第十一話 牛乳は仏罰?
砥堀へ戻ってきた。
高友叔父様の屋敷に着くと、私は荷物を置いて、まず屋敷の中を見て回った。
姫路の屋敷とは、少し雰囲気が違う。
こちらのほうが静かだ。
人の出入りも少ない。
私は村へ出た。
すると―。
「……あ」
牛がいた。
のんびりと草を食んでいる。
「牛……」
私は近づいていく。
「大人しいね」
牛は私をちらりと見ると、また草を食べ始めた。
私はしばらく牛を眺めていた。
そして――。
ふと思いついた。
「……牛乳」
甘いものを作る。
甘いものには、いろいろな材料が必要だ。
その中でも、前世でよく使っていたものがある。
クリーム。
ケーキにも使う。
お菓子にも使う。
料理にも使う。
そして、その元になるのは――。
「牛乳だよね」
私は牛を見る。
「…………」
牛は何も知らずに草を食べている。
私は通と春を振り返った。
「ねえ」
「はい、松姫様」
「この牛のお乳って、もらえる?」
「お乳……でございますか?」
「うん」
「何にお使いになるので?」
「飲むの」
「…………」
二人が顔を見合わせた。
「どうしたの?」
通が困ったように口を開く。
「松姫様……牛の乳を、そのまま召し上がるおつもりですか?」
「うん」
「それは……」
春もおろおろしている。
「いけないのでしょうか?」
「いえ……その……」
「なに?」
通が小さな声で言った。
「仏罰が当たる、と聞いたことがございます」
「…………」
私は牛を見る。
牛は草を食べている。
もう一度、通を見る。
「……なんの?」
「仏教の……」
「牛乳を飲んだら?」
「はい……」
「本当に?」
「…………」
通が黙る。
私は少し首を傾げた。
「どうして?」
「牛のお乳は、人が口にするものではない、と……」
「でも、牛のお乳でしょう?」
「はい」
「食べられないものなの?」
「そういう意味ではなく……」
春も困ったように続ける。
「仏様のお怒りに触れるのでは、と」
「…………」
私はもう一度、牛を見る。
牛は何も気にせず草を食べている。
「うーん……」
前世の記憶では、牛乳なんて普通に飲んでいた。
冷蔵庫から出して、そのまま飲むこともあった。
料理にも使った。
お菓子にも使った。
それが、この時代では仏罰が当たると言われている。
「……本当に罰が来るの?」
「さあ……」
「さあ?」
「私も、実際に見たことはございませんので……」
「…………」
私は思わず黙った。
見たことがない。
でも怖いから避けている。
それだけなら――。
「だったら」
私は牛を見ながら言った。
「聞きに行こう」
「どちらへ?」
「お寺」
「お寺……?」
「うん」
私は頷いた。
「本当に仏罰が来るのか、仏様に詳しい人に聞けばいいでしょう?」
「ですが……」
「分からないまま怖がるより、聞いたほうが早いよ」
通と春が顔を見合わせる。
私はもう決めていた。
「近くにお寺はある?」
「ございます」
「どこ?」
「随願寺がございます」
「じゃあ、そこへ行きましょう」
私は牛を振り返った。
「牛乳が飲めるかどうか、ちゃんと聞いてこよう」
こうして私は――。
**牛乳を飲んだら本当に仏罰が下るのか。**
そんな、とんでもなく真面目な疑問を抱えて、随願寺へ向かうことになった。
随願寺へ着くと、私はさっそく僧侶に尋ねた。
「すみません。聞きたいことがあります」
「はい。何でございましょう」
「牛の乳を飲んだら、仏罰が当たるって本当ですか?」
「…………」
僧は少しだけ目を丸くした。
「牛の乳、でございますか?」
「はい」
私が事情を話すと、僧は穏やかに笑った。
「なるほど」
そして、首を横に振る。
「牛の乳を口にしただけで、仏罰が下るという教えは、私は存じません」
「本当ですか?」
「ええ」
私はほっとした。
「よかった……」
ところが、僧は続けた。
「むしろ、牛の乳については、仏教には大変興味深い話がございます」
「興味深い話?」
「はい」
僧はゆっくりと話し始めた。
「お釈迦様が悟りを開かれる前、苦行を続けておられた頃のことです」
「長く苦行を続けたことで、お身体は大変衰弱されていたそうです」
私は黙って聞く。
「そのとき、村の娘から乳粥を差し出され、それを召し上がったことで、お命をつながれたと伝えられております」
「……牛乳で?」
「ええ」
私は目を丸くした。
「そしてお釈迦様は、その経験から、ただ身体を苦しめ続けるだけでは悟りには至らないと知った、とされております」
「…………」
私は牛乳のことを考えた。
仏罰どころか――。
「お釈迦様を助けたものなんですね」
「そういうことになりますな」
僧は笑った。
「それに、もう一つございます」
「何ですか?」
「『醍醐味』という言葉をご存じでしょう」
「それは……本当の面白さとか、物事の一番いいところ、という意味ですよね?」
「その通りです」
僧は頷いた。
「その言葉の由来も、仏教の経典にございます」
「へえ……」
「牛より乳を出し、乳より酪を出し――」
僧は順に説明していく。
「そうして最後に醍醐というものに至る、と説かれております」
「醍醐……」
「ええ。そして、その醍醐は、病を除くほど有難いものと説かれているのです」
「病を……?」
「はい」
私は思わず身を乗り出した。
病。
その言葉だけは、妙に耳に残った。
「では……」
私は少し考えてから尋ねる。
「牛の乳って、むしろ身体に良いものなんですか?」
「少なくとも、私どもは身体を養うものとして考えております」
僧は穏やかに答えた。
「薬師如来様は、病や苦しみから人々を救う仏です」
「そのような仏を信仰する私どもからすれば、身体を養い、病に苦しむ者を助けるものを、むやみに忌む理由はございません」
私は目を丸くした。
「……じゃあ」
「はい」
「牛乳を飲んでも、仏罰は?」
「下らぬでしょう」
僧は笑った。
「少なくとも、牛の乳を口にしたというだけで仏罰が下る、とは考えておりません」
「…………」
私は胸を撫で下ろした。
よかった。
これで――。
「じゃあ、牛乳飲んでもいいんですね!」
「ええ」
僧は頷いた。
「ただし、牛を飼う者に無断で乳を搾るのはおやめなさい」
「あ……」
「それは仏罰以前の問題ですな」
「……はい」
私は素直に頷いた。
通と春が、隣で小さく笑っている。
私は立ち上がった。
「ありがとうございました!」
「いえいえ」
寺を出る。
私は歩きながら、にやりと笑った。
「これで牛乳が使える」
クリーム。
甘いもの。
前世で食べていたもの。
もしかしたら、この時代でも作れるかもしれない。
私は足取りを軽くした。
――まずは、牛のお乳を分けてもらおう。
今度こそ。
**甘いものを作るのだ。**




