第二話 私は、女だった
父のところへ向かう途中、ふと気づいた。
「……あれ?」
私は足を止めた。
黒田家。
父は黒田職隆。
弟には万吉がいる。
つまり私は――。
黒田家の娘だ。
そこまではいい。
むしろ、願ってもない。
黒田家は戦国の世を生き抜き、江戸時代まで続いた家なのだから。
ここにいれば、私は死なずに済む。
前の人生のように、病気で苦しむこともない。
戦国時代とはいえ、黒田家は残る。
ならば、この家でお世話になりながら、のんびり生きていけばいい。
そう思っていた。
――ほんの少し前までは。
「…………」
私は自分の身体を見下ろした。
小さな手。
小さな足。
そして、女物の着物。
「……私、女じゃん」
当たり前のことだった。
生まれ変わった身体が女の子なのだから、そんなことは最初からわかっている。
なのに、今になって急に気になった。
戦国時代。
武家。
娘。
そして――異母弟の万吉。
「…………」
嫌な予感がする。
ものすごく嫌な予感がする。
私は父の部屋へ向かう足を止め、頭の中で考え始めた。
戦国時代の武家で、女の子は何をするのか。
もちろん、家を継ぐわけではない。
家督を継ぐのは基本的に男だ。
黒田家にも、男である万吉がいる。
しかも私は、その姉だ。
ならば――。
「……嫁に出される?」
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、背筋がぞわっとした。
いやいや。
待って。
ちょっと待って。
私はもう一度考える。
黒田家の娘。
家督は継がない。
弟は男。
戦国時代。
武家。
「…………」
どう考えても、嫁に出される。
政略結婚。
家と家を結ぶための婚姻。
娘が他家へ嫁ぎ、その家との関係を強くする。
前世で見てきた戦国ものでも、そういう場面はいくらでもあった。
「…………嫌だ」
小さく呟く。
いや。
待て。
私は何を考えている。
まだ八歳だ。
結婚なんて、ずっと先の話だ。
今すぐ嫁に出されるわけじゃない。
それに、今は黒田家にいる。
安全な場所にいる。
だったら、何も問題は――。
そこで、ふと大河ドラマの記憶が蘇った。
黒田官兵衛。
岡田准一。
その周りにいた人たち。
戦。
婚姻。
別れ。
そして――黒田家から嫁いでいった女性たち。
「…………」
嫁いだら、黒田家を離れる。
当然だ。
知らない家へ行く。
知らない男と暮らす。
しかも、ここは戦国時代だ。
嫁ぎ先が戦に巻き込まれれば、自分も巻き込まれる。
城が落ちれば終わり。
夫が戦に出れば、その帰りを待つ。
敵に攻められれば、自分だって逃げなければならない。
場合によっては――死ぬ。
「…………嫌だ」
さっきより、はっきりと声が出た。
嫌だ。
私はようやく健康な身体を手に入れたのだ。
走れる。
歩ける。
息ができる。
好きなものを食べられる。
前の人生でできなかったことを、これからいくらでもやれる。
それなのに嫁に出されて。
知らない男の家へ行って。
そこで戦に巻き込まれて。
死ぬ?
「嫌だ!」
今度は思わず声が大きくなった。
「姫様?」
後ろから女中の声がする。
「あっ……」
慌てて振り返る。
「どうかなさいましたか?」
「……なんでもない」
「そうですか?」
「うん。なんでもない」
女中が不思議そうに私を見る。
私は何でもない顔を作りながら、頭の中では必死に考えていた。
どうすればいい。
どうすれば、嫁に出されずに済む?
家を出たくない。
黒田家にいたい。
だって、ここなら生き残れる。
私が知っている歴史では、黒田家は残っている。
それなら――。
「黒田家から出なければいい」
ぽつりと呟いた。
そうだ。
嫁に行かなければいい。
黒田家にいればいい。
そうすれば、少なくとも自分から危険な場所へ行く必要はない。
父もいる。
母もいる。
弟の万吉もいる。
そして何より――黒田家そのものが残る。
「よし」
私は小さく拳を握った。
「決めた」
黒田家から出ない。
絶対に、嫁にも行かない。
私はここで生きる。
健康な身体を手に入れたのだ。
今度こそ、自分の人生を自分で選ぶ。
そのためなら――。
「……何でもする」
そう決意した私は、再び父の部屋へ向かって歩き始めた。
父の部屋へ向かうのをやめ、私は自分の部屋へ戻った。
今すぐ父に、
「私は嫁に行きたくありません!」
と言ったところで、どうなるだろう。
「そうかそうか」
と笑われて終わる。
たぶん、それで終わる。
そもそも、八歳の娘が結婚について何を言ったところで、大人が本気にするとは思えない。
「……どうすればいいんだろう」
私は畳の上に座り込んだ。
黒田家から出たくない。
これは決まった。
問題は――。
「どうやって?」
だった。
戦国時代。
武家の娘。
嫁入り。
この三つを頭の中で並べてみる。
普通に考えれば、私に拒否権なんてない。
では、どうする。
「真正面から言う?」
私は首を振った。
「嫁に行きたくありません!」
父にそう訴える自分を想像する。
「なぜだ?」
「嫌だからです!」
「そうか」
……終わりだ。
「無理」
私は板間にごろんと寝転がった。
なら、別の方法。
「……暴れる?」
ふと思いつく。
家臣の言うことを聞かない。
女中にも逆らう。
父にも噛みつく。
気に入らないことがあれば癇癪を起こす。
そうすれば、嫁ぎ先も嫌がるかもしれない。
「……いや」
すぐに却下した。
そんなことをしたら、単純に面倒な娘だと思われるだけだ。
むしろ、
「こんな娘、早くどこかへやってしまえ」
となるかもしれない。
「ダメだ」
次。
「病弱を装う?」
これならどうだろう。
病気がちな娘なら、嫁ぎ先も嫌がるかもしれない。
……いや。
「絶対に嫌」
私は自分の手を見た。
小さな手。
健康な身体。
昨日まで、喉から手が出るほど欲しかったもの。
それを、自分から捨てるなんてありえない。
走れる。
歩ける。
外へ行ける。
好きなものを食べられる。
身体を動かせる。
私は、この身体で生きたい。
「病弱は却下」
では、どうする。
私は腕を組んだ。
「…………」
そもそも、なぜ私は嫁に出される?
