SS 松の目と耳
砥堀の道を、二人の男が歩いていた。
黒田職隆と黒田休夢である。
二人は並んで歩きながら、周囲の様子を眺めていた。
以前に比べれば、人の往来が増えている。
荷を運ぶ者。
村の中を行き交う者。
新しくできた建物。
砥堀は、少しずつ変わっていた。
「……ずいぶん変わったな」
職隆が呟く。
休夢も周囲を見渡した。
「松が動かしているからな」
「それにしてもだ」
職隆は苦笑する。
「あの娘は、一体どこまで手を広げるつもりなのやら」
そのときだった。
休夢がふと足を止めた。
「兄者」
「なんだ?」
休夢が、道の先を指差す。
「**あれが見えるか?**」
職隆もそちらへ目を向けた。
道端。
少し離れたところに、粗末な身なりの男が横たわっている。
職隆は目を細めた。
「……なんだ、あれは?」
休夢も目を凝らす。
「……あれは……」
「……?」
休夢が何かを言おうとした。
咳が言葉に混ざる。
「……ぐふんじゃ?」
「……なんだ?」
職隆には、最後のところしか聞き取れなかった。
「前が聞こえんぞ」
「すまん」
休夢は咳払いをする。
二人はもう一度、道端の男へ目を向けた。
粗末な着物に、伸びた髪。
どう見ても、ただの浮浪者にしか見えない。
職隆が眉をひそめる。
「……あれが、松の目と耳なのか?」
休夢は頷いた。
「そうだ」
「……あんな浮浪者が?」
「そうだ」
職隆は納得できないように、もう一度男を見る。
「あれが、松のために働いているのか?」
「まあな」
休夢は歩き出しながら答えた。
「俺も最初から知っていたわけではない」
「では、どうして知った?」
「家の者に聞いた」
「家の者?」
「ああ。うちで働いている下男にな」
休夢は少し笑った。
「そいつが砥堀で、浮浪者への炊き出しを手伝ったらしい」
「……炊き出し?」
「ああ」
職隆は目を丸くした。
「松が?」
「そうだ」
「なぜまた、そんなことを……」
休夢は肩をすくめる。
「俺も、そこから先は分からん」
「だが、その下男から話を聞いていくうちに、どうも妙なことになっていると分かった」
「妙なこと?」
「飯を食わせた者たちが、松のところへ色々な話を持ってくるようになったらしい」
職隆は、先ほどの男へ視線を戻した。
「……それが、松の目と耳になったということか」
「おそらくな」
休夢はそう言って、再び歩き始めた。
「始まりは、松が少しばかり銭を持つようになったことで」
「銭を?」
「ああ。最初は、浮浪者たちに飯を食わせ始めた」
職隆は先ほどの男を見る。
「炊き出しをしていたのか」
「そうだ」
「それで、あの者たちが松のために動くようになった?」
「最初からそんなつもりだったのかは分からん」
休夢は首を振った。
「ただ、飯を食わせたあと、松はあの者たちに言ったそうだ」
「何と?」
休夢は、少し笑った。
> **「励め、と」**
職隆は黙った。
「それだけか?」
「ああ。それだけだ」
「……妙な娘だ」
「だが、飯を食わせてもらって、そんな言葉を掛けられればな」
休夢は、道の向こうへ目をやる。
「何か返したくなる者もいるだろう」
「それで、町で見聞きしたことを話すようになった」
「どこで誰が何をしていたか。誰が来たか。何が売れているか――」
「そんな話が、少しずつ松のところへ集まってきたらしい」
職隆は考え込む。
「……最初は、情報を集めようとしたわけではないのか」
「おそらくな」
「なら、なぜ続けた?」
休夢は苦笑した。
「そこから先は、松の性分だろう」
「人から話を聞けば、知らなかったことが分かる」
「一つ知れば、また別のことが気になる」
「そうしているうちに――」
休夢は肩をすくめた。
> **「しだいに楽しくなってきたのだろう」**
