第六話 もっと美味しい酒を
高友叔父様のところに滞在することになって、
私は、朝から酒甕の前に座っていた。
「…………」
昨日まで濾していた酒を、じっと眺める。
見た目は、かなり綺麗になった。
最初に見たときのような濁りも少ない。
これなら高友叔父様も喜んでくれる。
でも――。
「……やっぱり、ちょっと臭いんだよね」
私は鼻を近づける。
酒の匂い。
嫌な匂いというほどではない。
でも、前世で知っている酒とは違う。
もっとすっきりしていた気がする。
「これ、臭いをなくせれば……」
もっと美味しくなるんじゃないだろうか。
私は腕を組んだ。
濾せば、濁りは取れる。
なら、次は匂い。
「消臭……」
前世の記憶を探る。
消臭剤。
脱臭剤。
冷蔵庫。
靴箱。
いろんなものが頭に浮かぶ。
「……炭?」
ふと、一つのものを思い出した。
炭。
炭には、匂いを吸着する性質があったはずだ。
もちろん、詳しいことは知らない。
活性炭なんてものも聞いたことがあるけれど、どうやって作るのかまでは知らない。
でも――。
「炭なら、あるよね」
少なくとも、火を焚くために使うものだ。
私は立ち上がった。
「通」
「はい、松姫様」
「おじさまの家人に、炭をもらってきてちょうだい」
「炭でございますか?」
「うん」
「何にお使いになるので?」
「お酒に入れてみたいの」
「…………」
通が固まった。
春も隣で目を丸くしている。
「お酒に……炭を?」
「そう」
私は頷いた。
「臭いを取れるかもしれないから」
「……お酒の臭いを、炭でございますか?」
「うん」
通と春が顔を見合わせる。
たぶん、二人とも思っている。
また松姫様が妙なことを始めた、と。
でも――。
「試してみたいの」
私は酒甕を見る。
「うまくいくかもしれないでしょう?」
「……かしこまりました」
通が頭を下げる。
「では、聞いてまいります」
「お願い」
通と春が部屋を出ていく。
私は一人、酒甕の前に残った。
「炭で臭いが取れるなら……」
もっと美味しい酒になる。
そうしたら、高友叔父様も喜んでくれる。
それに――。
ここにいる理由も、もっと作れる。
「……ふふ」
私は小さく笑った。
酒を作る。
叔父様に喜んでもらう。
そして、もっと仲良くなる。
これも外堀の一つだ。
そう考えていると、しばらくして通と春が戻ってきた。
二人とも、何やら桶を抱えている。
「おかえり」
「ただいま戻りました、松姫様」
「炭、あった?」
私が聞くと、通が申し訳なさそうに頭を下げた。
「それが……」
「どうしたの?」
「申し訳ございません、姫様」
通が桶の中を見せる。
「今の時期は、炭をあまり保管していないそうでございます」
「そうなの?」
「はい」
春も困ったように続けた。
「前の冬に使った残りしかなかったそうで……」
「残り?」
「はい」
私は桶を覗き込んだ。
そこに入っていたのは――。
大きな炭ではなかった。
細かく砕けた炭。
灰に近いものまで混ざっている。
「……これしかないの?」
「はい……」
通が申し訳なさそうに答える。
「すみません、姫様」
私はしばらく、その炭のカスを眺めていた。
そして――。
「まあ、いいわ」
「よろしいので?」
「うん」
私は笑った。
「炭なんでしょう?」
「はい」
「だったら、試してみましょう」
私は酒甕の前に立った。
そして、桶を持ち上げる。
通と春が、同時に顔を上げた。
「松姫様?」
「何をなさるので?」
私は酒甕を見つめる。
「もちろん――」
桶を傾けた。
**ざばぁっ。**
「炭を入れるの」
「「姫様!?」」
二人の声が重なった。
「大丈夫よ」
私は何食わぬ顔で、酒甕を覗き込む。
中には、細かな炭の欠片が浮かんでいる。
「これで、臭いが取れるはず」
「ですが……」
通が不安そうに甕を見る。
「お酒に炭を入れてしまって、本当に大丈夫なのでございますか?」
「わからない」
「……わからない?」
「うん」
