閑話 龍野への施し
姫路
青山での戦が終わってから、しばらくが経っていた。
屋敷へ戻ってきた官兵衛を、善助が出迎える。
官兵衛が戻ってくると、善助が待っていた。
「若様、お帰りなさいませ」
「ああ」
「昨日は戻ってこられませんでしたが、何かありましたか?」
「いや。姉上のところで酒を飲んだだけだ」
「……酒だけですか?」
「そうだ」
善助は少し考える。
「松様のところなら、うまい飯も出たでしょう?」
「…………」
「俺があちらで世話になっていた頃は、飯が楽しみでしたからね」
「そうか」
「若様はいいですな。酒まで飲んで、うまい飯まで食べて」
善助は羨ましそうに言う。
官兵衛は、ふと善助を見る。
「……お前」
「はい?」
「昨日、姉上のところには来ていないよな?」
「来ておりませんが?」
「……そうか」
なぜか妙に引っ掛かる。
「まあ、いい」
官兵衛は話を切り替えた。
「姉上から、頼まれた仕事がある」
善助が苦笑する。
官兵衛は懐から書き付けを取り出した。
「龍野へ行ってもらう」
官兵衛はいつものように返したものの、善助の前を通り過ぎようとしてふと足を止めた。
「……善助」
「はい?」
「お前、今日は暇か?」
善助は少し考えた。
「若様。わしを見て、その聞き方はどういう意味でございましょう」
「暇なのか?」
「暇ではございませんが……」
「なら、ちょうどいい」
官兵衛は懐から包みを取り出した。
ずしり、と音がする。
善助の顔が少し引きつった。
「……なんでございましょう?」
「銭だ」
「それは見れば分かります」
官兵衛は包みを善助へ渡した。
「これを持って、龍野へ行け」
「龍野へ?」
「姉上から預かった」
善助が包みを見る。
「松様から?」
「ああ」
青山の戦で、龍野周辺にも被害が出ている。
焼けた家もある。
暮らしを立て直せぬ者もいる。
その者たちへ渡すための金だった。
「村々を回って、戦で困っている者へ渡せ」
「……わしが、ですか?」
「そうだ」
善助は包みを持ったまま、官兵衛を見る。
「それだけで?」
「いや」
官兵衛は懐から一枚の紙を取り出した。
「村の名を書け」
「村の名?」
「何軒あるか。何軒が焼けたか。どれほど被害を受けたか。特に困っている家があれば、それもだ」
善助の顔から、少しずつ笑みが消えていく。
「……金を配るだけではない、と」
「そういうことだ」
「随分と細かい仕事ですな」
「あとで役に立つ」
官兵衛はそれだけ言った。
善助は紙を受け取る。
「分かりました」
そして包みを抱え直した。
「では、龍野へ行って参ります」
「頼んだぞ」
「はい」
善助は歩き出す。
だが数歩進んだところで、ふと振り返った。
「若様」
「なんだ?」
「龍野のこと、わしらはあまり知りませんが」
「ああ」
「それでも行け、と?」
官兵衛は少しだけ笑った。
「だから、お前が行くんだ」
「……なるほど」
善助は今度こそ歩き出した。
このときの善助は、まだ知らなかった。
自分がこれから集めることになるものが、ただの見舞金の記録ではないことを。
龍野へ着いた善助は、まず一番近い村へ向かった。
村へ入ると、顔を見合わせる者が多い。
見慣れぬ男が、黒田の家紋をつけた者たちを連れて歩いているのだから無理もない。
善助は村の者に声をかけ、村長のもとへ案内してもらった。
「黒田様の使いでございます」
「黒田様の……?」
村長は訝しげな顔をした。
善助は持ってきた包みを開いた。
「戦で被害を受けた村へ、見舞いの金を届けております」
村長の表情が変わる。
「……ありがたいことでございます」
「まずはこちらを」
金を渡す。
村長は何度も頭を下げた。
だが善助は、それで終わらなかった。
懐から紙を取り出す。
「それと、いくつか聞きたいことがございます」
