第5話 廣峯のおたつ
砥堀から姫路へ戻った職隆は、屋敷へ入るなり大きく息を吐いた。
「……さて」
荷を置き、腰を下ろす。
その顔を見て、休夢が尋ねた。
「どうした、兄者」
「政職殿から言われた」
「何を?」
職隆は少し間を置いて答えた。
「松は、行かさんでよいそうだ」
休夢が目を細める。
「ほう」
「代わりの娘を用意せよ、と」
「……なるほど」
二人の間に沈黙が落ちた。
松を浦上へ嫁がせる話は消えた。
だが、浦上との婚姻同盟そのものが消えたわけではない。
赤松宗家の義祐が仲介している。
小寺としても、この縁組をまとめたい。
黒田としても、そう簡単に「やはりやめました」とは言えない。
職隆は腕を組んだ。
「松を出さぬと決めた以上、別の娘を探さねばならん」
「そうじゃな」
「しかし、そう都合よく娘がおるものでもない」
休夢も黙り込む。
しばらく考えた職隆が、ふと顔を上げた。
「……そういえば」
「なんじゃ?」
「廣峯神社の善右衛門」
「善右衛門?」
「その娘に、おたつという娘がおったな」
休夢も少し考える。
「ああ……おたつ殿か」
「官兵衛と年頃も近かったはずだ」
「そうじゃな」
職隆は頷いた。
「廣峯と黒田の縁もある」
松を外へ出すことはできない。
ならば――。
「一度、話をしてみるか」
休夢が職隆を見る。
「おたつを?」
「ああ」
職隆は立ち上がった。
「養女として迎えることができるなら、話は早い」
「……浦上へ嫁がせるための養女、ということか」
「そうなる」
休夢はしばらく考えた。
そして、
「本人にも話をせねばならんな」
「もちろんだ」
職隆は頷く。
「親だけに話して決めるつもりはない」
こうして職隆と休夢は、廣峯へ向かうことになった。
松を黒田から出さない。
その代わりに――。
**新たな黒田の姫を迎えるために。**
廣峯へ向かった職隆と休夢は、善右衛門のもとを訪ねた。
「これは黒田殿。わざわざ廣峯まで、いかがなされました?」
善右衛門が二人を迎える。
「今日は少し、頼みがあって参った」
「頼み、ですか?」
善右衛門が首を傾げる。
職隆は一度、休夢を見る。
そして、口を開いた。
「おたつ殿のことだ」
「……おたつ?」
善右衛門の表情が変わる。
「はい」
「何か、娘が粗相でも?」
「いや、そうではない」
職隆は首を振る。
「むしろ、その逆だ」
善右衛門は黙って職隆の言葉を待つ。
「先日、小寺殿から話があった」
「小寺殿から?」
「浦上との婚姻についてだ」
善右衛門は少し驚いた顔をする。
職隆は続けた。
「小寺と浦上の間で、婚姻による同盟を結ぶことになった」
「なるほど……」
「赤松宗家の義祐殿が仲介しておられる」
善右衛門も頷く。
赤松宗家が関わる話となれば、単なる家臣同士の縁談ではない。
職隆はさらに続けた。
「その婚姻のため、黒田から娘を出してほしいという話になった」
善右衛門は職隆の顔を見る。
「……松姫様ですか」
職隆は頷いた。
「そうだ」
だが、すぐに続ける。
「しかし、松は出さん」
「……え?」
善右衛門が目を瞬かせる。
職隆は淡々と話した。
「わしも、休夢も、松を黒田の外へ出すつもりはない」
「では……」
「だから、別の娘を養女として迎えることにした」
善右衛門の表情が固まる。
職隆はまっすぐに善右衛門を見る。
「その候補として、おたつ殿に話を持ってきた」
「……うちのおたつを」
「ああ」
善右衛門はすぐには答えなかった。
娘を黒田の養女にする。
それだけなら、名誉な話とも言える。
だが、その先にあるのは――。
「浦上へ、嫁がせるおつもりですな」
職隆は頷いた。
「そういうことになる」
善右衛門は腕を組んだ。
「……なるほど」
しばらく沈黙が続く。
やがて善右衛門が尋ねた。
「なぜ、おたつなのでしょう」
職隆は少し考えてから答えた。
「官兵衛と年頃が近い」
「……はい」
「廣峯と黒田にも、これまでの縁がある」
そして、
「何より、わしはおたつ殿ならば黒田の娘として迎えられると思っておる」
善右衛門は職隆の言葉を聞きながら、静かに目を伏せた。
簡単な話ではない。
だが――。
小寺。
浦上。
赤松宗家。
その三者が関わる婚姻である。
善右衛門一人の判断で済む話でもなかった。
「……少々、お待ちいただけますか」
「ああ」
「娘を呼んでまいります」
職隆は頷いた。
「本人にも話をせねばならん」
善右衛門が立ち上がる。
「おたつ!」
屋敷の奥へ声をかける。
ほどなくして、廊下の向こうから娘の足音が聞こえてきた。
