第十話 堺 矢銭を要求される
堺の別邸。
会合衆との話を終えた主人が戻ってくる。
部屋では松が、幼い息子を膝に乗せていた。
息子は松の着物を握ったり、膝の上でもぞもぞと動いたりしている。
松はその頭を撫でながら、主人の顔を見る。
「おかえりなさい」
「……松様。少し、お話がありましてな」
「何かありました?」
主人は松の向かいに腰を下ろす。
いつもの商売の話とは、少し様子が違う。
「今日、会合衆のところへ織田から使者が参りまして」
「織田から?」
松の手が止まる。
「ええ」
主人が一息置く。
「野銭を二万貫、納めよ、と」
「……二万貫」
松が思わず息子を見る。
息子は何も知らず、松の袖を引っ張っている。
主人は続けた。
「織田は義秋公を奉じて上洛し、京におられます」
「ええ。それは聞いています」
「その織田から、堺へ直接の要求です」
松はしばらく黙って考える。
二万貫という金額。
そして、なぜ、堺が織田に納めるのか。
そこが、どうにも引っかかった。
「……会合衆では、どういう話になったんです?」
「それが、意見が割れております」
「払うべきだという方も?」
「おります」
「払うべきではないという方も?」
「ええ」
主人は苦笑する。
「金額だけの話ではありませんからな」
松は小さく頷いた。
「……そうでしょうね」
少し考えてから、松は膝の上の息子を見る。
「弥八郎を呼んでもらえますか」
「弥八郎を?」
「ええ。こういう話は、あの人にも聞いておきたいので」
松は息子を抱き上げる。
「この子、ちょっとお願いできますか」
「はい、松様」
女中が近づき、息子を受け取る。
「はは……」
「すぐ戻りますからね」
松は小さな頭を撫でる。
そして顔を上げる。
「では、弥八郎を」
こうして、三人で堺の行く末を考える話が始まった。
弥八郎が部屋へ入ってくる。
「お呼びですか、松様」
「ええ。こちらへ」
弥八郎が主人の向かいに腰を下ろす。
松は先ほどまで息子を乗せていた膝を軽く撫でながら、主人を見る。
「織田から、野銭二万貫を求められたそうです」
「はい」
弥八郎が少し眉を上げる。
「二万貫ですか。なかなか大きく出ましたな」
「今日、会合衆のところへ使者が来ましてな」
主人が使者から伝えられた内容を話していく。
織田信長は義秋公を奉じて上洛し、京にいる。
三好の残党との戦も続いている。
そのための軍費として、堺に野銭を求めているらしい。
弥八郎は黙って聞いていた。
話を聞き終えると、腕を組む。
「……なるほど」
松が尋ねる。
「どう思います?」
「まず、野銭が必要だということ自体は、分からん話ではありませんな」
「軍費でしょうね」
「ええ。信長公が三好の残党と戦うのであれば、銭はいくらあっても足りぬでしょう」
主人も頷く。
「そこまでは、会合衆でも分かっております」
「でしょうな」
弥八郎は少し考える。
「ですが、」
顔を上げる。
「なぜ、信長公に納めなければならないのか」
松が弥八郎を見る。
「そこですか」
「ええ」
弥八郎はゆっくりと言う。
「京に新しく入った将軍様に納めて、そのあと織田殿に将軍様がお渡しになるのであれば、まだ道理は通ります」
「ですが……」
「織田殿に直接納めるとなれば、話は別です」
主人が腕を組む。
「会合衆の中でも、そこを気にしている者はおります」
松は静かに頷く。
「おそらく、野銭を信長公に払いたくない者は、そこが引っかかるのでしょうね」
「でしょうな」
弥八郎は続ける。
「単に銭を惜しんでいるだけではないでしょう」
「……誰に従うのか、という話ですか」
「ええ」
部屋の中が、少し静かになる。
松は、今日聞いた使者の言葉を思い返す。
信長が京へ上った。
義秋公を奉じている。
そして今、堺へ直接金を求めている。
「……ややこしい話になってきましたね」
弥八郎が苦笑する。
「まだ二つほど、ややこしいところが残っておりますよ」
「二つ?」
「ええ」
弥八郎は、指を二本立てる。
「まず一つは、自治でしょうな」
「自治?」
「ええ」
弥八郎は主人を見る。
「信長公に野銭を納める。それだけで終わるとは限りません」
主人の顔が曇る。
「……堺の町そのものに、手を入れてくると?」
「そう考える者がおっても、おかしくはありません」
松は考える。
織田が軍費を求める。
それだけなら、金を払えば済む。
だが、その先に、
堺の町を織田の思うように動かそうとする意図があるのではないか。
そう考える者がいる。
「これは、自治を交渉で引き出さなければいけないでしょうね」
「私もそう思います」
主人も頷く。
「堺は、これまで自分たちで町を動かしてきましたからな」
「そこを崩されれば、野銭だけの問題ではありませんね」
「ええ」
弥八郎が頷く。
「そして、もう一つ」
松が見る。
「商売ですな」
「商売?」
「はい。ここが一番大きいのではないでしょうか」
弥八郎は少し身を乗り出す。
「信長公が敵と認めたものと、取引ができなくなるのではないか、と」
主人が黙る。
松もすぐには答えない。
堺の商売は、相手を選んで成り立っているわけではない。
京にも売る。
播磨にも売る。
四国にも売る。
九州にも売る。
そして、時には敵味方に分かれている者たちとも取引する。
