第十二話 千宗易到来
宗易が松の借り屋敷を訪れた。
来るとは聞いていた。
先日の茶席で、
「今度、松殿のガラスの器を見てみたい」
「できれば、作っているところも」
そう言っていたからだ。
だから松も、客を迎える準備だけはしていた。
部屋を片付け、余計なものを端へ寄せる。
子供の玩具は箱へ。
書物は高い棚へ。
机の角には、子供がぶつかっても痛くないように巻いてある布を整える。
それでも、ここは茶室ではない。
今も子供と暮らしている、松の部屋だった。
「松様、千宗易様がお見えです」
松は一瞬、手を止めた。
「……本当に来た」
「はい」
「来るとは聞いていましたけど……」
松は小さく息を吐く。
「まあ、いいわ。お通ししてください」
やがて襖が開く。
「お邪魔いたします」
「ようこそおいでくださいました」
宗易が部屋へ入る。
そして、座る前に、ふと、部屋を見回した。
松はそれに気づく。
「……?」
宗易の目が、まず高いところにある書棚へ向いた。
宗易の目が、部屋の上のほうに向いている。
そこには、書物を収めた棚があった。
床に置かれた普通の書棚ではない。
子供の手が届かないように、高い位置に吊り下げるように作られている。
「……書物は、あちらですか」
「ええ」
「ずいぶん高いところに置かれておりますな」
松は何でもないように答える。
「この子が届かないようにしているんです」
宗易は頷き、今度は机へ目を向けた。
机の角には、布と綿が巻かれている。
「こちらは?」
「机の角です」
「それも、お子さんのためですか」
「はい。走ってきてぶつかったら痛いでしょう?」
宗易は黙って、その角を見る。
さらに視線を動かす。
部屋の隅には、小さな箱。
中には子供の玩具がまとめて入れられている。
「玩具も、こちらに」
「ええ。遊ぶときは出しますけど、普段はここです」
「なるほど」
宗易は、今度は引き戸を見る。
上の格子にはガラス板が嵌められている。
その下には障子が張られている。
「この戸も、少し変わっておりますな」
「上から明かりを入れたかったので」
松は戸を見ながら説明する。
「下までガラスにすると、この子が触ってしまうでしょう?」
「ですから、下は障子に」
宗易は、また頷いた。
松は少し気恥ずかしそうに笑う。
「……そんなに見るものでもないですよ」
「いえ」
宗易は静かに部屋を見回す。
「面白いものです」
「そうですか?」
「ええ」
宗易の視線は、まだ部屋のあちこちに向いていた。
部屋の隅に置かれた箱へ目を向けた。
「こちらには何が?」
「おもちゃです」
「おもちゃ……」
「この子が遊ぶものです」
松は箱を少しだけ見て、
「遊ぶときは出しますけど、終わったらここへ戻します」
宗易は頷く。
そして、改めて部屋全体を見る。
物はある。
だが、雑然とはしていない。
子供が暮らしていることを消してはいないのに、客が座る場所には余計なものが出ていない。
「お客様がおいでになるので、できるだけ生活感は抑えたんです」
「なるほど」
「とはいえ……」
松は少し苦笑する。
「子供がいるので、全部なくすわけにもいきませんから」
宗易はその言葉を聞いて、静かに部屋を見回した。
そして松が茶を用意する。
「お茶をどうぞ」
宗易の前に置かれたのは、茶の湯で使う茶碗ではなかった。
透明なガラスの器。
しかも、横には小さな取っ手が付いている。
宗易が器を持ち上げる。
「これは……」
「ガラスの器です」
「それは分かりますが……この取っ手は?」
「ガラスは熱を伝えやすいので、茶碗のようには持てないんです」
松は自分の器を見ながら答える。
「だから、取っ手を付けました」
「なるほど」
宗易は器を眺める。
「お茶は?」
「煎茶です」
宗易は少し意外そうな顔をした。
「抹茶ではないのですな」
「ええ。私が普段飲んでいるものですから」
松は茶を置く。
「自分で用意できるもので、おもてなしするほうがいいと思いまして」
その言葉に、宗易はしばらく松を見つめた。
宗易は、出された茶と器を眺めた。
その横には、茶請けとして置かれた干しイチジクがある。
「……こちらは、茶請けですかな?」
松は少し気まずそうにする。
「ええ……まあ」
「何か?」
「本当は、カステラを焼こうとしたんです」
宗易が目を上げる。
「南蛮の菓子ですな」
「はい。国元では、家の者に焼いてもらっていたので、作り方は知っているんです」
松は少し俯く。
「その……自分でも焼いてみようと思って」
「ほう」
「でも、自分でやったら、焼きすぎてしまって……」
