。


それを知っている。

だから、それを伝える。

そうして工房では、少しずつ試作品が作られていった。


「では、また試してみてください」

「承知しました!」


職人が頭を下げて帰っていく。


松はその背中を見送った。


「……さて」


筆を置く。

以前なら、このまま工房へ顔を出していた。

職人が実際にどう作っているのかを見るために。

けれど最近は、


「……うっ」


松は縁側に座ったまま、しばらく動かなかった。


「……最近、こんなのばかりね」


以前なら、これくらいで休もうとは思わなかった。

砥堀にいた頃も、やることはいくらでもあった。

人と会い、話を聞き、帳面を見て、工房へ行く。

暇があれば、次に何をするか考えていた。


それが今は、少し歩いただけで、身体が重くなる。


「松様」


後ろから家人の声がする。


「大丈夫ですか?」

「ええ。ちょっと気分が悪くなっただけ」

「でしたら、今日はもうお休みくださいませ」

「でも、工房が……」

「先ほど、職人の方がお見えになりました」

「え?」

「試したものをお持ちになっておりましたので、こちらへ置いていかれました」


松は振り返る。

そこには、布に包まれた小さな包みが置かれていた。


「……そう」


松は手を伸ばしかける。

けれど、途中で止めた。


「今日は、もういいわ」

「はい」

「工房へ行くのも、しばらく控えたほうがいいかもしれないわね」


そう言って、松は苦笑する。


「私が行かなくても、職人たちは作業してくれてる。」


以前なら、自分が直接見なければ気が済まなかった。

けれど今は違う。

松が最初に図を描き、作り方を説明した。

職人たちはそれをもとに試している。

ならば、今は任せてもいい。


「……私も、少し休まないとね」


松は横になった。

天井を眺める。

静かな別宅。

外からは、堺の町の音がかすかに聞こえてくる。


「…………」


しばらくして。

また胃の奥がむかついた。

松は目を閉じる。


「……これが、つわりなのね」


まだ、自分でも不思議だった。

自分の中に、本当に子がいる。

そのことを、身体のほうが先に教えてくれているようだった。


昼過ぎ、松が縁側で横になっていると、屋敷の者が声を掛けてきた。


「松様。工房の方がお見えになりました」

「……工房?」

「はい。試作品をお持ちです」

「そう」


松はゆっくり身体を起こした。

以前なら、自分から工房へ行っていた。

けれど今は、そこまで歩いていくのが少しつらい。


「こちらへ通して」

「承知しました」


しばらくして、職人が一人、布に包んだものを持って入ってきた。


「松様。先日いただいた図をもとに、試してみました」

「見せて」


布が開かれる。

中から、ビードロの器が出てきた。

松はそれを手に取った。

光にかざす。


「…………」


以前のものより、ずっといい。

形も整っている。


「ここ」


松は器の縁を指でなぞった。


「前より薄くなってていいわね」

「はい。松様に教えていただいた通りに」

「うん。いいと思う」


職人の顔が明るくなる。


「では、」

「ただ」


松が器を少し傾ける。


「ここの厚さが、まだ少し違うわ」

「……なるほど」

「そこをもう少し揃えてみて」

「承知しました」


職人は器を受け取る。


「また試したものを持ってまいります」

「ええ。お願い」


職人が帰っていく。

松は、その背中を見送った。


「……これなら」


自分が毎回、工房へ行かなくてもいい。

職人たちはもう、自分の説明を聞いて動けるようになっている。

最初は何度も図を描いた。

形を説明した。

失敗したものを見て、どこが悪いのかを伝えた。

それを繰り返してきた。


だから今は、試作品を持ってきてもらえばいい。


「任せても……大丈夫なのね」


松は小さく呟いた。

少し前までなら、工房へ行けないことに焦っていたかもしれない。

けれど今は、身体が休めと言っている。


ならば、休めばいい。

松は再び縁側へ横になる。

庭を眺めながら、そっと腹へ手を置いた。


「……あなたのせいかしらね」


もちろん返事などない。

松は少し笑った。


「まあ、いいわ」


目を閉じる。


「たまには、ゆっくりするのも悪くないものね」


工房の者が帰ったあと。

松は、そのまま縁側に座っていた。

以前なら、次の仕事を考えていただろう。

次に何を作るか。

どの職人に任せるか。

どこへ売るか。

考え始めれば、いくらでも出てくる。


けれど今は、


「……眠い」


ぽつりと呟く。

横になる。

庭から、風に揺れる木の葉の音が聞こえる。

何もしない。

ただ、ぼんやりと時間が過ぎていく。

最初の頃は、これが落ち着かなかった。


「私、こんなに暇でいいのかしら」


そう思っていた。

黒田にいた頃は、暇などなかった。

代官としての仕事もあった。

商売もあった。

工房もあった。

官兵衛のこともあった。

何かをしていなければならないような毎日だった。


