第十七話
堺。
京から戻った今井宗久と津田宗及は、信長から預かった沙汰状を携えて、会合衆の集まる場へ入った。
松は、すでに堺へ戻っている。
二人が席につくと、集まった商人たちの視線が一斉に集まった。
「して、信長公からの沙汰は?」
今井は懐から書状を取り出した。
「こちらにございます」
場が静まる。
津田が周囲を見渡しながら続ける。
「京での話は、概ねこちらに記されております」
沙汰状が開かれる。
信長との面談で出された要望。
認められたこと。
そして、今後堺側が守るべきこと。
一つずつ確認されていく。
「……なるほど」
「これならば、商いそのものが止まることはない」
「織田との話も、まずはまとまったということですな」
会合衆の間から、そんな声が上がる。
今井も頷いた。
「ええ。少なくとも、今回の話については、これで一段落と考えてよろしいでしょう」
津田も続ける。
「ただし、これから織田と堺との関わりが深くなることは間違いありますまい」
その言葉に、何人かが静かに頷く。
京での話は、思っていた以上に重かった。
だが、それをここまでまとめられたのは、
「しかし、松殿がおられたのは大きかったですな」
誰かがそう口にした。
今井が苦笑する。
「ええ。あのお方がおらなんだら、あの場であれほど話は進まなかったでしょうな」
津田も頷く。
「書状も、松殿がまとめられたものですし」
その名が出たところで、別の者が尋ねる。
「ところで、松殿は?」
今井が答える。
「もう別邸へ戻っております」
「京から一緒では?」
「ええ。少々慣れぬ旅でお疲れになられたようでな」
「ご心配おかけして申し訳ございません」と頭を下げる頭巾の女
今井は、それ以上は説明しなかった。
そして再び沙汰状へ目を落とす。
会合は、そのまま続けられた。
そのとき。
外から、少し慌ただしい声が聞こえてきた。
外から聞こえてきた声が、次第に近づいてくる。
「何者だ!」
「会合の最中でございますぞ!」
その声に、会合衆の何人かが顔を上げた。
今井も津田も、わずかに眉を寄せる。
やがて、入口の向こうから男が姿を現した。
黒田官兵衛だった。
官兵衛は中へ入ると、集まっている商人たちを見渡す。
そして、その中にいる一人へ視線を止めた。
頭巾をかぶった女。
松だった。
松も官兵衛に気づいた。
一瞬、目が合う。
だが次の瞬間には、松はすっと顔を横へ向けた。
官兵衛の眉が動く。
「……」
しばらく松を見つめる。
そして、
「姉上」
松は反応しない。
官兵衛がもう一度呼ぶ。
「姉上?」
松は顔を向けないまま、小さく答えた。
「……知りません」
官兵衛が固まる。
「……何?」
松は膝の上で手を握りしめながら、さらに言う。
「そのような方は、存じません」
声が、わずかに震えていた。
官兵衛は目を細める。
どう聞いても松の声だ。
頭巾で顔を隠していようとも、分からないはずがない。
「いや、どう見ても」
「存じません」
松が被せるように言う。
官兵衛は黙った。
周囲の商人たちは、二人の様子を見ている。
今井は松をちらりと見た。
頭巾の陰から見える顔
そして、わずかに震えている肩。
今井は小さく息を吐いた。
どうやら
松は、本気で官兵衛を知らないことにしたいらしい。
官兵衛は、松の言葉を聞いたまま黙っていた。
目の前にいるのが姉であることなど、疑いようもない。
それでも松は、頑なに官兵衛を見ようとしない。
官兵衛が一歩近づく。
「ならば、知らぬのであれば――」
松の肩がわずかに揺れた。
別の商人も続ける。
「武士であろうとも、我らの会合へ勝手に入り、話を止めてよい道理はございませぬ」
官兵衛は周囲を見渡す。
商人たちは皆、官兵衛を見ている。
そして今井が静かに口を挟む。
「黒田殿。申し訳ございませぬが、今日のところはお引き取り願えますかな」
今井が静かに頭を下げる。
官兵衛は今井を見る。
その横では松が必死に顔を伏せている。
今井には、その肩が小さく震えているのが分かる。
だからこそ、今は官兵衛にこれ以上踏み込ませない。
「警備は何をしておる」
官兵衛が外へ声を飛ばす。
「会合中であるぞ。武士を中へ通してよいのか」
商人側も負けない。
「まったくですな」
「次からは、会合中はお通しせぬよう申し付けておきましょう」
官兵衛はしばらく黙る。
そして松を見る。
松は、まだ官兵衛を見ない。
官兵衛は諦めたように息を吐く。
「……分かった」
「今日は帰る」
ここで官兵衛自身が退く。
すぐ隣にいた今井が、松へ小さく声を掛けた。
「……松はん」
松がわずかに振り向く。
今井は、その顔を見て目を細めた。
「泣いてますか?」
松は慌てて頭巾を少し深くする。
「いえ」
「泣いてません」
そして小さく息を吸う。
「大丈夫です」
今井はそれ以上聞かなかった。
ただ、
「……そうですか」
とだけ返す。
官兵衛はそのやり取りを見ていた。
松が泣いていることなど、当然分かっている。
だが今は、会合衆の中でそれを問い詰めることもできない。
官兵衛はしばらく黙っていたが、やがて低い声で、
会合衆たちは、ようやく緊張を解く。
だが今井だけは、去っていく官兵衛の背中を見ながら思っていた。
あれで帰るわけがないやろな。
官兵衛が出ていったあと、しばらく誰も口を開かなかった。
