第四話 泥を雪ぐ
小寺家の居室。
昼下がりの静かな時間だった。
部屋の中央には碁盤が置かれ、その向かいに小寺政職と黒田職隆が座っている。
政職が碁石を一つ置いた。
「……どうだ、最近は」
職隆は盤面を眺め、しばし考えてから石を置く。
「家中は……仇討ちに燃えております」
「……」
政職の手が止まった。
「なんだ、ぶっそうだな」
「ええ」
職隆は苦笑する。
「それほどまでに、今回のことは黒田の名を踏みにじる行為でしたので」
政職は盤上へ目を落としたまま、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……なるほどな」
そして、また一つ石を置いた。
「小寺にも、泥が飛んできたようなものだ」
職隆は黙って頭を下げた。
政職はそう言うと、何事もなかったように碁石を一つ置いた。
職隆も盤面へ目を戻す。
「……申し訳ございません」
「お前が謝ることではない」
「ですが、黒田の不始末は小寺の不始末でもあります」
「そういうことだ」
政職は淡々と答えた。
「だからといって、こちらから黒田を責めるつもりもない」
職隆が顔を上げる。
政職は碁盤を見たまま続けた。
「黒田の者が、そこまで腹を立てているのだろう?」
「はい」
「ならば、やりたいようにやればよい」
職隆は一瞬、言葉を失った。
「……よろしいので?」
「構わん」
政職は次の石を手に取る。
「黒田の名を踏みにじられたのであれば、黒田の者がどうするかは黒田が決めればよい」
「ただし――」
政職が職隆を見る。
「小寺の名まで巻き込むなら、話は別だ」
「承知しております」
職隆は深く頭を下げた。
「はっ。ありがたきお言葉」
そして、しばし盤面を見つめる。
だが職隆は、まだ言葉を続けようとはしなかった。
政職がそれに気づく。
「……まだ何かあるのだろう?」
「はい」
職隆は静かに顔を上げた。
「殿に、ご相談がございます」
政職は碁盤から目を離さない。
「なんだ?」
職隆は少し間を置いてから口を開いた。
「龍野と姫路の間にございます、山の砦ですが」
職隆は地図を思い浮かべるように、静かに続けた。
「黒田で、あれらを取ろうと考えております」
政職の手が止まった。
「……取れるのか?」
「はい」
迷いのない返事だった。
政職は職隆を見る。
「言い切るとは……」
口元にわずかな笑みが浮かぶ。
「さすが黒田だな」
職隆は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「それで?」
政職が促す。
職隆は姿勢を正した。
「砦を取りましたら――」
一呼吸置く。
「小寺より、兵を入れていただきたいのです」
政職は盤上へ視線を戻した。
「守らせる、ということか」
「はい」
「黒田では守らぬのか?」
「守ることはできます」
職隆は答えた。
「ですが、その兵を置き続ければ、次へ進む兵が足りなくなります」
政職はしばらく黙って碁盤を見ていた。
やがて、一つの石を手に取る。
「……なるほどな」
そして、その石を盤上へ置いた。
政職は置いた石を眺めながら、しばらく考えていた。
「……それぐらいなら、問題ない」
職隆が顔を上げる。
「よろしいので?」
「ああ」
政職はもう一つ、碁石を手に取った。
「黒田が砦を取れるというのなら、その後を小寺で引き受けよう」
「ありがたきお言葉」
「兵の数については、砦を取った時点で知らせよ。こちらも都合をつける」
「承知いたしました」
職隆は深く頭を下げる。
政職はそんな職隆を見て、ふっと息を吐いた。
「しかし……」
「はい?」
「黒田も、ずいぶんと大きなことを考えるようになったものだ」
職隆は苦笑した。
「これも家中の者たちが、仇討ちに燃えておりますゆえ」
「仇討ち、か」
政職は碁盤へ目を落とす。
「ならば、その勢いを無駄にするな」
「はい」
「砦を一つ取れば、それで終わりではないのだろう?」
職隆は少しだけ笑った。
「もちろんでございます」
政職はその答えを聞くと、碁石を置いた。
「ならば、わしも約束しよう」
「……何をでしょうか」
政職は職隆を見る。
「黒田が取った砦は、小寺が受け取る」
「そして――」
わずかに口元を緩める。
「その分、小寺の兵を戦場へ出そう」
職隆は深々と頭を下げた。
「ありがたきお言葉」
政職は盤上へ視線を戻した。
「それで、小寺に飛んだ泥も……」
一呼吸。
> **「少しは雪いでくれ」**
職隆は静かに頷いた。
「承知いたしました」
職隆は深々と頭を下げた。
「承知いたしました」
「……ところで」
政職が碁盤へ目を戻す。
「職隆」
「はい」
「お前は、砦を取った後のことまで考えているのだな」
「はい」
「その先は?」
職隆は少しだけ笑った。
「まずは、目の前の砦を取ってからにございます」
政職も小さく笑う。
「なるほど」
二人は再び碁盤へ目を落とした。
政職が一つ石を置く。
職隆は碁の石を眺め、しばらく考える。
そして、別の場所へ石を置いた。
「……そこか」
「はい」
「随分と先を見ているな」
「殿こそ」
二人の間に、しばし沈黙が流れる。
盤上では、互いの石が少しずつ相手の領分へ食い込んでいた。
やがて政職が呟く。
「……龍野まで、届くかもしれんな」
職隆は答えなかった。
ただ、碁盤の上に置かれた自分の石を見つめる。
その一手はまだ小さい。
だが――。
**これから黒田が動かす一手目であった。**




