SSH 次郎、姉を頼る
松が砥堀へ戻ってきて、数日が経った。
高岡での戦も終わり、ようやく屋敷にもいつもの静けさが戻りつつある。
私は今日も屋敷の中で、これからのことを考えていた。
そこへ、女中のはるがやってくる。
「姫様」
「なに?」
「弟君がお見えです」
「弟?」
私は顔を上げた。
官兵衛だろうか。
だが、官兵衛ならわざわざ「弟君」と呼ぶほど珍しいことでもない。
「どの弟?」
「次郎様でございます」
「ああ、次郎」
官兵衛の実弟。
まだ十歳だったはずだ。
「そう。通して」
「かしこまりました」
はるが一礼して下がっていく。
私は少し首を傾げた。
次郎が私のところへ来るなんて、珍しい。
何か用でもあるのだろうか。
しばらくして、廊下から小さな足音が聞こえてきた。
そして――。
「姉上にお目にかかります」
次郎が姿を見せた。
私は軽く手を上げる。
「いらっしゃい。どうしたの?」
次郎は少し緊張したような顔をしていた。
だが、その目はどこか期待に輝いている。
「……少し、お話を伺いたくて参りました」
「私に?」
「はい」
私は首を傾げた。
いったい何の話だろう。
次郎はまだ何も言わない。
その様子を見て、私はとりあえず座るよう促した。
このときの私は、まさかこの少年が、**戦に出たいと言いに来た**とは思ってもいなかった。
次郎は、案内された部屋へ入ってきた。
「こちらへどうぞ」
はるに促され、次郎は部屋の中を見回す。
「……」
ここが姉上の屋敷なのか。
砥堀へ来るのは初めてではない。
だが、こうして中まで通されたのは初めてだった。
屋敷そのものが大きい。
黒田の本家とは、また違った雰囲気がある。
「こちらのお席へ」
「はい」
次郎は言われるまま、部屋の中央へ進んだ。
そこには、見慣れないものが置かれていた。
「……これは?」
「お椅子でございます」
「椅子?」
言われた意味がよく分からない。
とりあえず促されるまま腰を下ろす。
「……!」
柔らかい。
下に敷かれているものが、ずいぶんと柔らかかった。
「これは……」
次郎はそっと手で触れてみる。
座るためのものなのに、まるで布団のようだ。
目の前には机もある。
黒く光っている。
木でできているようだが、普通の机とはどこか違う。
表面が滑らかで、光を反射している。
「姉上の屋敷には、変わったものが多いな……」
次郎は椅子に座ったまま、部屋を見回した。
しばらくすると、廊下から足音が聞こえてきた。
次郎は姿勢を正す。
襖が開いた。
「待たせたわね」
「姉上!」
入ってきた松を見て、次郎は目を丸くした。
「……?」
しばらくして、松が入ってきた。
白い小袖の上に薄手の上着を重ね、髪もきちんと整えている。
屋敷で過ごすには十分に軽いが、家臣と対面するにも恥ずかしくない装いだった。
だが、次郎には見慣れない。
松はそんな次郎の視線に気づくと、自分の姿を見下ろした。
「どう?」
「……姉上、そのような姿で、なにゆえ……」
「最近やっとできたの」
「できた?」
「ええ」
松は何でもないことのように答える。
「いつもの衣、重いのよ」
「ですが……」
「いちいち着替えるのも面倒でしょう?」
次郎は返事に困った。
姉上が何を言っているのか、よく分からない。
「これもちゃんとした衣装よ」
松は裾を軽くつまむ。
「ワンピースよ」
「……わん、ぴーす?」
「そう」
次郎には、その言葉の意味すら分からなかった。
だが、姉上がそう言うのなら、そういうものなのだろう。
松はそんな次郎を見て、椅子へ腰を下ろした。
「それで?」
「はい?」
「何の用で来たの?」
次郎は少し背筋を伸ばした。
「この前の戦いのことを、お聞きしたくて参りました」
「戦い?」
「はい。姉上が高岡へ兵を率いて行かれたと聞きました」
「ああ、そのこと」
松は頷いた。
「別に大したことではないわよ」
「大したことではないのですか?」
「ええ。敵の荷を待ち伏せして、奪ってきただけだから」
「……」
次郎は目を丸くした。
奪ってきただけ。
姉上はそう言うが、十歳の次郎にとっては、それだけで十分に大きな話だった。
「敵と戦ったのでしょう?」
「まあ、戦ったわね」
「何人くらい……」
「さあ?」
松は首を傾げる。
「数えていないもの」
「首級は?」
「持って帰ってないわ」
「え?」
「武器と兵糧を持って帰ったの」
次郎は少し考え込む。
戦に出たなら、敵を討って武功を立てるものだと思っていた。
だが姉上は、それよりも別のものを持ち帰ったらしい。
「……姉上」
「なに?」
「某も、戦に出とうございます」
「…………」
松の動きが止まった。
「……直訴?」
「はい」
次郎は真っ直ぐ松を見る。
「父上には、まだ戦に出る必要はないと言われております」
「でしょうね」
「ですが、某も兄上をお支えしたく……」
「官兵衛を?」
「はい」
次郎は頷いた。
「兄上は、もう戦場に出ております」
「そうね」
「ならば、某も何かせねばなりません」
松は次郎をじっと見た。