女だから。
そして、黒田家にとって私は娘だから。
「……娘だから?」
私は首を傾げた。
だったら。
「私が、黒田家にとって必要な人間になればいい」
その考えが浮かんだ瞬間、私は顔を上げた。
「……あ」
これだ。
嫁に出すよりも、家に置いておいたほうがいい。
そう思わせればいい。
父に。
家臣に。
親戚に。
奉公人に。
黒田家に関わる人たちに、
「この子を外へ出すのは惜しい」
と思わせる。
「……外堀を埋めよう」
ぽつりと呟いた。
真正面から、
「嫁に行きません!」
と戦う必要なんてない。
そもそも、私は八歳だ。
今から十年近くある。
その間に、少しずつ自分の居場所を作ればいい。
父には、
「この娘は黒田家に必要だ」
と思ってもらう。
親戚には、
「可愛い姪だ」
と思ってもらう。
奉公人には、
「この姫様のためなら」
と思ってもらう。
そして、実際に役に立つ。
「……全部やろう」
私は拳を握った。
一つだけでは足りない。
家族からは、外へ出したくないと思われる。
親戚からは、可愛がられる。
奉公人からは、信頼される。
そして黒田家そのものからは、
「この子がいたほうが家が良くなる」
と思われる。
そこまでいけば、誰かが私を嫁に出そうとしても、
「いや、この子は家に置いておいたほうがいい」
と言ってくれる人がいるかもしれない。
「うん」
私は大きく頷いた。
八歳の私にできることなんて、たかが知れている。
武芸もできない。
政治もできない。
領地のことなんて何も知らない。
この時代の常識だって、まだわからない。
でも――。
前の人生の知識ならある。
漫画。
ドラマ。
映画。
動画。
私は病床にいながら、いろんな人間を見てきた。
どうすれば人が喜ぶのか。
どうすれば怒るのか。
どうすれば信用されるのか。
どうすれば、人が自分から動いてくれるのか。
少なくとも、人と接することだけはずっと考えてきた。
そして私は、前の人生でずっと助けてもらう側だった。
だからこそ――。
人に助けてもらえることが、どれほどありがたいことなのかも知っている。
「だったら……」
今度は私が、人を大切にすればいい。
働いてくれたら感謝する。
困っていたら話を聞く。
失敗したからといって、すぐに怒らない。
頑張った人には、ちゃんと報いる。
そうすれば、いつか私を助けてくれる人も増えるかもしれない。
「まずは、家族」
父には、役に立つ娘だと思ってもらう。
そして――。
「万吉」
私は弟の顔を思い浮かべた。
後の黒田官兵衛。
私よりずっと有名になる男。
「……敵に回す理由はないよね」
むしろ、仲良くしておいたほうがいい。
親戚には――。
「可愛い姪になろう」
ただ可愛いだけでは駄目だ。
会えば嬉しい。
話せば楽しい。
何かあれば気にかけてしまう。
そんな姪になればいい。
そして奉公人。
ここは重要だ。
家族よりも、毎日顔を合わせる時間が長い人たちなのだから。
「ちゃんと名前を覚えよう」
誰が誰なのか。
何をしてくれているのか。
それくらいは覚える。
働いてくれたら、
「ありがとう」
と言う。
困っていたら、
「大丈夫?」
と聞く。
そして――。
「無理なことはさせない」
私が前の人生でしてほしかったことを、今度は自分からする。
それだけでも、少しは違うかもしれない。
「よし」
私は立ち上がった。
まだ八歳。
何もできない。
だからこそ、今から始めればいい。
家族には――。
「役に立つ娘」
親戚には――。
「可愛い姪」
奉公人には――。
「信頼できる松姫様」
そして黒田家には――。
「必要な人間」
私は一つずつ、頭の中で並べていく。
「全部やる」
嫁に出されないためなら、できることは全部やる。
それに、せっかく二度目の人生をもらったのだ。
前の人生では、病気のせいでできなかった。
今は違う。
身体は健康。
時間もある。
そして、ここは黒田家だ。
ならば――。
「この家で、好きに生きてやる」
私はそう呟いて、拳を握った。
これが、私の生存戦略の始まりだった。