宗易は黙る。
松はますます恥ずかしそうになる。
「……家事に慣れていないのが、丸わかりですよね」
「そうでしょうか?」
「だって、カステラ一つ焼けないんですよ」
「しかし、作り方をご存じなのに?」
「知っているのと、できるのは別ですから」
松は苦笑する。
「普段は、こういうものを作ってほしいと伝えて、家の者や職人にやってもらっていますから」
宗易は、先ほど見た部屋を思い出す。
そして、松が出したガラスの器を見る。
「……なるほど」
松は干しイチジクを指す。
「ですから、今日はこれで。もともと、子に食べさせようと思っていたものです」
宗易は一つ手に取る。
「では、いただきましょう」
「え?」
「せっかく松殿が出してくださったのですから」
宗易は干しイチジクを口にする。
そして、ふっと笑った。
「美味しいですな」
松は少し安心したように笑う。
「……よかった」
宗易は茶を一口飲み、もう一度部屋を見回した。
高いところに置かれた書物。
子供がぶつかっても痛くない机。
玩具をしまう箱。
そして、松が自分で用意した茶と器。
宗易は静かに言った。
「この部屋は……愛ですな」
松は目を瞬かせた。
「……愛?」
「ええ。お子さんに対する」
松は部屋を見回す。
「そうですか……」
宗易は微笑んだ。
「そして、お客様に対しても」
「私が?」
「ええ。抹茶ではない。茶の湯の器でもない。それでも、松殿がご自身で用意できる形で、私をもてなしてくださっている」
宗易はガラスの器を手にする。
「ようやく、松殿が私の茶室を『うるさい』と仰った意味が分かった気がします」
「……?」
「私は、物へのこだわりを茶室に詰め込みすぎていたのでしょうな」
「お茶を楽しんでもらうべきところを、私の物に対するこだわりを見せすぎていた」
松は少し困ったように笑った。
「……そんなつもりで言ったわけではないんですけど」
「ええ」
宗易は笑う。
「だからこそ、よく分かったのです」
そして、ガラスの器をもう一度眺める。
「やはり……工房を見せていただきたいですな」
松は笑った。
「ええ。では、ご案内します」
二人は茶を飲み終えると、工房へ向かうために立ち上がった。
松は立ち上がり、利休を見た。
「では、工房へご案内します」
「ええ。ぜひ」
二人が部屋を出ようとしたところで、宗易がもう一度、室内を振り返った。
高いところに置かれた書物。
角を布で覆った机。
隅にまとめられた子供のおもちゃ。
子供が暮らすことを前提に作られた引き戸。
そして、松が客のために用意したガラスの器と煎茶。
宗易は小さく笑った。
「……面白いものですな」
「何がです?」
「松殿は、何かを作るときに、まず使う人のことを考えておられる」
「そうでしょうか?」
「ええ」
宗易はガラスの器をもう一度見る。
「この器も、茶を入れるためだけではない。熱くても持てるように取っ手をつけた」
そして部屋を見る。
「この部屋も、お子さんが怪我をしないようにしてある」
「……」
「茶室であれ、器であれ、部屋であれ」
宗易は松を見る。
「松殿は、そこにいる人がどう過ごすのかを考えて作っておられる」
松は少し照れたように笑う。
「……私は、使いやすいほうがいいと思っているだけですよ」
「それが、松殿のこだわりなのでしょうな」
松は返事をせず、少しだけ笑った。
「では、行きましょうか」
「はい」
二人は工房へ向かって歩き出す。
宗易は、今度こそ楽しそうだった。
「どのような職人たちが、この器を作っているのか……楽しみですな」
松も笑う。
「きっと、暑いところで働いていますよ」
「それも、ぜひ見てみとうございます」
二人の姿が、借り屋敷から工房へと消えていった。
工房へ向かう廊下を歩きながら、松はふと後ろを振り返った。
さっきまで利休が座っていた部屋。
子供の玩具が入った箱も、机の角に巻いた布も、そのままだ。
「……」
松は少しだけ笑う。
「変なところまで見られてしまいましたね」
宗易が振り返る。
「そうでしょうか?」
「ええ。カステラまで失敗して……」
「それも含めて、松殿のおもてなしでしょう」
「……もう、それは忘れてください」
宗易は笑った。
そして二人は、そのまま工房へ向かっていく。
やがて、遠くから職人たちの声と、工房の熱気が伝わってくる。
宗易の足が、少しだけ速くなった。
松はそれを見て、思わず笑う。
「本当に、工房が見たかったんですね」
「ええ」
「茶よりも?」
「……それは、秘密にしておきましょう」
松は笑いながら、工房の戸を開けた。