まだ十歳。
それでも、本人は大真面目らしい。
「それで、どうして私のところへ来たの?」
「高友叔父上にお聞きしました」
「お養父様に?」
「はい」
次郎は少し得意そうに答える。
「姉上がお許しになるのであれば、戦に出てもよいのではないかと」
「…………」
松は頭を抱えそうになった。
「ちょっと待って」
「はい?」
「父上が駄目だと言っているのよね?」
「はい」
「それなのに、養父様に聞いて、それで私のところへ来たの?」
「……はい」
「官兵衛は?」
「お忙しくしており、会えませんでした」
「だから私?」
「はい」
松はしばらく次郎を見つめた。
「……若いわね」
「?」
「いや、なんでもないわ」
松はため息をついた。
「それで?」
「はい」
「戦に出て、何をするつもりなの?」
松に問われ、次郎は迷うことなく答えた。
「武功を立てます」
「武功?」
「はい」
次郎は胸を張った。
「敵を討ち、功を立てれば、兄上のお役にも立てるはずです」
「どうして武功を立てたいの?」
「某は次男ですから」
次郎は少しだけ視線を落とした。
「兄上をお支えしなくてはなりません」
「……そう」
松は次郎を見る。
兄を支えたい。
その気持ち自体は悪くない。
むしろ、弟としては立派な考えなのだろう。
だが――。
「それで、私の隊に潜り込みたいの?」
「はい!」
次郎は勢いよく頷いた。
「だから――」
「諦めなさい」
「え?」
あまりにもあっさりと言われ、次郎は固まった。
「なぜです!」
「父上が駄目と言っているから」
「ですが!」
「それに、十歳でしょう?」
「十歳でも戦えます!」
「そういう問題じゃないわ」
松は淡々と言う。
「勝手に戦場へ出たら、官兵衛の足を引っ張ることになるわよ」
「……」
「あなたが危なくなれば、兄はあなたを助けなければならないでしょう?」
次郎は黙った。
「兄上が戦うために出ているのに、弟を守るために余計な兵を動かすことになったら?」
「……それは」
「兄を支えるどころか、兄の負担になるわ」
次郎は俯いた。
それでも、しばらくすると顔を上げる。
「それでも……」
「なに?」
「許可していただけないのであれば、勝手に出ます」
「それはやめなさい」
松の声が少し低くなった。
「絶対に」
「ですが――」
「駄目」
有無を言わせない声音だった。
「勝手に出れば、本当に官兵衛の足を引っ張ることになるわ」
「…………」
「戦に出ることだけが、兄を支えることじゃないのよ」
次郎は何も言えなかった。
だが、それでも諦めきれないらしい。
「では……」
しばらくして、次郎が顔を上げた。
「姉上の隊に入れてください」
「……」
「姉上の隊なら、兄上の隊とは別です」
「そうね」
「姉上なら、某を守ることもできるでしょう?」
松は次郎を見た。
そして、少し考えてから――。
「いいけど」
「本当ですか!」
次郎の顔が明るくなる。
「ただし――」
松は続けた。
「私、次は前に出ないわよ」
「…………」
次郎の顔から笑みが消えた。
「それは……困ります」
「でしょうね」
「では、どうやって武功を……」
「知らないわ」
松は平然と答えた。
「無理ね」
「姉上!」
砥堀の屋敷に、次郎の声が響いた。
私は思わず笑ってしまった。
「そんなに怒らなくてもいいでしょう」
「怒ってなどおりません!」
「怒ってるじゃない」
「これは……!」
次郎は言葉を詰まらせる。
戦に出たい。
兄を支えたい。
武功を立てたい。
その気持ちは分かる。
けれど、十歳の子供を戦場へ連れていくつもりはない。
「まあ、焦らなくてもいいわ」
「しかし……」
「戦は逃げないもの」
私はそう言って、次郎を見る。
「あなたが本当に兄を支えたいと思っているなら、今できることをすればいいのよ」
「今、できること……」
「ええ」
次郎は考え込む。
すぐに答えは出ないようだった。
「それにね」
私は椅子から立ち上がった。
「武功を立てる方法なんて、戦場で敵の首を取ることだけじゃないわ」
「……そうなのですか?」
「ええ」
次郎は私を見る。
「それは、もう少し大きくなってから教えてあげる」
「今は教えていただけないのですか?」
「まだ早いわ」
「……」
次郎は不満そうな顔をした。
けれど、先ほどのように勝手に出ると言い張ることはなかった。
「今日は帰りなさい」
「はい……」
次郎は渋々立ち上がる。
そして部屋を出る直前、振り返った。
「姉上」
「なに?」
「次に戦へ行かれるときは……」
「うん?」
「本当に前へ出られないのですか?」
「出ないわよ 後方でいいなら ここに居なさい」
「……分かりました」
次郎は今度こそ部屋を出ていった。
私はその背中を見送りながら、苦笑する。
「十歳かぁ……」
兄を支えたい。
そのために武功が欲しい。
きっと今は、それが一番分かりやすい方法なのだろう。
「まあ、そのうち分かるわよ」
私はそう呟いた。
次郎が本当に兄を支える方法を知るのは――もう少し先のことになる。