けれど今は、


「……別に、いいわよね」


誰に言うでもなく呟く。

身体が動かないのなら、動かなくていい。

工房は職人たちが動かしてくれている

商売も、堺の主人が見てくれている。


ならば、今くらいは。

松は目を閉じた。

しばらくして、ふと思い出す。


「……そうだ」


起き上がる。

部屋の隅に置いてある布を取り出した。

膝の上へ広げる。


「これくらいなら……できるわね」


針と糸を手に取る。

縫い始める。

一針。

また一針。

小さな布を、丁寧に縫っていく。


これは商売でもない。

誰かに頼まれた仕事でもない。


ただ、これから生まれてくる赤子のためのものだった。


突然、胃の奥が込み上げてきた。

松は慌てて口元を押さえる。


「……また?」


少し前から、こういうことが増えていた。

匂いが気になる。

身体が重い。

少し歩いただけでも、妙に疲れる。

松は縁側へ腰を下ろした。


「…………」


庭を眺める。

静かな午後だった。

工房では、今日も職人たちが働いている。

けれど松は、今日はもう動く気になれなかった。


「……工房、行けないなぁ」


そう呟いて、松は小さく息を吐いた。



松は布を膝の上に広げた。

小さな布だった。

大人の衣なら、これの何倍もある。

それなのに、これだけの大きさしかない。


「……こんなに小さいのね」


思わず笑ってしまう。

針に糸を通す。

一針。

布を返す。

もう一針。

静かな部屋に、針を動かす小さな音だけが響く。

赤子のころも。

おしめ。

生まれてから着せる小さな衣。


まだ先のことなのに、松は少しずつ縫い始めていた。


「これは……もう少し大きくしたほうがいいかしら」


作りながら考える。


「でも、大きすぎても困るわね」


誰かに見せるわけでもない。

売るわけでもない。

失敗したって、誰に叱られるわけでもない。

それでも松は、真剣だった。


ふと、手が止まる。

松は縫いかけの小さな衣を見つめた。

そして、そっと自分の腹へ手を置く。

まだ、外から見ても何も分からない。

動くこともない。


それでも、


「……いるのよね」


小さく呟いた。

黒田を出た。

官兵衛から離れた。

自分が悪女になればいい。

そう思って、ここまで来た。


なのに、


今、自分の膝の上にあるのは

その「悪女」が産もうとしている、小さな命のための衣だった。

松は少しだけ目を細める。


「……あなたには、何も関係ないものね」


官兵衛がどうなるのか。

黒田がどうなるのか。

自分が何と呼ばれるのか。

この子には関係ない。


「だから……」


もう一度、針を取る。


「ちゃんと、してあげないとね」


一針。

また一針。

外では、堺の町が忙しく動いている。

工房では、職人たちが試作品を作っている。

商家の主人は、きっと今日も商売のことを考えている。


けれど、この別邸の中では。


松はただ静かに

まだ見ぬ我が子のために、小さな衣を縫っていた。


それから、松の一日は少しずつ変わっていった。


朝、以前なら起きれば、すぐに今日やることを考えていた。

けれど今は、身体の具合を確かめるところから始まる。


「……今日は、大丈夫そう」


そう思った日でも、少しすると気分が悪くなる。

そんな日が増えていた。

だから無理はしない。

工房へ行くこともなくなった。

代わりに、時折、職人が試作品を持ってくる。


「松様、こちらを」

「ありがとう」


松はそれを眺める。


「うん。前よりずっといいわ」

「ありがとうございます」

「でも、ここはもう少し……」


そんな短いやり取りだけで、職人はまた工房へ戻っていく。

松が動かなくても、仕事は進んでいる。


それが少し、不思議だった。


「……任せても、大丈夫なのね」


そう思えるようになった。

そして、空いた時間。


松は縁側で昼寝をしたり、庭を眺めたりする。

何もない時間。

以前なら、そんな時間を持て余していた。


けれど今は、

それも悪くないと思える。

そして今日も。

松は小さな布を膝に置いていた。

針を動かす。

一針。

また一針。

小さな衣が、少しずつ形になっていく。


「……これでいいかしら」


出来上がったものを広げる。

まだ誰も着ていない。

けれど、いつか着る子がいる。

松はそれを大切に畳んだ。

そして、そっと腹へ手を置く。


「ゆっくりでいいからね」


誰に聞かせるでもなく、呟く。


「私も、ゆっくりするから」


外では、堺の町が今日も忙しく動いている。

職人も働いている。

商人も荷を運んでいる。

その一方で、別邸の中だけは静かだった。


松は小さな衣を胸元へ抱えた。


黒田を出てから初めて、

何かを成し遂げるためではなく。

誰かを守るためだけでもなく。


ただ、これから生まれてくる子と過ごすために


ゆっくりと流れていく時間を、松は覚え始めていた。



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