SS 姉上に呼び出されて
官兵衛は、松のいる砥堀の屋敷へ向かっていた。
高岡の戦が終わってから、しばらく経つ。
そんな折、松から、
「砥堀まで来て」
と呼び出されたのだ。
何の用なのかは聞いていない。
屋敷へ着き、庭へ回る。
すると――。
「……善助?」
庭の隅で、善助が一心に土を掘っていた。
しかも、全身泥だらけである。
官兵衛はしばらくその姿を眺めた。
「何をしている?」
善助は手を止め、顔を上げる。
「若」
「姉上に呼ばれて来た。取り次いでくれ」
「承知しました」
善助はそう答えると、鍬を置いた。
そして泥だらけのまま、屋敷の中へ入っていく。
官兵衛はその背中を見送った。
「……あの格好で入るのか?」
そう思ったが、すぐに気にするのをやめた。
自分も姉に呼ばれた身だ。
何か大事な話でもあるのだろう。
そう思いながら、官兵衛は庭で松を待つことにした。
官兵衛が庭で待っていると、やがて屋敷の奥から声が響いた。
> 「善助ばかー!」
「……」
官兵衛は思わず屋敷のほうを見る。
何があったのだろう。
すると、しばらくして松が姿を現した。
「姉上」
「官兵衛、来ていたのね」
「はい」
官兵衛は一礼する。
そして、松の後ろへ目を向けた。
そこには、先ほどよりさらに泥だらけになった善助がいた。
「姉上、何やら奥が騒がしかったように聞こえましたが……」
「あんたが泥だらけの善助を送り込んだのよ」
「私が?」
「そうよ。あいつ、その格好のまま屋敷に上がってきたから」
松は呆れたように息を吐く。
「蹴飛ばしてやったわ」
「……そうでしたか」
善助は何も言わず、そそくさと庭へ戻っていく。
官兵衛はその背中を見送った。
「……姉上」
「なに?」
「善助は、何をしているのです?」
「あとで分かるわ」
松は何でもないことのように答えた。
「それより、少し話があるの」
官兵衛は姿勢を正した。
「はい」
松の表情が、少しだけ真面目になる。
「高岡の戦のことよ」
松は官兵衛を見つめた。
「防衛戦から始めることは聞いていたわ」
「はい」
「でも、あまりにもぎりぎりすぎると思うの」
官兵衛は黙って聞いている。
松は責めるような口調ではなかった。
「あなたが私や父上を信じているのはいいけど」
「何かあったら、遅れていた可能性があるのよ」
「……」
「今回は間に合ったわ」
「でも、戦場では何が起こるか分からないでしょう?」
官兵衛は静かに頷いた。
松は続ける。
「一つでも予定と違えば、命令が届くのが遅れる」
「兵が動くのが遅れる」
「その少しの遅れで、取り返しがつかなくなることだってあるわ」
官兵衛は高岡での戦を思い返す。
あのときは、結果として間に合った。
だからこそ、自分の判断に問題があったとは考えていなかった。
しかし松が言っているのは、結果ではない。
**「間に合わなかった可能性」**のことだった。
> 「もう少し、余裕というものを用意してもらわないと危ないわよ」
「……はい」
官兵衛は素直に答えた。
松は、それ以上は責めなかった。
「それだけですか?」
官兵衛が顔を上げる。
「それだけよ」
「……そのためだけに、砥堀まで呼ばれたのですか?」
「そうよ」
あまりにもあっさりと答えられ、官兵衛は少し拍子抜けした。
松は小さく笑う。
「勝ち戦のことを、あとで家臣の前でつつかれたくないでしょう、あなた」
「……」
「だから、二人で話せるところで言っているの」
官兵衛は少し考え、それから頭を下げた。
「それは……ご配慮があると」
「分かればいいのよ」
松はそれだけ言って、話を終えた。
官兵衛も立ち上がる。
叱られたというより、**危なかったところを教えられた**。
そんな感覚だった。
屋敷を出て庭へ戻る。
そこでは善助が、相変わらず泥だらけになって穴を掘っていた。
官兵衛は足を止める。
「善助」
「はい、若」
「……すまんかったな」
「何がでございます?」
「姉上に呼ばれたことを伝えてくれたのだろう」
「はい」
官兵衛は、善助が掘っている穴を見下ろす。
「しかし……なぜ、穴を掘っているのです?」
善助は鍬を握ったまま答えた。
「池を作るということでございます」
「……池?」
「はい。姫様のお考えで」
官兵衛はしばらく穴を見つめた。
それから屋敷のほうを見る。
「……そうか」
善助は再び鍬を振り下ろした。
ザクッ。
官兵衛は何も聞かなかったことにして、その場を後にした。
官兵衛は屋敷を出た。
振り返ると、善助はまだ庭で穴を掘っている。
「……」
官兵衛は一度だけ善助を見る。
「まあ……よいか」
そのまま歩き出す。
背後から、
「若!」
善助の声が飛んできた。
官兵衛が振り返る。
「何だ?」
「池ができましたら、見に来てください」
官兵衛は少しだけ笑った。
「……ああ」
そして、砥堀の屋敷を後にする。
その背中を見送りながら、善助は再び鍬を振るった。
ザクッ。
――高岡の戦は、勝った。
だが官兵衛にとっては、そこで終わりではなかった。
「勝ったからよい」のではない。
もし、ほんの少し何かが違っていたら。
そのことを、官兵衛は初めて深く考えることになった。




