第五話 母子ともに
静かな朝だった。
堺の別邸、その一室。
松は布団の中で眠っていた。
顔には、まだ出産の疲れが残っている。
昨夜からほとんど眠ることもできず、ようやく眠りについたのだ。
そのすぐ隣には、小さな赤子。
こちらも、泣き疲れたのか、すやすやと眠っている。
家人が二人の様子を静かに見守っていた。
そこへ、商家の主人がそっと顔を出す。
「……どうですかな?」
家人が振り返る。
「お休みになっております」
主人は部屋の中を見る。
眠っている松。
そして、その隣で小さく丸まっている赤子。
しばらく何も言わずに眺めていた。
「……母子ともに、寝ておりますか」
「はい」
主人はほっとしたように息を吐く。
「それは……さいわいですな」
起こさぬよう、そっと襖を閉める。
部屋の中には、また静けさが戻った。
松は眠っている。
そのすぐそばで、生まれたばかりの赤子も眠っている。
二人とも、まだ知らない。
今日から始まる毎日が、
昨日までとは、まるで違うものになることを。
しばらくして。
松がゆっくりと目を開けた。
「…………」
身体が重い。
起き上がろうとすると、全身に鈍い痛みが走った。
「……痛い」
昨日までとは、身体の感覚がまるで違う。
それでも、隣から小さな声が聞こえてくる。
「……ふぇ……」
松がそちらを見る。
赤子が、もぞもぞと動いていた。
「……起きたの?」
松は身体を起こす。
まだ本当なら横になっていたい。
けれど赤子は待ってくれない。
「はいはい……」
そっと抱き上げる。
腕の中に収まる、小さな身体。
「どうしたの?」
赤子は答える代わりに、また小さく泣いた。
家人が近づいてくる。
「松様、お乳を欲しがっているのかもしれません」
「そうね……」
松は赤子を抱き直した。
授乳を始める。
赤子はすぐに静かになった。
「……よく飲むわね」
松は小さく笑った。
ようやく落ち着いたと思ったら、
今度は、おしめを替えなければならない。
「……あら」
家人が準備をする。
松もまだ身体が思うように動かない。
それでも、自分の子の世話をする。
おしめを替える。
身体を拭いてやる。
眠そうになった赤子を抱いて、ゆっくり揺らす。
「ほら……もう眠いでしょう?」
赤子の目が閉じていく。
「よしよし……」
ようやく眠った。
松はほっと息を吐いた。
そして、
「……私も、少し寝ようかしら」
布団へ戻ろうとした、そのとき。
「ふぇ……」
「…………」
松は足を止めた。
赤子が、また泣き始めた。
「……今、寝たところだったでしょう?」
もちろん返事はない。
松は苦笑した。
「はいはい……」
もう一度、赤子を抱き上げる。
「母親って……」
まだ出産の疲れが残っている身体で、松は赤子を抱きながら呟いた。
「こんなに忙しいものなのね……」
しばらくして。
赤子はまた泣き始めた。
「……はいはい」
松は抱き上げる。
まだ身体は痛い。
できることなら、そのまま横になっていたい。
けれど、腕の中の赤子はそんなことなど知ったことではない。
「お乳ね」
松が抱き方を整えると、赤子はすぐに口をつけた。
「…………」
一生懸命に飲んでいる。
松はその小さな顔を眺める。
「よく飲むわねぇ」
しばらくしても、まだ飲んでいる。
「……まだ?」
松が少し笑う。
「さっき飲んだでしょう?」
それでも赤子は一向に離れない。
「あなた、そんなにお腹が空いてたの?」
家人が傍らで微笑んでいる。
「元気なお子でございますね」
「ええ……」
松も笑う。
けれど、授乳が終われば終わったで、次はおしめ。
おしめを替えれば、今度は眠らせる。
抱いて、背中をゆっくり撫でる。
「よしよし……」
赤子がようやく眠る。
松も一緒に布団へ横になる。
「……今度こそ」
目を閉じる。
ほんの少し。
本当に少しだけ眠ったところで――
「ふぇ……」
「…………」
松はゆっくり目を開けた。
「また?」
赤子が泣いている。
松は天井を見上げる。
そして、小さく息を吐いた。
「……母親って、本当に休めないのね」
そう言いながらも、松の顔には笑みが浮かんでいた。
赤子がようやく眠った。
松はそっと布団へ寝かせる。
「……やっと寝た」
松もその隣へ腰を下ろした。
少し身体を休めようとして、ふと自分の身体へ目を落とす。
出産してから、身体の感覚が変わっている。
まだ胸は張っている。
少し触れるだけでも痛い。
「……そうよね」
松は自分の胸元を見て、苦笑する。
以前とは明らかに違う。
それだけではない。
鏡に映る自分の姿も、出産前とは違っていた。
「体形も……崩れちゃったなぁ」
腰回りも。
胸も。
体全体の感じが変わっている。
松はしばらく、自分の身体を眺めていた。
以前の自分なら、もっと気にしていただろう。
動きやすい身体が好きだった。
どこへでも行ける。
何でもできる。
そんな身体を気に入っていた。
それが今は、出産を終えた身体。
まだ回復途中で、思うように動けない。
「…………」
松は隣を見る。
小さな赤子が眠っている。
さっきまで自分の乳を一生懸命飲んでいた子。
おしめを替えた子。
抱いて眠らせた子。
松は、そっとその頬へ指を触れた。
「……ほんとうに」
小さく笑う。
「母になったのね、私」
松は眠っている赤子を眺めていた。
「……ほんとうに、母になったのね。私」
そう呟いてから、ふと胸の張りを感じる。
「……痛いなぁ」
まだ身体は出産から回復しきっていない。
それでも、赤子はそんなことなど知らない。
「……ふぇ」
小さな声。
松は苦笑した。
「はいはい。起きたのね」
赤子を抱き上げる。
そして、また乳を与える。
赤子は夢中になって飲み始めた。
松はその小さな頭を見ながら、ぽつりと呟く。
「……もうちょっと飲んで」
赤子は一生懸命に飲んでいる。
「お母さん、まだ張ってて痛いのよ」
もちろん返事はない。
しばらくすると、赤子は満足したのか、口を離した。
「……もう終わり?」
松は思わず笑った。
「もう少し飲んでくれてもいいのに」
赤子はそのまま、松の腕の中で眠り始める。
「……しょうがないわね」
松は赤子をそっと抱き直した。
身体はまだ痛い。
眠い。
疲れている。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
松は眠る赤子の顔を眺める。
「……あなたが元気なら、それでいいわ」
静かな別邸。
外では堺の町が、いつも通り動いている。
商人も。
職人も。
そして、松の工房も。
その一方で、この部屋では、母になった松が、小さな我が子を抱いている。
黒田を出奔したあの日から始まった、新しい人生。
その先に待っていたのは、
忙しくて、眠れなくて、それでも幸せな、母親としての日々だった。




