第七話 弥八郎再来
堺の別邸。
昼下がり。
松は縁側近くに座り、腕の中の赤子をあやしている。
赤子が小さな手を動かすたび、松は笑いながら抱き直す。
そこへ主人がやってくる。
「松様、戻ってきましたで」
松は顔を上げる。
「弥八郎さんです」
その名前を聞いて、松の表情が少し変わる。
出奔のとき、自分についてきてくれた男。
その後、国元に残してきた妻に会いたいと言って、一度戻っていた。
「……妻に会いに帰ったんでしょう?」
「ええ」
主人は頷く。
「それで、戻ってきてくれました」
松は少し笑う。
「そう。それはよかったわ」
だが主人は、続けて言う。
「妻も連れております」
「……一緒に?」
「はい」
松が少し目を丸くする。
まさか妻まで連れて戻ってくるとは思っていなかった。
「そう……」
松は腕の中の赤子を見る。
そして、ふっと笑う。
「じゃあ、会いましょうか」
ほどなくして、廊下の向こうから足音が聞こえてくる。
襖が開く。
そこには、見慣れた弥八郎の姿。
その隣には――松にとって、初めて見る女が立っていた。
弥八郎が松を見るなり、いつものように頭を下げる。
「お久しゅうございます、松様」
「久しぶりね。元気そうで何よりだわ」
「はい。妻にも会えましたので」
そう言って、弥八郎は隣の女を見る。
「こちらが、わしの妻です」
妻は緊張した面持ちで松へ頭を下げる。
「初めまして。弥八郎の妻でございます」
松も微笑んで頭を下げる。
「初めまして。松です」
こうして、松と弥八郎の妻は初めて顔を合わせた。
弥八郎と妻は、松の前に腰を下ろした。
妻はどうにも落ち着かない。
座ってからも、ちらちらと部屋の中を見回している。
堺の商家が用意した別邸。
しかも、松が暮らすために整えられた屋敷だ。
妻が想像していた「夫の働き先」とは、どうにも様子が違う。
やがて妻は、隣の弥八郎に小声で尋ねた。
「……あんた」
「なんや」
「本当に、ここで働いとたんか?」
弥八郎は呆れたように妻を見る。
「だから、そう言うたやろ」
「いや……」
妻はもう一度、屋敷の中を見回す。
「話がえらい大きかったから……」
「嘘やない」
「本当かいな」
弥八郎がため息をつく。
その様子を見ていた松は、思わず笑った。
「仲がいいのね」
「どこがです」
弥八郎が即座に返す。
妻は夫を無視して、改めて松を見る。
夫から聞いていた「姫様」。
堺で仕事をしていること。
工房を持っていること。
いろいろな職人を使っていること。
そこまでは聞いていた。
けれど、それがどんな人なのか。
実際に会うのは今日が初めてだった。
妻は松の姿をまじまじと眺める。
そして、思わず口にする。
「……本当に、姫様なんやね」
「ええ?」
松が首を傾げる。
「いや、その……」
妻は少し言葉に詰まる。
「うちの人の話やと、えらいお人やいうから」
弥八郎が横から口を挟む。
「えらいお人やろ」
「うん。それは分かった」
妻は頷く。
そして松を見る。
「でも……」
少し間を置いて、
「こんな美人な姫様やとは聞いてなかった」
「……」
弥八郎が固まる。
「おい」
「なんや」
「そこなんか?」
「何がや」
弥八郎は頭を抱える。
「……わしが言うた話を、何も信じてなかったんか」
「話が大きすぎるんや」
「本当のことしか言うてへん」
「はいはい」
「本当やぞ?」
「分かった分かった」
松は二人を見て、また笑う。
「ふふっ」
妻が松を見る。
「すみません。うちの人、昔からこういう調子で」
「いいのよ」
松は微笑む。
「弥八郎さんには、昔から助けてもらっているもの」
その言葉に、弥八郎が少し照れたように笑う。
「いやあ、まあ……それほどでも」
「自分で言うことではないの」
「……」
妻の一言に、弥八郎は黙り込む。
松はそんな二人を眺めながら思う。
なるほど。
この人が、弥八郎の奥さんか。
自分の知らないところで、弥八郎がどんな顔をしていたのか。