それこそが、堺の強みだった。
「……それは」
松がぽつりと言う。
「堺の町を小さくしろと言っているのと同義ですね」
「ええ」
弥八郎が答える。
「敵が増えるたびに、取引先が減っていく」
主人が苦い顔をする。
「それでは、堺の商売そのものが細ってしまいますな」
松は黙って考える。
野銭。
自治。
そして商売。
問題は三つある。
しかも、どれも金を払えば済む話ではない。
「……なるほど」
松が小さく呟く。
「会合衆が揉めるのも分かりますね」
「でしょうな」
弥八郎は頷いた。
「銭を払うか払わぬかだけなら、話は簡単です」
「でも、これは……」
松は庭の方へ目を向ける。
「堺をこれからどうするのか、という話になってしまう」
部屋に静かな沈黙が落ちた。
松はしばらく黙っていた。
野銭のこと。
自治のこと。
そして商売のこと。
どれも、放っておけば堺そのものが弱っていく話だ。
「……会合衆の中でも」
松が口を開く。
「信長公と交渉すべきだと考えている方は、いるのでしょう?」
主人が頷く。
「おります。すぐにでも話をつけるべきだという者もおります」
「なら、その方たちと話をしましょう」
弥八郎が松を見る。
「交渉派をまとめる、と?」
「ええ」
松は頷く。
「強硬に反対している方々を、今すぐ説得する必要はありません」
「ほう」
「まずは、一時的におさえてもらうんです」
主人が考える。
「時間を作る、と」
「そうです」
松は静かに言う。
「堺と織田がいくさになってしまえば、交渉することすらできません」
弥八郎が頷く。
「なるほど」
「だから、まずは話し合う」
「信長公と?」
「ええ」
松は少し考えてから続ける。
「野銭についても、自治についても、商売についても……一つずつ話をする」
「それで、堺が残れる道を探す」
主人が松を見る。
「松様は、そこまで堺を残したいのですな」
松は少しだけ目を伏せる。
「……残ってもらわないと困ります」
「なぜです?」
松は答える。
「だって、あの子を育てるのに必要な場ですから」
弥八郎が黙る。
主人も、それ以上は聞かなかった。
松にとって堺は、もうただの商売の町ではない。
ここで暮らし、ここで工房を育て、そして、ここで息子を育てている。
だからこそ、失うわけにはいかなかった。
松は、しばらく黙っていた。
「……でも」
主人と弥八郎が松を見る。
「交渉するといっても、信長公がこちらの話を聞いてくださるとは限りませんよね」
「ええ」
弥八郎が答える。
「だからこそ、こちらも交渉する材料が必要でしょうな」
「材料?」
「堺を潰すより、残しておいたほうが信長公にも得になる。そう思わせるものです」
松は顔を上げる。
「……商売」
「そうです」
弥八郎は頷く。
「堺には銭があります。人もおります。船もあります。そして、物が集まる」
主人も続ける。
「松様の工房も、その一つですな」
松は少し考える。
ビードロ。
工房。
職人。
商人。
そして、そこから広がっていった新しい商売。
「……堺を残す理由を、信長公にも作らせる」
「そういうことです」
弥八郎が笑う。
「堺が織田にとっても役に立つ町なら、わざわざ潰す理由は減りますからな」
松は頷く。
「なら……やることは決まりましたね」
主人が尋ねる。
「まず、交渉派の方々と話をつける」
「ええ」
「強硬派には、一旦、待ってもらう」
「はい」
「その間に、信長公と話をする」
弥八郎が頷く。
「堺と織田が戦にならぬように、まず時間を稼ぐわけですな」
松は静かに答える。
「ええ。戦になってから考えるのでは遅いですから」
そして、少しだけ息を吐く。
「私は……この町を失いたくありません」
それは商売人としての言葉だけではなかった。
この町には、自分の暮らしがある。
工房がある。
匿ってくれた人たちがいる。
そして、息子がいる。
松は立ち上がる。
「明日から動きましょう」
弥八郎が笑う。
「また大きな仕事になりましたな、松様」
松は苦笑する。
「……本当にね」
そのとき、隣の部屋から小さな声が聞こえる。
「はは……」
松が振り向く。
険しかった表情が、ふっと緩む。
「……はい。母ですよ」
そして松は、息子のいる部屋へ向かう。
堺を残す。
そのための交渉が、ここから始まる。
話を終え、弥八郎と主人が部屋を出ていく。
松は一人、息子のいる部屋へ戻る。
女中から息子を受け取ると、幼子は松の顔を見上げる。
「はは……」
「はい」
松は笑って、息子を膝に乗せる。
小さな手が、松の袖を握る。
松はその手を包みながら、先ほどまでの話を思い返す。
織田。
野銭。
自治。
商売。
そして、堺。
けれど今の松にとって、それはもう遠い町の話ではない。
この子と暮らしていく場所なのだ。
「……大丈夫ですよ」
息子が首を傾げる。
「はは?」
「ええ。母がちゃんと考えますから」
松は幼子の頭を撫でる。
窓の外では、いつもと変わらず堺の町の音が聞こえている。
商人の声。
荷を運ぶ音。
人々の話し声。
その日常を聞きながら、松は静かに息子を抱いた。
明日から、堺を残すために動く。
そして、
「さあ、寝ましょうか」
「はは……」
「はいはい」
松は息子を抱いたまま、部屋の奥へと戻っていった。




