第七話 澄み酒、完成
それから、数日が経った。
「そろそろいいかな」
私は酒甕の前にしゃがみ込んだ。
数日前、ここへ炭のカスを入れた。
正直なところ、本当にうまくいくのかは分からない。
ただ、前世の記憶にあった。
炭には、臭いを吸い取るような働きがある。
ならば、酒にも使えるのではないか。
そう思って試しただけだ。
「松姫様、本当に開けるのでございますか?」
通が少し不安そうに聞く。
「うん」
「何か変なことになっておりませんでしょうか……」
春も酒甕を覗き込もうとしている。
「大丈夫よ」
私は蓋に手をかけた。
ゆっくりと持ち上げる。
そして、中を覗き込んだ。
「…………」
私はしばらく黙った。
「松姫様?」
「……澄んでる」
「え?」
通が身を寄せる。
春も覗き込む。
「本当でございますね……」
最初に見たときとは、明らかに違う。
酒の中に漂っていたものが、ほとんど見えない。
底のほうには、細かな炭のカスと、何か沈んだものが溜まっている。
「ちゃんと沈んでる……」
私は思わず呟いた。
炭を入れる前より、ずっと綺麗だ。
しかも、前より酒の匂いも弱くなっている気がする。
私は鼻を近づける。
「……うん」
「いかがでございますか?」
「臭いも、少し違う」
「では、成功したのでしょうか?」
「まだ分からない」
私は首を振った。
「飲んでみないと」
とはいえ、このまま飲むわけにはいかない。
底には炭のカスが沈んでいる。
「一度、濾しましょう」
「はい」
通と春が布を用意する。
私は酒を少しずつ布へ通していく。
ぽたり。
ぽたり。
酒が落ちていく。
布の上には、細かな炭や沈殿物が残っていく。
「……すごい」
春が呟いた。
「こんなに残っております」
「これが酒の中にあったのね」
私は布を見ながら言う。
濾し終えた酒を、器に移す。
透き通った酒が、器の中で揺れた。
「……綺麗」
思わず笑みがこぼれる。
これなら。
これなら、前より美味しくなっているかもしれない。
「松姫様」
「なに?」
「高友様に飲んでいただきますか?」
「うん」
私は頷いた。
「私が飲むより、そのほうがいいもの」
私は徳利を手に取った。
「おじさまに飲んでもらいましょう」
今度のお酒は――。
きっと、前より美味しい。
私は徳利を手に、高友叔父様のところへ向かった。
「おじさま」
「おお、松か」
高友叔父様は、いつものように笑って迎えてくれた。
「また酒か?」
「はい」
私は徳利を両手で差し出した。
「この前のお酒を、少し変えてみたんです」
「ほう?」
「飲んでみてください」
「うむ」
高友叔父様は徳利を受け取った。
そして杯に注ぐ。
「……おや」
杯の中の酒を見て、高友叔父様が目を細めた。
「前より澄んでいるな」
「はい」
「どうした?」
「炭を入れて、しばらく置きました」
「炭を?」
「はい」
高友叔父様は少し不思議そうな顔をした。
けれど、何も言わずに杯を口へ運ぶ。
一口。
「…………」
高友叔父様の表情が止まった。
私は思わず身を乗り出す。
「どうですか?」
高友叔父様は、もう一度飲んだ。
そして――。
「……うまい」
「本当ですか?」
「ああ」
今度は、はっきりと頷いた。
「これは……明らかに違う」
「そんなに?」
「前の酒も悪くなかったが、これは違うな」
高友叔父様は杯を眺める。
「雑味が少ない」
「雑味?」
「口に残るものが違う」
そう言って、もう一口。
「これは、小寺様のところでいただく酒のようだ」
「小寺様?」
「ああ」
高友叔父様は満足そうに頷いた。
「すばらしい酒だ」
私は思わず笑った。
「よかった……」
本当に成功した。
前世の記憶を頼りに試してみただけだった。
それが、ちゃんと酒を変えた。
「これなら――」
高友叔父様が徳利を見る。
「もっと作れるか?」
「え?」
「これを作れるのか?」
「たぶん……」
「なら、もっと作ってくれ」
「もっと?」
「ああ」
高友叔父様は平然と言った。
「あと四樽だ」
「……四樽?」
私は固まった。
一樽ではなく。
二樽でもなく。
**四樽。**
「そんなに?」
「欲しい」
高友叔父様は即答した。
「黒田では普段、安い酒を買っているからな」
「そうなんですか?」
「ああ。毎日飲むものだ。高い酒ばかりというわけにはいかん」
高友叔父様は杯を傾ける。
「だが、これなら金を出してもいい」
そして私を見る。
「作れるか?」
「……材料があれば」
私は答えた。
すると、高友叔父様は笑った。
「必要なものがあるなら、買ってやる」
「え?」
「炭でも布でも何でもいい」
「本当に?」
「ああ」
「四樽分ですよ?」
「そうだ」
私は高友叔父様の顔を見る。
「……おじさま」
「なんだ?」
「大好き」
「ははは!」
高友叔父様が声を上げて笑った。
「現金な奴だな」
「だって、買ってくれるんでしょう?」
「もちろんだ」
私は嬉しくなった。
これなら、もっと試せる。
酒をもっと美味しくできるかもしれない。
そして――。
高友叔父様がふと思い出したように言った。
「そうだ」
「はい?」
「兄者にも持っていこう」
「……お父様に?」
「ああ」
高友叔父様は徳利を掲げた。
「兄者も、普段飲まぬ酒なら喜ぶだろう」
「…………」
私は黙った。
父に会いに行く。
私から酒を持っていくのではない。
**高友叔父様が、自分から持っていってくれる。**
しかも、この酒を気に入った状態で。
私は高友叔父様を見つめた。
そして――。
口元が、自然に緩んだ。
「……そう」
「どうした?」
「なんでもありません」
私はくるりと背を向ける。
そして、心の中で小さく呟いた。
**外堀が、勝手に埋まっていく。**
最初は、ただ嫁に出されたくなかった。
だから、黒田家に必要な人間になろうと思った。
そのために高友叔父様を味方にしようとした。
でも――。
どうやら私は、思っていたより簡単に一つ目の橋頭堡を築けたらしい。
「……よし」
私は小さく拳を握った。
次は、誰を味方にしよう。
そんなことを考えながら、私は高友叔父様の屋敷を歩いていった。