そして――。
「お呼びでしょうか?」
おたつが姿を見せた。
おたつは、父のもとまで来ると、職隆と休夢へ頭を下げた。
「お待たせいたしました」
「うむ」
職隆はおたつを見る。
官兵衛とそう年の変わらぬ娘。
まだ幼さも残っている。
だが、これから話すことは、決して軽いものではない。
「おたつ殿」
「はい」
「驚かせるかもしれぬが、よく聞いてほしい」
おたつが姿勢を正す。
「先ほど善右衛門殿にも話したが、黒田家では今、浦上との婚姻の話が進んでおる」
「浦上……」
「その縁組のため、黒田から娘を出すことになった」
おたつは黙って職隆を見る。
「当初、松の名が出た」
そこで、おたつの表情が少し変わった。
「松姫様が……」
「ああ」
職隆は頷く。
「だが、松は出さん」
「……」
「そこで、別の娘を黒田の養女として迎えることになった」
おたつは何も言わない。
職隆は、はっきりと告げた。
「その娘として、おたつ殿に話を持ってきた」
しばらく沈黙が続いた。
おたつは父を見る。
善右衛門もまた、娘を見ている。
「私が……黒田の養女に?」
「そうだ」
「そして……浦上へ?」
職隆は頷いた。
「そういうことになる」
おたつは俯いた。
突然の話だった。
廣峯で暮らしていた自分が、黒田の娘になる。
そして、そのまま浦上へ嫁ぐ。
自分の知らない場所へ。
知らない家へ。
知らない男のもとへ。
考えれば考えるほど、胸の奥が落ち着かなくなる。
「……なぜ、私なのでしょうか」
おたつが尋ねた。
職隆は少し考える。
「理由はいくつかある」
「はい」
「まず、官兵衛と年頃が近い」
「官兵衛様と……」
「ああ」
職隆は少し笑った。
「おぬしも知っておろう?」
「はい。幼い頃に何度か」
「それに、廣峯と黒田にはこれまでの縁がある」
そして最後に、
「わし自身が、おたつ殿なら黒田の娘として迎えられると思った」
おたつはその言葉を聞いて、少し顔を上げた。
「……私が、黒田の娘として」
「そうだ」
「松姫様の代わりに?」
職隆は首を横に振った。
「それは違う」
おたつが顔を上げる。
「松の代わりという言い方をするつもりはない」
職隆は静かに言った。
「松は松だ。おたつ殿は、おたつ殿だ」
「……」
「黒田家の養女として迎える以上、黒田の娘として扱う」
その言葉を聞き、おたつはしばらく黙っていた。
やがて善右衛門が口を開く。
「おたつ」
「はい」
「これは、お前の人生に関わる話だ」
「……はい」
「わしが勝手に決めることではない」
おたつは父を見る。
善右衛門は続けた。
「嫌なら断ってもよい」
職隆が少し目を伏せる。
「その場合は、別の娘を探すことになる」
「はい」
「だが、無理に受ける必要はない」
おたつは膝の上で手を握った。
そして、しばらく考えた。
やがて――。
「……少しだけ、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
職隆は頷いた。
「もちろんだ」
おたつは父を見る。
善右衛門も頷く。
「ゆっくり考えなさい」
「はい」
その日の話は、そこで終わった。
だが数日後。
おたつは、再び職隆の前に座っていた。
「お受けいたします」
職隆は静かに頷いた。
「そうか」
「はい」
おたつは深く頭を下げる。
「私を、黒田の養女としてお迎えください」
職隆は立ち上がった。
そして、おたつへ向かって頭を下げる。
「こちらこそ、頼む」
こうして――。
**廣峯のおたつは、黒田家の養女となることになった。**
おたつを黒田家の養女として迎えることが決まってから、幾日かが過ぎた。
廣峯を離れ、黒田家へ入る日。
おたつは荷をまとめ、善右衛門に連れられて姫路へ向かった。
屋敷へ着くと、職隆が出迎える。
「よく来てくれた」
「本日より、よろしくお願いいたします」
おたつが深く頭を下げる。
「こちらこそだ」
職隆はそう言って、おたつを屋敷の中へ案内した。
そこには休夢をはじめ、黒田家の者たちが集まっていた。
「今日から、おたつ殿は黒田の養女じゃ」
休夢が皆へ告げる。
「黒田の娘として、皆もそのつもりで接してくれ」
「承知いたしました」
家臣たちが頭を下げる。
おたつは少し戸惑った。
これまでとは、明らかに違う。
廣峯では善右衛門の娘だった。
それが今日からは、黒田の養女。
そして近いうちには――浦上へ嫁ぐ。
そのときだった。
廊下の向こうから、松が歩いてきた。
おたつの姿を見つけると、松は足を止める。
