第六話 黒田の読みのずれ
南の山。
井上之正は、五百の兵を率いて山道を進んでいた。
木々の間から、遠くに山間の砦が見える。
「……まだ動きはないか」
「はい。敵の姿は見えませぬ」
井上は黙って砦を見た。
政秀が高岡へ向かうならば、ここを放っておくとは考えにくい。
山間には、小寺方の砦がいくつもある。
そのまま背後を晒して進めば、戦場の後ろから兵が出てくる。
ならば――
政秀は必ず、抑えの兵を置く。
それが黒田陣営の読みだった。
井上自身も、そう考えていた。
「敵は砦を押さえてから進むはずだ」
「ならば、ここで待ち受け、抑えを退ける」
そして抑えを退けた後、砦の兵を集める。
集めた兵とともに、戦場へ向かう。
それが井上に与えられた役目だった。
井上は、山の向こうへ目を向けた。
「……そろそろ来てもよい頃だが」
だが――
いくら待っても。
敵の抑えは、姿を現さなかった。
井上は、しばらく山道から動かなかった。
敵が来ない。
砦にも、目立った動きはない。
「……妙だな」
隣にいた兵が答える。
「政秀軍は、すでに高岡へ向かっているようです」
「ならば、なおさらおかしい」
井上は遠くを見た。
政秀が青山手前まで進んでいる。
ならば、背後に残る砦を警戒するはずだ。
砦の兵が後ろから出てくれば、進軍した軍の背を突かれる。
だからこそ、抑えを置く。
それが黒田の読みだった。
「敵の抑えは、どこにいる?」
「……見当たりませぬ」
井上は眉をひそめた。
「探せ」
兵たちが山中へ散っていく。
しばらくしても、報告は変わらなかった。
「おりませぬ」
「どこにも?」
「はい」
井上は、しばし黙った。
やがて遠くから、かすかに戦の音が聞こえてきた。
鉄砲の音。
鬨の声。
そして、幾重にも重なる怒号。
井上はその方向を振り返った。
「……もう始まっているのか」
政秀軍は、こちらを抑えることなく進んでいる。
つまり――
政秀は、砦の脅威を無視した。
井上は小さく息を吐いた。
「我らの読みが、外れたな」
だが、次の瞬間、井上の目が、砦へ向いた。
敵がいない ならば、考え方を変えるしかない。
「砦の兵を集めろ」
「……全て、ですか?」
「全てだ」
兵が目を見開く。
本来ならば、砦には兵を残しておく。
だが、政秀軍が抑えを置かなかった。
ならば、こちらが砦に兵を残しておく理由も薄い。
「敵は、我らを恐れておらぬ」
井上は戦場の方角を見る。
鉄砲の音が、また響いた。
「ならば、こちらも遠慮する必要はない」
すぐに使いが山間の砦へ走った。
兵が集まる。
一つの砦から。
また一つ。
山道を通って、次々と兵が合流してくる。
五百だった兵は、八百になった。
さらに増える。
千を越える。
そして――
「井上様」
兵が報告する。
「集まりました。およそ一三〇〇」
井上は集まった兵を見渡した。
本来ならば、敵の抑えを退けた後に集めるはずだった兵。
だが、敵はその抑えすら置かなかった。
「……まさか、全軍で黒田へ向かったとはな」
井上はわずかに笑った。
「ならば、政秀は今」
戦場の方から、激しい鬨の声が響く。
井上は槍を握り直した。
「前しか見ておらぬ」
「早く行かねば殿たちが窮地に立たされることになる」
そして、兵たちへ向き直る。
「行くぞ」
「はっ!」
「我らは正面から戦うのではない」
井上は山を下りる先を指した。
「横から入る」
一三〇〇の兵が、静かに山を下り始めた。
山を下りた井上隊の前に、戦場が見えてきた。
黒田の陣。
その前には、政秀軍二千が押し寄せている。
「……激しいな」
鉄砲の音。
怒号。
倒れる兵。
政秀軍は、黒田の左右の羽へ食らいついていた。
井上は足を止め、戦場を見渡す。
政秀軍の大半が、正面へ集中している。
こちらには、誰も向いていない。
「やはりな」
井上が槍を掲げる。
「敵は、我らに気づいておらぬ」
「このまま横へ回りますか?」
「いや」
井上は首を振った。
「時間を与えるな」
一三〇〇の兵が、進路を変える。
山裾から戦場へ。
政秀軍の側面。
まだ敵は気づかない。
前方では、黒田の兵が必死に戦っている。
その光景を見て、井上は叫んだ。
「黒田の兵を助けるぞ!」
兵たちが槍を構える。
「続けぇ!」
「遅れをとるなぁ!」
一三〇〇の兵が、一斉に駆け出した。
地面が揺れる。
砂埃が舞う。
政秀軍の側面へ迫る。
ようやく、一人の敵兵が振り返った。
「……敵だ!」
だが、遅かった。
「横だ!」
「黒田の別働隊だ!」
政秀軍の兵たちが振り向く。
その視線の先
黒田の旗を掲げた一三〇〇の兵が、迫っていた。
先頭を走る井上が、槍を前へ突き出す。
「行けぇ!」
一三〇〇の兵が、一斉に政秀軍の横腹へ突っ込んだ。
「敵襲!」
「横から来たぞ!」
「何者だ!」
政秀軍の列が、大きく揺れる。
前を向いていた兵たちが、次々と横を振り返る。
だが、もう遅い。
井上隊は止まらない。
槍を揃え、政秀軍の側面へ食い込んでいく。
「押せぇ!」
「抜けぇ!」
一三〇〇の兵が、次々と政秀軍を押し崩していく。
その先にあるのは
政秀の本陣。
井上は槍を掲げた。
「本陣まで突き抜けるぞ!」
兵たちの鬨の声が、戦場を揺らす。
正面では黒田の二翼。
そして、その横腹には井上の一三〇〇。
政秀軍二千は、初めて前と横の二方向から挟まれた。
井上は叫ぶ。
「行けぇ!」
一三〇〇の兵が、さらに深く食い込んでいく。
その時。
遠くに、赤松の旗が見えた。
井上の目が細くなる。
「……あれが政秀か」
槍を握り直す。
「討つぞ」
戦場の均衡が、崩れた。