やがて、今井が小さく息を吐く。
「……さて」
場の空気を戻すように、机の上の沙汰状へ目を向ける。
「話を続けましょうか」
会合衆も、少しずつ書状へ視線を戻していく。
松はまだ俯いていた。
津田が気遣うように声を掛ける。
「松殿、大丈夫ですか?」
「……はい」
「本当に?」
「大丈夫です」
松はそう答えたものの、声にはまだ少し震えが残っている。
今井はそれ以上聞かなかった。
会合はそのまま進められた。
信長からの沙汰について確認し、これから堺としてどう動くかを話す。
ただ、先ほどの出来事があったためか、誰も長々とは話さなかった。
やがて、一通りの確認が終わる。
「では、本日はここまでといたしましょう」
今井がそう言うと、集まっていた商人たちがそれぞれ席を立つ。
松も立ち上がった。
頭巾を深くかぶり直す。
そして、何事もなかったような顔をして別邸へ戻っていった。
これで終わった。
松は、そう思っていた。
だが。別邸へ戻り、門をくぐろうとしたところで――
「松」
聞き慣れた声がした。
松の足が止まる。
ゆっくりと振り向く。
門の脇に、官兵衛が立っていた。
「……」
官兵衛は、先ほど会合で見せていたような険しい顔ではない。
ただ、松をまっすぐ見ている。
「帰るぞ」
「……嫌です」
即答だった。
官兵衛はため息を吐く。
「姉上」
「嫌」
「帰るぞ」
「帰りません」
松が逃げようと身を翻す。
しかし官兵衛が手を伸ばし、その手を取った。
「いや!」
松が振りほどこうとする。
「離して!」
「離さん」
「嫌です!」
二人が門前でもみ合う。
そのとき、
屋敷の中から、小さな足音が聞こえた。
とことこと門へ近づいてくる。
そして、「母様?」
松の動きが止まった。
官兵衛も止まる。
二人が、同時に声のした方を見る。
門の向こう。
そこに、小さな子供が立っていた。
門の向こうに立っていた子供は、松の姿を見つけると、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「母様!」
松は慌てて官兵衛の手を振りほどく。
そして、子供を抱き上げた。
「……どうしたの?」
子供は松の首へ腕を回す。
官兵衛は、その光景をただ黙って見ていた。
先ほどまでとは違う。
もう、何も言い逃れできない。
官兵衛の視線が、子供から松へ移る。
松は子供を抱いたまま、官兵衛から目を逸らした。
「……」
官兵衛が小さく息を吐く。
「やはり……」
松の肩が震える。
官兵衛は子供を見つめた。
年の頃。
顔立ち。
そして何より、
先ほど、松を見て呼んだ言葉。
「母様、か」
松は答えない。
官兵衛はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「帰るぞ」
松は首を横に振る。
「……嫌です」
「姉上」
「帰りません」
「帰らねばならん」
松は子供を抱く腕に力を込めた。
「どうして……」
官兵衛は少しだけ目を伏せた。
そして、落ち着いた声で告げる。
「父上には、もう申し上げた」
松の目が官兵衛へ向く。
「だって、無かったことにしようって」
「いや、言った」
松が息を呑む。
官兵衛は続けた。
「あの日、すべて申し上げた」
「父上は、それについて姉上を責めるつもりはない」
松は黙っている。
「私についても、もう罰は決まっている」
「ひと月の謹慎だ」
「……」
「だから、もう逃げる必要はない」
松は官兵衛を見る。
その顔には、怒りも責める様子もない。
ただ、帰すという意思だけがあった。
「播磨へ帰るぞ」
松は子供を見る。
そして、もう一度官兵衛を見る。
「……この子も?」
官兵衛は迷うことなく答えた。
「当然だ」
「父上も、そのつもりだ」
松の目に、また涙が浮かんだ。
だが今度は、隠そうとはしなかった。
松はしばらく何も言わなかった。
腕の中の子供を抱きしめながら、俯いている。
やがて、ぽつりと尋ねた。
「……本当に、父上は何も言わないの?」
「ああ」
「私のことも?」
「父上は、もう知っている」
「……この子のことも?」
官兵衛は頷く。
「だから、帰るぞ」
松は子供の顔を見る。
子供は何も知らず、母の胸元に顔を寄せている。
松はその頭をそっと撫でた。
「……分かった」
そして、官兵衛へ目を向ける。
「でも、この子を置いてはいかないわ」
「分かっている」
「絶対に?」
「絶対にだ」
松はようやく、小さく息を吐いた。
逃げ続ける必要はない。
隠し続ける必要もない。
すでに官兵衛が父へ話しているのなら、あとは、自分で向き合うしかない。
松は子供を抱き直す。
「……帰りましょう」
官兵衛が頷く。
二人は門を出る。
その後ろから、屋敷の者たちが帰り支度を始める。
堺で築いてきたものを残し、松は播磨へ戻る。
そして今度は、一人ではない。
その腕には、松が守ろうとする小さな命がある。
官兵衛は歩きながら、ふと松を見る。
松は子供を抱いたまま、前を向いている。
その顔には、まだ不安が残っていた。
それでも、もう逃げることはなかった。
船が用意される。
松が子供とともに乗り込む。
官兵衛もその傍らへ進む。
堺の町を後にして、播磨へ。
その先には、職隆との再会が待っている。




