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『興国の悪女 ~性転換転生したら黒田官兵衛の異母姉だったので、弟の尻を叩いて行く』  作者: カワカン
新天地

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第十六話 第一に

フロイスたちとの話が終わり、松たちは信長との謁見を待っていた。

今井宗久と津田宗及は、落ち着いた様子で座っている。

その隣で、松も静かに座っていた。


ただ、落ち着いているように見えるだけだった。

松の足が、わずかに動いている。

膝の上に置いた手も、時折組み直す。

視線も、何度も外へ向いていた。

そんな松を、今井がちらりと見る。

そして、津田の耳元へ顔を寄せた。


「……なあ、宗及はん」

「はい?」

「なんか、話しているときは思わなかったんですが……」

「松はん、なんやせわしなくありませんか?」


津田も松を見る。


「そうですか?」

「ええ。さっきから、なんや落ち着かんような」


津田は少し考える。


「まあ……これから信長公に謁見するのですから」

「緊張もするでしょう」


今井も頷く。


「そうでしょうな」


そして、松へ目を向ける。


「女人ですしな」

「どこの出であれ、これから天下人に問いを投げかけるのですから」


二人は、そういうものだと納得した。


だが、松の頭の中にあるのは、信長のことではなかった。


(……あの子、ちゃんと食べてるでしょうか)

(昨日は元気だと書いてあったけど……)

(今日はどうしてるのかしら)


松は、また外を見る。


(……ああ、心配)

(早く帰りたい)


やがて、松たちを呼ぶ声がした。


「お待たせいたしました。どうぞ、こちらへ」


松はすっと立ち上がる。

表情を整える。

そして一行は、信長の待つ場所へ向かった。





松たちは、案内された場所へ進んだ。

やがて、一人の男が姿を見せる。


織田信長。


松は、その姿を見て静かに息を整えた

ここまで来た目的は、堺のため。

今井、津田とともに、信長へ伝えるべきことを伝える。

そして、問われたことには答える。


「松にございます」


松が頭を下げる。

続いて今井、津田も礼をする。

信長公の質問書と要望書を近者に渡し、

信長からいくつか問いが投げかけられる。

必要なことを簡潔に答え、伝えていく

今井や津田が補足し、松もそれに答える。

謁見は、思っていたよりも静かに進んでいった。


だが,松の意識は、ときおり別の場所へ飛んでいた。


(……今頃、どうしてるかな)


(ちゃんと寝てるのかしら)


