第2話 黒田の姫
評定を終えて御着を出たあとも、職隆の胸には一つのことが引っかかっていた。
浦上との婚姻同盟。
小寺としては、受ける意味はある。
赤松宗家の義祐が仲介している以上、そう無茶な話でもない。
だが――。
「……松か」
黒田の姫として名前が挙がった、あの娘。
職隆は道中、何度も考えていた。
嫁に出せば、黒田家と浦上の結びつきは強くなる。
それは分かる。
だが、相手は浦上。
そして今は、赤松政秀との戦が終わったばかりなのだ。
この婚姻が、政秀を刺激することになるかもしれない。
それに何より。
「……あれを外へ出すのはなぁ」
職隆は小さく息を吐いた。
自分一人で決めるには、重すぎる。
そこで職隆は、砥堀にある休夢の屋敷へ向かうことにした。
何か答えが出るわけではない。
それでも、兄者である休夢に話してみようと思ったのだ。
そして屋敷へ入り、庭へ回った職隆は――。
「……なんだ、これは」
思わず足を止めた。
目の前には、妙に大きな池があった。
池の一角からは、
**じょぼじょぼじょぼ……**
と水が湧き出している。
その水を受けるように置かれた水車が、
**くるくる、くるくる……**
と回っていた。
職隆はしばらく、それを眺めた。
「……休夢」
「なんじゃ、兄者」
「……あれは何だ?」
休夢は池を見る。
そして、何でもないことのように答えた。
「あれか?」
「松の水遊びだ」
職隆は池を眺めたまま、しばらく言葉が出なかった。
「……水遊び?」
「そうじゃ」
休夢は平然としている。
「松が、庭に池を作りたいと言い出してな。ついでに水車も欲しいとな」
「ついで、で小さな水車まで作るのか……」
「水は、その下の小川から引いておるらしい」
職隆はもう一度池を見る。
湧き出す水。
水車。
そして、それを当然のように眺めている休夢。
「……まあ、松らしいか」
そう呟きながら、職隆は客間へ通された。
襖を開けた瞬間、今度は別のものが目に入った。
「……なんだ、この机は」
部屋の中央に、立派な一枚板の机が置かれている。
しかも妙に高い。
職隆が首を傾げていると、休夢が笑った。
「兄者、これは立って使うのではない」
「では、どうする」
「これに座るのだ」
休夢が示したのは、その机に合わせて作られた椅子だった。
職隆は椅子に腰を下ろし、机を見る。
「……ずいぶん立派だな」
「松がいい板を手に入れたから、職人に作らせたそうじゃ」
「普通の机にはならなかったのか?」
「職人が張り切ったらしい」
「……そうか」
そこへ女中が果実を運んできた。
職隆が何気なく卓を見る。
果実の脇に置かれた器へ、目が止まった。
「……これは」
銀の器だった。
職隆は手に取る。
光を受けて、鈍く銀色に輝いている。
「銀か?」
「そうじゃ」
休夢は何でもないことのように答えた。
職隆は器を眺める。
「なぜ、銀製のものを使っておる?」
「松が買っておるからな」
「どこから?」
「生野を持つ太田垣からじゃ」
「……太田垣から?」
「ああ」
休夢は頷いた。
「生野の銀を扱っておるからな。松が必要なものを買っておる」
職隆は、もう一度銀の器を見る。
「松が、銀を?」
「わしが兄者のために出した」
「……」
職隆は少し考え銀の器を卓へ戻した。
(生野の銀を、太田垣から買っておるのか……)
単に贅沢をしているという話ではない。
必要と判断したものには、銭を払って手に入れる。
それが松のやり方なのだろう。
職隆は少しだけ眉を上げた。
「……あれこれと、手を広げておるようだな」
休夢は苦笑する。
「今さら気づいたのか、兄者」
そんなことを考えていると、休夢が声をかける。
「兄者、疲れただろう」
「ん?」
「わしの蒸し風呂を用意させた。入っていかんか?」
職隆は休夢を見る。
「……おぬし、随分と贅沢なことをしておるな」
休夢は笑った。
「贅沢?」
「蒸し風呂まであるではないか」
「いやいや」
休夢は首を振る。
「桑園から出る枝なんかが、けっこう溜まるんじゃ」
「それを薪にしておる」
「……余り物か」
「余り物じゃ」
職隆は少し考えた。
「……だから贅沢ではない、と」
「そういうことじゃ」