「おたつですね」
「……はい」
おたつが頭を下げる。
「松姫様」
「そんなにかしこまらなくてもよいですよ」
松は微笑んだ。
「今日から同じ黒田の家ですから」
その言葉に、おたつは少し驚いた。
「……同じ、ですか?」
「はい」
松は頷く。
「これから浦上へ行かれるのでしょう?」
「はい」
「それなら、向こうで困らないように準備をいたしましょう」
おたつは松を見る。
自分は、この娘の代わりに嫁ぐことになった。
そう思っていた。
だが、松の顔には、そのことを責めるような色は一つもない。
「私の代わり、と思わなくてよいですよ」
「……え?」
「おたつは、おたつですから」
松はそう言って笑った。
「黒田の娘として行けばよいのです」
おたつはしばらく松を見つめた。
「……ありがとうございます」
「はい」
松は女中へ振り返る。
「では、まず向こうへ持っていくものを確認しましょう」
「はい」
「衣類だけではありません。浦上で必要になるものもございますから」
女中が頷く。
松は次々と指示を出していく。
「身の回りのもの」
「はい」
「薬も少し」
「承知しました」
「それから、向こうで使う女中についても考えましょう」
おたつは目を丸くした。
「女中まで?」
「当然です」
松は不思議そうに言う。
「黒田の娘として嫁ぐのですから」
職隆は少し離れたところから、その様子を見ていた。
松は自分が嫁に行かなかったことを気にする様子もない。
むしろ、自分が行かないからこそ、おたつをきちんと送り出そうとしている。
休夢もその様子を見ていた。
「……兄者」
「なんだ」
「松は、あれでよかったのかもしれんな」
職隆は松を見る。
「何がだ?」
「嫁に出さずとも、黒田のために働く場所はいくらでもある」
職隆は答えなかった。
ただ、静かに頷いた。
それから準備は進んだ。
おたつは黒田家の養女として正式に扱われるようになった。
そして――。
浦上へ嫁ぐ日が決まった。
### 1564年一月十一日 朝
朝早く。
屋敷の前に、送り出すための人々が集まっていた。
おたつは黒田家の娘として身支度を整えている。
職隆が前に立つ。
「達者でな」
「はい」
おたつは深く頭を下げた。
「これまで育ててくださった父上にも、よろしくお伝えください」
「分かった」
その横には休夢。
そして松もいる。
松はおたつの手元を見て、最後に小さく頷いた。
「忘れ物はありませんね」
「はい」
「それなら、大丈夫です」
おたつは松を見る。
「松姫様」
「はい?」
「……ありがとうございました」
松は微笑んだ。
「向こうでも、黒田の娘らしく」
「はい」
おたつはもう一度頭を下げた。
そして、浦上へ向かう一行は、ゆっくりと砥堀を離れていった。
職隆はその姿を見送りながら、静かに息を吐く。
これでいい。
松は残った。
おたつは黒田の娘として送り出した。
浦上との縁組も、これで形になる。
――少なくとも、そう思っていた。
その数時間後。
砥堀の屋敷へ、一人の男が慌ただしく駆け込んできた。
「松姫様!」
庭にいた松が振り返る。
「どうしました?」
男は息を整えながら、頭を下げた。
「申し上げます」
「たった今、知らせが入りました」
松の表情が変わる。
「何の知らせです?」
男は一度、職隆のほうを見る。
職隆も立ち上がった。
「申せ」
「赤松政秀が動きました」
「……何?」
職隆の顔から、さきほどまでの安堵が消える。
「いつだ?」
「今朝からです」
「今朝……?」
休夢も立ち上がる。
「お辰を送り出したのも、今朝じゃぞ」
「はい」
男は頷く。
「その後、政秀が兵を動かしたとの知らせが、先ほど届きました」
松は黙っていた。
朝。
お辰を送り出した。
これで浦上との婚姻はまとまる。
黒田家としても、ようやく一つ片付いた。
そう思った矢先だった。
「……早い」
松が小さく呟く。
職隆が松を見る。
「何がだ?」
「政秀の動きです」
松は男へ向き直った。
「どちらへ向かったのです?」
男が答える。
松の顔から、先ほどまでの穏やかな表情が消えていく。
「……そう」
松はしばらく黙った。
そして、静かに息を吐く。
「朝にお辰さんを送り出したばかりなのに」
誰も答えない。
松は庭の向こうを見る。
黒田家を取り巻く情勢は、再び大きく動き始めていた。
そして――。
「では、何が起きたのか、」
**1564年一月十一日。**
**お辰が黒田を出たその日の昼。**
**赤松政秀が動いた。**