それでも顔には出さない。

目の前にいるのは織田信長公。

松は気持ちを切り替え、再び信長の問いに答えた。

やがて一通りの話が終わる。


「……以上です」


松は深く頭を下げた。

謁見は終わった。

松は立ち上がる。

ようやく、帰れる。

その思いが、胸の中に浮かんだ。





謁見を終え、松たちは宿へ戻った。

京へ来てから、ずっと張り詰めていたものが少しだけ緩む。

松は部屋へ入ると、ようやく息を吐いた。


「……終わりましたね」

「ええ。あとは沙汰を待つだけですな」


今井が答える。

数日後には、信長から正式な沙汰が届く。

それを受け取り、正文を持って堺へ帰ればいい。


松も、そのつもりだった。

そのとき、宿の者が入ってきた。


「松様。堺から文が届いております」


松の表情が変わる。


「堺から?」


すぐに文を受け取る。

封を開ける。

短い文だった。


『今日、坊ちゃまは少し熱っぽくございます』


松の手が止まった。


「…………」


何度も読み返す。

たった一行。

それだけなのに胸の奥がざわつく。


「……弥八郎」

「はい?」


松は顔を上げた。


「帰るわよ」


弥八郎が目を丸くする。


「え?」

「今すぐ」

「いや、あの……」


弥八郎は困ったように松を見る。

「信長公の沙汰が、まだ来ておりませんが……」


松は即座に答えた。


「数日後に沙汰をいただくのでしょう?」

「はい」

「なら、それを待っている必要はありません」


松は文を胸元へしまう。


「沙汰をいただいたら、正文を持って帰ればいいだけです」


弥八郎は、嫌な予感がした。


「……松様」


松はもう帰ることしか考えていなかった。




弥八郎は、松の顔を見ていた。

どうやら冗談ではない。


「ですが、もう夕方ですよ」

「……」

「今から馬で出れば、夜道になります」


松は文を握ったまま答える。


「それでも帰りたいのです」


弥八郎はため息をついた。


「松様。危ないです」

「危ない?」

「はい。まだこの辺りには三好の残党がはびこっております」

「夜道を馬で走るなど、襲ってくれと言っているようなものです」


松は黙る。

帰りたい。

だが、弥八郎の言うことも分かる。


すると弥八郎が続けた。


「朝にしましょう」

「……朝?」

「早朝なら、川を下る船があります」

「今のうちに船頭へ知らせておきます」

「京側の船着き場で、朝一番の船を押さえておきましょう」


松は少し考える。


「……それなら」

「はい」

「明日の朝、一番の船に乗れるようにしてください」

「承知しました」


弥八郎はようやく安心した。


「では、船を押さえてきます」


そう言って部屋を出ていく。

松は一人になる。

文を、もう一度開いた。


『今日、坊ちゃまは少し熱っぽくございます』

「……」


松はじっと文を見つめる。


「少し……」


そう呟いても、不安は消えない。

ちゃんと眠れているだろうか。

食事は取れているだろうか。

熱は上がっていないだろうか。

松は文を胸元へしまった。


そして、部屋の中を歩き始めた。

座る。

立つ。

また座る。

膝に手を置く。

そして、足が細かく揺れ始める。


がたがた、がたがた。


止まらない。


「……まだ朝にならないの?」


もちろん、誰も答えない。

松は布団へ入った。

目を閉じる。


しばらくして、

ぱちり。

目を開ける。

「……眠れない」

また起き上がる。

窓の外を見る。

まだ夜だった。

「……長い」


松は再び座り込む。

そしてまた、

がたがた、がたがた。


貧乏ゆすり。

しばらくして弥八郎が戻ってきた。


「船は押さえました。朝一番に乗れます」

「そう……」

「では、少しお休みください」

「……うん」


弥八郎は部屋を出ようとする。

だが、ふと振り返った。

松はまだ座っていた。

足を揺らしながら。


「……松様」

「何です?」

「眠れないのでしょう?」

「……ええ」


弥八郎は呆れたように息を吐いた。


「でしょうな」


松はまた窓の外を見る。

朝は、まだ遠かった。




夜は、なかなか明けなかった。

松は布団に入っても眠れず、何度も寝返りを打った。


(大丈夫よね……)


目を閉じる。

息子の顔が浮かぶ。


(少し熱っぽいだけ……)

(そう書いてあったんだから)

(でも……)


また目を開ける。

松は起き上がった。

そして窓の外を見る。

まだ暗い。


「……早く朝になって」


その横で、弥八郎は呆れ果てたように松を見ていた。


「松様」

「はい?」

「さっきから、それを何度やっておりますか」

「……分かりません」

「でしょうな」


弥八郎は深いため息をつく。


「あれほど夜道は危ないと申し上げたのですから、今度は朝まで大人しく待ってください」

「待っていますよ」

「待っている人間は、そんなに貧乏ゆすりをしません」


松の足が止まった。


「……」


しかし数秒後。


がたがた、がたがた。


また動き始める。

弥八郎は天井を見上げた。


「……もう好きになさってください」


松は聞こえていない。

頭の中は、堺にいる息子のことだけだった。


(ちゃんと食べてるかな)

(熱、上がってないかな)

(寂しがってないかな)


そして松は、懐の文をそっと握る。


「……すぐ帰るからね」


夜が明ければ、船に乗れる。

船に乗れば、堺へ帰れる。


だから今は、朝を待つしかなかった。

やがて、東の空が、ほんの少しだけ明るくなってきた。

松は窓の外を見つめていた。


「……朝」


弥八郎も起き上がる。


「ええ。ようやくですな」


松はすぐに立ち上がった。


「船のところへ行きましょう」


「はいはい」


弥八郎は苦笑する。

夜通し眠れなかったというのに、松はもう疲れなど忘れたようだった。

宿を出る。

まだ人の少ない京の町を、船着き場へ向かって歩いていく。

やがて、川面に一艘の船が見えた。

松はその船を見つめる。


「あれですか?」

「そうです」


松は小さく息を吐いた。

これで帰れる。


堺へ息子のもとへ。


松は船へ乗り込む前に、懐の文をそっと確かめた。

そして、

「……待っててね」


船が静かに動き始める。

京の町が、少しずつ遠ざかっていく。

松はその景色を振り返ることもなく、ただ船の進む先を見つめていた。

早く、帰らなければ。

母親の心は、もう堺にあった。



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