「はあ」
「この村には、何軒ほど家がありますか?」
「……四十ほどでございます」
善助は書き留める。
「戦で焼けた家は?」
「六軒。壊れた家を合わせれば、十軒ほどになります」
「死人は?」
村長の顔が曇る。
「……五人」
「分かりました」
善助は一つずつ記していく。
「まだ戻ってきていない者は?」
「何人かおります」
「特に困っている家は?」
村長は少し考えてから、何軒かの名を挙げた。
善助はそれも書いた。
一通り聞き終えると、紙を見返す。
「これでよし」
「……黒田様は、そこまで調べられるので?」
「若様から、そう言われております」
善助は何気なく答えた。
だが村長は、しばらく善助を見ていた。
やがて、ぽつりと言う。
「もしよろしければ……近くにも、戦で困っている村がございます」
善助が顔を上げる。
「ほう」
「こちらから話を通しましょう。黒田様がこうして助けてくださったと知れば、あちらも受け入れるでしょう」
善助は少し考えた。
そして紙を畳む。
「では、お願いできますか」
「もちろんでございます」
こうして善助は、最初の村を後にした。
手元には、渡した金の記録と、村の被害を書き留めた一枚の紙。
そして
次に向かう村の名が、一つ増えていた。
次の村では、最初の村長から話が通っていた。
「黒田様の使いの方ですな」
「はい」
善助は頷き、同じように包みを渡す。
「戦で被害を受けた者への見舞いです」
「これは……ありがたい」
村長は深く頭を下げた。
善助は礼を受けると、いつものように紙を取り出した。
「それと、いくつか伺いたい」
「何でしょう?」
「この村の家数を」
そこから先は、最初の村と同じだった。
家の数。
焼けた家。
壊れた家。
亡くなった者。
まだ戻っていない者。
特に困っている家。
善助は聞いたことを一つずつ書き込んでいく。
「……これでよし」
紙を畳もうとしたところで、村長が口を開いた。
「黒田様は、これから龍野を治められるのでしょうか?」
善助の手が止まった。
「さあて」
少し考えてから答える。
「わしには分かりません」
「そうですか……」
「今は、困っている者へ金を届けに来ただけです」
それを聞いて、村長は小さく頷いた。
「それでも、ありがたいことでございます」
「そう言っていただければ、若様も喜ばれるでしょう」
善助は立ち上がった。
「では、次の村へ」
「お待ちくだされ」
村長が呼び止める。
「この先にも一つ、村がございます」
「そこも被害が?」
「はい。こちらより酷いかもしれません」
善助は少しだけ眉を上げた。
「……場所は?」
村長が道を教える。
「それなら、行ってみましょう」
善助はまた紙に村の名を書き加えた。
それからも同じことが続いた。
一つの村へ行く。
金を渡す。
被害を聞く。
記録する。
そして
「ほかに困っている村はありませんか?」
そう尋ねる。
すると、村長たちは別の村の名を教えてくれる。
「向こうにもございます」
「川を越えた先に」
「あちらの村にも、まだ戻れぬ者がおります」
善助は、そのたびに紙へ書き込んでいった。
最初は数枚だった紙が、いつの間にか増えている。
村の名が増える。
家の数が増える。
被害の数が増える。
そして、それぞれの村から聞いた話も増えていく。
「……龍野って、こんなに村があったのか」
善助は歩きながら、帳面を眺めた。
だが、まだ善助自身は気づいていなかった。
自分が今、金を届けながら
龍野の村々を、一つずつ繋いでいることに。
何日かが過ぎた。
善助の帳面は、すでに最初の頃とは比べものにならないほど厚くなっていた。
村の名が並ぶ。
その横に家数。
焼けた家。
壊れた家。
亡くなった者。
戻ってきていない者。
そして、金を渡した相手の名。
