第一話 目覚めと現状把握 天文22年 夏
暑い。
それが、最初に感じたことだった。
じっとりとした暑さだった。
けれど、不快ではない。
どこか懐かしいような、そんな暑さだった。
私はゆっくりと目を開けた。
白い天井があると思っていた。
いつもの天井。
何度も見上げた天井。
けれど、そこにあったのは白ではなかった。
木だった。
太い梁が見える。
「……?」
私はしばらく、それを見つめていた。
ここは、どこだろう。
病院ではない。
そう思いながら、身体を起こそうとした。
いつものように、少し力を入れて、それからゆっくりと――。
「……あれ?」
身体が起きた。
それだけだった。
何の苦労もなかった。
私は呆然とした。
もう一度、身体を起こす。
やはり問題ない。
息が苦しくない。
胸が痛くない。
身体が重くない。
私は自分の手を見た。
小さな手だった。
細い指。
その指を一本ずつ動かしてみる。
右手。
左手。
握る。
開く。
問題ない。
「……動く」
声が出た。
それにも驚いた。
私は自分の胸に手を当てた。
ちゃんと呼吸をしている。
息を吸う。
吐く。
もう一度吸う。
苦しくない。
「…………」
私は掛物をめくった。
足が見えた。
小さい。
どう見ても子供の足だ。
私は恐る恐る、片足を床へ下ろした。
ひんやりとした感触が足の裏に伝わってくる。
もう片方も下ろす。
立ち上がる。
「……立てる」
思わず呟いた。
私は一歩、歩いた。
もう一歩。
何の問題もない。
ふらつかない。
転ばない。
そのまま部屋の中を歩いてみる。
歩ける。
普通に歩ける。
「……」
私は立ち止まった。
そして、ふと思った。
走れるんじゃないか。
そんな考えが浮かんだ。
馬鹿みたいな話だ。
走るなんて、子供なら当たり前のことなのに。
私にとっては、そうじゃなかった。
私は部屋の中を見回した。
誰もいない。
なら――。
「……えいっ」
私は走った。
「……!」
一歩。
二歩。
三歩。
足が動く。
身体が前へ進む。
私はそのまま部屋の端まで走った。
そして振り返る。
息が上がっている。
でも――。
「……苦しくない」
胸に手を当てる。
心臓が早く動いている。
それだけだった。
痛くない。
呼吸ができる。
まだ走れる。
私はもう一度、走った。
今度はさっきより速く。
足を動かす。
床を蹴る。
身体がついてくる。
「……走れる」
声が震えた。
私はその場にしゃがみ込んだ。
「走れる……」
何度も呟く。
おかしい。
何がそんなに嬉しいのか。
走れる。
ただ、それだけだ。
それなのに――。
涙が出てきた。
「……なんで」
自分でもわからない。
頬を涙が流れていく。
私は袖で拭った。
そして、ようやく思い出した。
前の私は――。
病床にいた
長い時間を、ベッドの上で過ごしていた。
身体を動かすことが難しかった。
外へ行きたくても、簡単には行けなかった。
学校へ行くこともできなかった。
だから私は、画面の向こう側ばかり見ていた。
漫画を読んだ。
ドラマを見た。
映画を見た。
動画もたくさん見た。
いろんな物語を見た。
いろんな人間を見た。
身体を動かせない分、頭の中では好きなだけ動き回った。
主人公になった。
冒険者になった。
武将にもなった。
画面の中の人たちが笑えば、自分も笑った。
誰かが怒れば、なぜ怒ったのか考えた。
誰かが誰かを好きになれば、どうして好きになったのか考えた。
そんなことばかりしていた。
そして――。
私は死んだ。
「…………」
その記憶だけは、はっきりしている。
死んだ。
なのに、今こうして生きている。
私は立ち上がった。
自分の身体を見る。
小さな身体。
小さな手。
小さな足。
それでも――。
この身体は自由だった。
私は窓へ向かった。
障子を開ける。
外から風が入ってきた。
暑い。
けれど、心地よかった。
鳥の声がする。
遠くから人の声も聞こえる。
私は空を見上げた。
青い。
ただ、それだけなのに。
胸がいっぱいになった。
「……今度こそ」
私は呟いた。
もう一度、風を吸い込む。
「今度こそ、好きに生きられる」
走れる。
歩ける。
外へ行ける。
自分で見られる。
自分で触れられる。
自分で選べる。
前の人生でできなかったことを、今度はやってみたい。
何をするかなんて、まだ決まっていない。
そんなことは、どうでもいい。
まずは――。
生きたい。
この身体で。
自分の足で。
好きなところへ行って。
好きなものを見て。
好きな人と話して。
「……今度こそ、私の人生だ」
その言葉を口にしたとき、胸の奥が少しだけ軽くなった。
そのときだった。
廊下から、ぱたぱたと足音が聞こえてきた。
「松姫様?」
私は振り返った。
襖の向こうから、女の声がする。
「お目覚めになられましたか?」
松姫様。
その呼び方に、私は首を傾げた。
――私のこと?