職隆は苦笑した。
「黒田の家訓は質素倹約だからな」
「そうじゃ」
「……そうか」
職隆は立ち上がった。
「では、せっかくだ。入らせてもらおう」
蒸し風呂から上がった職隆は、客間へ戻ってきた。
「……あー、気持ちいい」
汗を拭いながら、用意されていた冷えた澄酒を口にする。
「ふぅ……」
休夢も向かいに座った。
しばらく、二人とも黙って酒を飲んでいた。
だが、休夢はちらちらと職隆の顔を見る。
「……兄者」
「ん?」
「やっぱり、なんか悩んどるな」
職隆の手が止まった。
「……分かるか」
「兄者がそんな顔で酒を飲むときは、大抵ろくなことがない」
「そうか」
職隆は酒を置いた。
そして、しばらく考えてから口を開く。
「……松を、嫁に出せと言われとるんじゃ」
休夢の顔から笑みが消えた。
「松を?」
「ああ」
職隆は、御着であったことを話した。
浦上との婚姻同盟。
赤松宗家の義祐が仲介していること。
そして、その嫁ぎ先として松の名前が出たこと。
「わしは反対なんじゃ」
休夢は黙って聞いている。
「浦上との縁組そのものが悪いとは言わん」
職隆は盃を置く。
「だが、政秀を挑発することになる」
「今は農繁期で戦が止まっているだけじゃ。ここで浦上と結べば、また戦になるかもしれん」
休夢は何も言わない。
職隆は続けた。
「それに……」
そこで言葉を切る。
「おぬしの跡継ぎが、嫁に出ることになってしまう」
休夢は目を伏せた。
松は黒田家の外へ出すために育てている娘ではない。
これからの黒田を背負う存在として、二人とも見ている。
「……そうじゃな」
休夢が小さく答えた。
職隆は残った酒を飲み干す。
「だから、わしはどうするべきか悩んどる」
その言葉に、休夢はしばらく黙っていた。
やがて、
「兄者」
「なんじゃ」
「松本人は、なんと言っておる?」
職隆は答えられなかった。
「……まだ聞いておらん」
「そうか」
休夢はそれ以上、何も言わなかった。
だが職隆には、その沈黙が妙に重く感じられた。
用意されていた冷やした澄酒を口に含む。
「……ああ、うまい」
少しだけ気が緩んだ。
そのとき、襖が開いた。
「お養父様?」
松が入ってくる。
職隆は盃を持ったまま、松を見る。
「おう」
「どうしたのですか?」
「いや……」
職隆は、なかなか本題を切り出せない。
「松」
「はい」
「最近は、どうだ?」
松は少し考える。
「そうですね」
そして、持っていたものを職隆へ見せた。
「こういうものを作らせました」
「……なんだ、これは?」
竹ひごと紙で作られた、妙な形のもの。
「紙飛行機です」
松が手を放す。
紙飛行機は、ふわりと上を滑るように飛んだ。
職隆はそれを目で追う。
「……玩具か?」
「違います」
松は当然のように答えた。
「これで空を飛びます」
「……」
「人を乗せて」
「…………」
職隆の顔から、表情が消えた。
少し離れたところにいた休夢も、松を見る。
「……人を?」
「はい」
松は平然としている。
「まずは、この玩具を堺に流します」
「そこで興味を持った職人を砥堀に集めるのです」
「そして、本当に人を乗せて飛べるものを研究させます」
沈黙。
職隆と休夢。
二人の顔に、同時に深い皺が刻まれた。
職隆は、しばらく松を見つめていた。
そして――。
「……」
長い沈黙が流れた。
長い沈黙のあと。
職隆は、ゆっくりと盃を置いた。
「……お前を、御着に召喚せんといかんようになった」
松が首を傾げる。
「御着に?」
「ああ」
職隆は一度、休夢を見る。
それから松へ向き直った。
「浦上に嫁いでほしいと、小寺から言われた」
松の顔から、笑みが消える。
「……私が?」
「ああ」
職隆は静かに頷いた。
「だがな」
少し間を置く。
「わしは、もう決めた」
松が職隆を見る。
「断ってくれ」
「……」
「お前の口から断れ」
職隆は盃を手に取ることもなく、松を見つめた。
「わしは、それでどんな尻ぬぐいがあろうと構わん」
「小寺の場で、断れ」
松は何も言わない。
職隆もまた、言葉を続ける。
「……お前は、黒田の外に出したくない」
その言葉だけが、静かな客間に残った。