私はあっさり答えた。
「だから、試してるの」
春が困ったように笑う。
「松姫様は、本当に思い切ったことをなさいますね」
「だって、やってみないとわからないもの」
私は柄杓を手に取った。
「それに、これを入れただけで飲めなくなるわけじゃないでしょう?」
「それは……」
「たぶん」
「たぶん……」
二人の顔が、ますます不安そうになる。
私はそんな二人を見て笑った。
「大丈夫、大丈夫」
そして、柄杓で酒をゆっくりとかき混ぜる。
ぐる。
ぐる。
酒の中で、炭がゆっくりと回る。
「これで、しばらく置いてみよう」
「どれほどでございますか?」
「うーん……」
私は考える。
炭が臭いを吸うなら、すぐというわけでもないだろう。
「数日くらい?」
「数日……」
「うん」
私は柄杓を置いた。
「それまで待ちましょう」
こうして、酒甕はしばらく放っておくことになった。
酒のことばかり考えているわけにもいかない。
せっかく高友叔父様のところにいるのだ。
私は、高友叔父様のところへ顔を出すようになった。
「おじさま」
「おお、松か」
「何をしているんですか?」
「兵の稽古を見ている」
「兵?」
「ああ」
高友叔父様の視線の先では、何人もの男たちが木刀を手にしていた。
「もっと腰を落とせ!」
「はい!」
「足が止まっているぞ!」
「はい!」
大きな声が飛び交っている。
私は少し離れたところから、それを眺めていた。
すごい。
木刀がぶつかる音。
足音。
掛け声。
みんな真剣だ。
「おじさまは、こういうことも教えるんですか?」
「ああ。戦う者を育てるのも、俺の役目だからな」
「へえ……」
私は高友叔父様の隣に座った。
それから、いろんな話を聞いた。
この辺りのこと。
武士のこと。
兵のこと。
戦になれば、何をするのか。
どうやって人をまとめるのか。
知らないことばかりだった。
前世で見ていた戦国時代は、画面の向こう側にあった。
でも今は違う。
目の前に、本当に武士がいる。
本当に兵を鍛えている人がいる。
「……面白い」
「何がだ?」
「いろいろです」
高友叔父様が笑う。
「松は変わった娘だな」
「そうですか?」
「ああ」
でも、その声は楽しそうだった。
私はそんな高友叔父様を見て、少し嬉しくなった。
ここへ来てよかった。
そう思っていた。
そんなある日。
私はいつものように、兵の稽古を眺めていた。
木刀を振る。
受ける。
踏み込む。
また振る。
「…………」
私は自分の手を見る。
前の人生では、身体を動かすことができなかった。
でも今は違う。
走れる。
歩ける。
身体を動かせる。
だったら――。
「おじさま」
「なんだ?」
「私にも、武術を教えてください」
「…………」
高友叔父様が私を見る。
「松に?」
「はい!」
「武術を?」
「はい!」
私は大きく頷いた。
「私も強くなりたいです」
高友叔父様は、しばらく黙っていた。
そして――。
「……ふっ」
笑った。
「何がおかしいんですか?」
「いや」
高友叔父様は私の頭をぽんと撫でる。
「ずいぶん元気になったものだと思ってな」
「元気です!」
「ああ。見ればわかる」
私は胸を張った。
「だから教えてください」
「まだ早いと思うがな」
「嫌です」
「即答か」
「だって、せっかく身体が動くんです」
私は自分の手を握った。
「だったら、強くなりたい」
高友叔父様は、私をじっと見た。
やがて、小さく息を吐く。
「……わかった」
「本当ですか!」
「ああ。ただし、無理はさせん」
「はい!」
「明日から、少しずつだ」
「ありがとうございます!」
私は嬉しくて笑った。
そのとき。
ふと、酒甕のことを思い出した。
「そういえば……」
炭を入れた酒。
あれも、そろそろ頃合いだろうか。
私はにっこり笑った。
明日は武術の稽古。
そして――。
酒の結果も確かめられる。
新しい人生は、思っていた以上に忙しくて。
思っていた以上に、楽しかった。