職隆は、道端にいる男をもう一度見た。
始まりは、ほんの少しの銭と飯。
それが、いつの間にか――松の「目」と「耳」になっていた。
「それで、今ではどこまで広がっている?」
職隆が尋ねる。
休夢は少し考えた。
「正直なところ、俺にも分からん」
「分からん?」
「ああ。松に関する情報は、どうも細かく分かれているらしい」
「一人の者が、すべてを知っているわけではないということか」
「そういうことだ」
休夢は頷く。
「俺が知っているのも、家の者から聞いた話を繋いだだけだ」
「確実に分かっているのは?」
「……堺と京」
休夢はそう答えた。
「そこまでは、話が入ってきているらしい」
職隆は驚いた顔をする。
「砥堀から、堺と京までか」
「ああ」
「だが、それより先は?」
「分からん」
休夢は首を振った。
「どこまで広がっているのか、松の近くにいる者でなければ分からんのだろう」
「通や春あたりなら、もう少し知っているかもしれんな」
職隆は黙って考え込む。
そのとき、休夢がふと思い出したように口を開いた。
「ただ――」
「何だ?」
「この前、松の口から聞いた」
「何を?」
休夢は一拍置いた。
「**織田、という名をな**」
職隆の足が止まった。
「……松が?」
「ああ」
「何の話をしていた?」
「そこまでは聞いていない」
休夢も首を振る。
「だから、俺にもどこまで情報が届いているのか分からん」
職隆は、先ほどの浮浪者を見る。
ただの浮浪者にしか見えない。
だが、その向こうには堺があり、京がある。
もしかすると、それより先にも――。
「……あの娘は、いったいどこまで知っているんだ?」
休夢は苦笑した。
「さあな」
そして、二人は再び歩き始めた。
「……あの娘は、いったいどこまで知っているんだ?」
職隆の問いに、休夢は苦笑した。
「さあな」
二人はしばらく黙って歩いた。
砥堀の道端では、先ほどの男が相変わらず横になっている。
職隆は、もう一度その姿を見た。
「だが……」
「ん?」
「松が、あの者たちを使って危ないことをしているとは思えんな」
休夢も頷く。
「俺もそう思う」
「あれは、疑われることがどれほど危険なのか分かっている」
「だから、おそらく、無理に人の懐へ入り込ませたりはしないのだろう」
休夢は少し考える。
「人の集まるところへ置く」
「そこで聞いた話を、持って帰らせる」
「それだけか」
「それだけだろう」
職隆はため息をついた。
「それで、堺と京か……」
「そして、松の口からは織田の名まで出た」
二人は顔を見合わせる。
「……おそらく、もっと広いのだろうな」
「だろうな」
休夢が答える。
「だが、俺たちにも分からん」
家の中ですら、松に関する情報は分かれている。
家臣が知っていること。
下男が知っていること。
松の女中、通や春が知っていること。
そして――松だけが知っていること。
「……あいつを、黒田の外に出さなくてよかった」
職隆が、ぽつりと言った。
休夢は少し笑った。
「そうだな」
「もし他家へ嫁いでいたら……」
職隆は言葉を止める。
そして、遠くを見る。
「この目と耳まで、他家のものになっていたかもしれん」
「それだけじゃない」
休夢が続ける。
「小寺の殿も、松の働きをお認めになられた」
松が動かしたものは、もう黒田家だけのものではない。
職隆は苦笑した。
「……黒田に置いておくには、少々大きすぎる娘になったな」
休夢は砥堀の町を眺める。
「だからこそ――」
「ん?」
「**黒田の娘でよかったんだろう**」
職隆は何も答えなかった。
ただ、二人は並んで歩き続けた。
その後ろで、道端の男がゆっくりと目を開ける。
そして何事もなかったように、再び目を閉じた。