善助は一つずつ確認しながら、次の村へ向かった。
「ここで……十七村目か」
最初は、こんなに回ることになるとは思っていなかった。
一つの村で話を聞けば、別の村を紹介される。
そこへ行けば、また別の村を教えられる。
そうしているうちに、善助の足は龍野のあちこちへ伸びていった。
そして今日も、村長の前で同じことを繰り返す。
「これが黒田様からの見舞いです」
「ありがとうございます」
金を渡す。
それから帳面を開く。
「では、村の家数を」
「はい」
「焼けた家は?」
「三軒です」
「壊れたところは?」
「五軒ほど……」
善助は淡々と書き込んでいく。
一通り聞き終えたところで、村長が口を開いた。
「善助殿」
「はい?」
「本当に、黒田様はこれから龍野を治められるのでしょうか?」
また、その話だった。
善助は苦笑した。
「わしに聞かれても分かりませんよ」
「そうですか……」
「今のところ、黒田様がここを治めると決まった話は聞いておりません」
村長は黙り込んだ。
善助は、その顔を見て少しだけ考えた。
「……何か困っていることでも?」
「戦が終わったとはいえ、これから誰がこの地を治めるのか分かりませぬ」
「だから、家を建て直すのを?」
「はい」
村長は頷いた。
「せっかく建て直しても、また主が変わればどうなるか。そう考える者もおります」
善助は帳面を見る。
焼けた家。
壊れた家。
戻っていない者。
そこに、もう一つ書き加えた。
領主が定まらぬため、再建を躊躇する者あり。
「……なるほど」
善助は小さく呟いた。
これは、ただ家が焼けたという話ではない。
戦が終わっても、人々の暮らしは元には戻らない。
誰がこの地を治めるのか。
それが決まらなければ、村人たちも動けない。
「善助殿」
村長が再び声をかけた。
「あちらにも、まだ見舞いを受けておらぬ村がございます」
善助が顔を上げる。
「またですか」
「はい」
村長は苦笑した。
「こちらの村から話を聞いたと伝えれば、きっと受け入れてくれるでしょう」
善助も苦笑する。
「分かりました。行ってみましょう」
立ち上がり、帳面を懐へ入れる。
そして歩き出す。
また一つ、村の名が増える。
善助はまだ、それを大したことだとは思っていなかった。
ただ若様から命じられた仕事を、終わらせようとしているだけだった。
だが、いつの間にか善助の手元には、龍野の村々を繋ぐ一本の線が出来上がり始めていた。
ここは、善助が「自分は何か大きなことをしている」と自覚しすぎないまま、**一日の成果を帳面にまとめて終わる**くらいがいい。後々、官兵衛や松がこの帳面を見ることで意味が出てくる。
日が傾く頃。
善助は、ようやく今日の仕事を終えた。
宿へ戻ると、机の上に帳面を広げる。
「さて……」
今日回った村の名を確認する。
家数。
焼けた家。
壊れた家。
亡くなった者。
見舞いの金を渡した家。
そして、村から教えてもらった次の村の名。
善助は一つずつ確かめ、最後に筆を置いた。
「……結構な数になったな」
最初の日は、一つの村だけだった。
それが今では、いくつもの村の名が並んでいる。
しかも、その一つ一つが別の村へと繋がっている。
善助は少しだけ不思議そうに帳面を眺めた。
「わしは金を配りに来ただけなんだがな」
思わず苦笑する。
だが、帳面を閉じようとして、手を止めた。
まだ行っていない村がある。
今日教えてもらった村だ。
善助はその名を確認すると、端に小さく印をつけた。
「……明日は、ここだな」
帳面を閉じる。
善助にとっては、それだけのことだった。
若様から頼まれた仕事。
ならば、最後までやる。
ただ、それだけ。
けれど、この日までに集められた記録は、やがて黒田が龍野を見るための、最初の地図になっていくことになる。