少しだけ興味が湧いた。
妻は、まだ少し緊張した様子で松の前に座っている。
けれど、先ほどよりは肩の力が抜けていた。
弥八郎が松のもとで働いていたことも、少しずつ実感できてきたらしい。
ふと、妻が松を見る。
「……あの、松様」
「なに?」
「うちの人が、いろいろお世話になったそうで」
「こちらこそ助かっているわ」
「そうですか」
妻はほっとしたように頷く。
そして、何気なく続ける。
「堺に来てからのことも、よう話してました」
松が少し驚く。
「そうなの?」
「はい」
弥八郎が嫌そうな顔をする。
妻は夫を見てから、松へ向き直る。
「工房のこととか」
「工房?」
「はい。松様が職人さんを集めて、いろんなものを作らせてるとか」
松は弥八郎を見る。
「そんなことまで話してたの?」
「妻に隠すようなことでもありませんからな」
「それで、えらい大きな工房になったいう話も聞きました」
「……少し大きくなっただけよ」
松が苦笑する。
妻は首を振る。
「うちの人は、もっと大きいこと言うてましたけど」
「おい」
「『松様のところには、いろんな職人がおる』とか」
「おい」
「『商人もよう来る』とか」
「……」
弥八郎が黙る。
松は思わず笑った。
「あなた、国元でもそんな話をしていたのね」
「いや、まあ……聞かれたから」
「誰も聞いてなかった」
妻がすかさず突っ込む。
「……」
弥八郎は何も言えない。
松は笑いながら赤子を抱き直す。
その様子を見ていた妻の目が、ふと赤子へ向いた。
「……あら」
小さな寝息を立てる赤子。
妻は少し身を乗り出す。
「かわいらしいお子ですね」
「でしょう?」
松の顔が、自然と緩む。
「無事に生まれてくれてね」
「それは、ほんによかったです」
妻は微笑む。
妻は、松の腕の中で眠る赤子を眺めていた。
「ほんまに、かわいらしいお子ですねえ」
「でしょう?」
松は嬉しそうに赤子の頬を撫でる。
妻はしばらく赤子を見ていたが、ふと隣の弥八郎へ目を向けた。
「……あんた、このお子のことも知ってたん?」
「そりゃあな」
弥八郎は何でもないことのように答える。
「松様には、ずっと仕えておったんやから」
「へえ……」
妻は感心したように頷く。
松も弥八郎を見る。
「そうね。あなたには、昔から色々と知られているものね」
「まあ、長い付き合いですからな」
弥八郎は得意げに笑う。
「それに、わしは松様のすぐ近くで護衛をしておりましたから」
「……そうだったわね」
松は少し遠い目をする。
あの頃のことを思い出したのだろう。
すると弥八郎が、何を思い出したのか、ぽつりと呟いた。
「……まあ、夜なんかは特に」
松の顔が止まる。
「……」
妻が弥八郎を見る。
「夜?」
「ええ」
弥八郎は何の悪気もなく続ける。
「松様は、夜になるとえらい情熱的でしてな」
「弥八郎」
松が静かに名前を呼ぶ。
「はい?」
「それ以上は、言わなくていいわ」
「……はい」
妻は、夫と松を交互に見る。
「……あんた」
「なんや」
「なんで、そんなこと知っとるん?」
「そりゃあ……」
弥八郎が少し困った顔をする。
「わし、あの日に隣の部屋で護衛しとりましたからな」
「…………」
妻が固まる。
松は赤子を抱いたまま、顔を伏せる。
耳まで赤くなっている。
「……もう」
小さく呟く。
「なんで今、それを言うのよ……」
弥八郎は首を傾げる。
「いや、聞かれたもんで」
「聞いてへん」
妻が即座に突っ込む。
「誰もそんなこと聞いてへんわ」
「……はい」
弥八郎は大人しく黙る。
妻は呆れたように夫を見る。
「ほんま、あんたは余計なことしか言わんなあ」
松は赤子を抱き直しながら、深いため息をつく。
「……あなたの奥さん、正しいわ」
「松様まで……」
弥八郎が肩を落とす。
妻はそんな夫を見て、もう一度ため息をついた。
「護衛いうても、そこまで見んでええやろ……」