襖が静かに開いた。
「松姫様、お目覚めになられましたか?」
入ってきたのは、見覚えのない女だった。
二十代くらいだろうか。
私を見るなり、ほっとしたように胸を撫で下ろしている。
「はい」
とりあえず返事をする。
「お加減はいかがでございますか?」
「大丈夫」
「まあ……」
女は目を丸くした。
「お身体を起こされても、平気なのですね」
「うん」
「先ほどまで、ずいぶんお休みになっておられましたから」
「そうなの?」
「はい。旦那様も心配しておられました」
旦那様。
父親のことだろうか。
私は女の顔を見ながら考えた。
どうやら私は、この家ではそれなりの立場らしい。
しかも、松姫様と呼ばれている。
姫。
つまり私は、どこかの武家の娘なのだろう。
そこで、ふと疑問が湧いた。
「ねえ」
「はい?」
「ここって、どこ?」
女が不思議そうに首を傾げる。
「……こちらでございますか?」
「うん」
「黒田家でございます」
「黒田……」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
黒田。
どこかで聞いたことがある。
いや。
知っている。
でも、どこで知った?
「ここは、どこにあるの?」
「播磨でございます」
「播磨……」
今度は、その地名に引っかかった。
播磨。
前世の記憶が頭の中を駆け巡る。
歴史。
戦国時代。
黒田。
「……まさか」
私は思わず呟いた。
「どうされました?」
「お父さん……じゃなくて、父上の名前は?」
「旦那様でございますか?」
「うん」
「黒田職隆様です」
「…………」
その名前を聞いた瞬間、記憶の中に一つの顔が浮かんだ。
黒田職隆。
そして、その息子。
私は急に落ち着かなくなった。
「兄弟は?」
「弟君に万吉様でございます」
「万吉……」
その名前。
知っている。
確かに知っている。
私は前世で、漫画やドラマをたくさん見ていた。
その中には、戦国時代を扱った作品もあった。
大河ドラマ。
『軍師官兵衛』。
主演の俳優の顔まで、はっきりと思い出せる。
岡田准一。
「…………」
私は黙ったまま、女を見る。
「松姫様?」
「……黒田官兵衛」
「はい?」
女が首を傾げる。
私は思わず口元を押さえた。
万吉。
黒田職隆。
播磨。
黒田家。
頭の中で、ばらばらだった記憶が一つにつながっていく。
「……万吉って」
「はい」
「黒田官兵衛?」
女はますます不思議そうな顔をした。
「万吉様が……何か?」
「え、あ……」
そうだ。
目の前にいるのは、私が知っている「黒田官兵衛」ではない。
まだ元服もしていない。
ただの万吉だ。
私が知っているのは、この子が大人になった後の名前。
「……ううん。なんでもない」
女は首を傾げたままだった。
私は窓の外を見る。
見たことのない景色。
見たことのない建物。
けれど、そこには確かに人が生きている。
私が知っている世界とは違う。
それでも――。
私は生きている。
健康な身体で。
そして私は、歴史の中にいる。
「…………」
しばらく黙っていた私は、ふと笑った。
怖い。
正直に言えば、怖い。
戦国時代なんて、平和な場所じゃない。
だけど。
前世の私は、病床から出ることすらできなかった。
今の私は違う。
走れる。
歩ける。
自分で考えられる。
そして――。
ここは黒田家だ。
私は、前世の記憶を探るように考えた。
黒田家。
黒田官兵衛。
その名前を知っている。
でも、細かい歴史までは知らない。
何年に何が起きるとか。
誰がどこで戦うとか。
そんなことは、ほとんど覚えていない。
覚えているのは、大河ドラマで見た官兵衛の姿くらいだ。
そして、もう一つ。
黒田家は――。
「……残る」
思わず口に出した。
「松姫様?」
「なんでもない」
私は笑った。
細かいことはわからない。
歴史も知らない。
でも、黒田家という名前は知っている。
そして、黒田家が後の時代まで残っていくことくらいは知っている。
だったら。
ここにいればいい。
少なくとも、今の私にはそれだけで十分だった。
私は小さな手を握った。
健康な身体。
新しい人生。
そして、黒田家。
「……ここにいれば、私は死なずに済む?」
そう思った。
このときの私は、本気でそう思っていた。