「見ようとして見たわけやない!聞こえたんや」
松はとうとう耐えきれず、吹き出した。
「ふふっ……」
恥ずかしさと可笑しさが入り混じった、なんとも言えない笑いだった。
弥八郎は言葉を濁す。
妻は不思議そうな顔をする。
松はそんな二人を見て、小さく笑った。
ひとしきり笑ったあと、松は弥八郎へ向き直った。
「それでね」
弥八郎の顔から、少しだけ笑みが消える。
「はい」
「あなたを呼び戻したのには、ちゃんと理由があるの」
「護衛のことでしょう?」
松が目を瞬く。
「……もう聞いてるの?」
「ええ。戻ってくる前に、使いの者から一通り」
弥八郎は部屋の中を見回す。
以前、自分が仕えていた頃とは比べものにならない。
人の出入りも増えている。
工房の者。
使いの者。
松を訪ねてくる者。
そして、その中心にいる松。
「わしがおらん間に、えらいことになりましたな」
「そうなのよ」
松は苦笑する。
「最初は、こんなことになるとは思ってなかったんだけど」
弥八郎は庭の方へ目を向ける。
「この屋敷、今のままでは少々危ないですな」
「危ない?」
「門に人を置くだけでは足りません」
妻が少し不安そうに夫を見る。
弥八郎は続ける。
「出入りする人間が増えすぎております」
「職人も商人も、松様に用がある者も多い」
「その一人一人を、腕力だけで防ぐことはできません」
松は黙って聞いている。
「誰が来たのか」
「何の用で来たのか」
「誰の紹介なのか」
「どこから来た者なのか」
弥八郎は指を折るように挙げていく。
「そこまで見ておく必要があります」
松が少し感心する。
「……やっぱり、あなたに頼んで正解だったわ」
弥八郎が笑う。
「わしは戦うより、こういうことを考える方が性に合いますからな」
「知ってるわ」
「それに」
弥八郎は少し真面目な顔になる。
「護衛というのは、斬るために置くものではありません」
「斬られんようにするために置くものです」
松は静かに頷く。
「お願いできる?」
「もちろん」
弥八郎は即座に頭を下げた。
「お任せください」
その横で、妻が夫を見る。
「……あんた」
「なんや」
「仕事の話になると、急に賢そうになるんやね」
「急にやない。もともとや」
「はいはい」
「ほんまやぞ?」
松はまた笑った。
そして、ふと妻へ目を向ける。
「それで……あなたたちは、これからどうするの?」
妻は少し戸惑う。
「どうする、とは?」
「ここに住めばいいわ」
「え?」
妻が目を丸くする。
松は自然に続ける。
「弥八郎さんに護衛を頼むんだもの。家族だけ別の場所にいるより、一緒にいた方がいいでしょう?」
妻は隣の夫を見る。
弥八郎も頷く。
「そうしてもらえるなら、わしも助かります」
妻は少し迷ったあと、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、松様」
「いいのよ」
松は腕の中の赤子を見る。
「この子もまだ小さいし。見てくれる人がいると私も少し賑やかで嬉しいもの」
妻の顔がほころぶ。
「そうですか」
松も微笑む。
こうして、弥八郎は再び松のもとで働くことになり、
妻もまた、この堺の別邸で暮らすことになった。
弥八郎と妻が部屋を出ていく。
襖が閉じる。
静かになった部屋で、松は腕の中の赤子へ目を落とした。
「……弥八郎さん、帰ってきたわね」
赤子は答えることもなく、小さな寝息を立てている。
松はふっと笑う。
堺へ逃げてきたときは、本当に身一つだった。
誰にも頼らず、生きていくつもりだった。
それなのに。
気づけば、屋敷がある。
工房がある。
仕事を手伝ってくれる職人がいる。
自分を支えてくれる主人がいる。
そして今日
一度は国元へ帰った弥八郎が、妻を連れて戻ってきた。
松は先ほどまで二人が座っていた場所を見る。
「……なんだか」
少しだけ笑う。
「どんどん増えていくわね」
腕の中で、赤子が小さく身じろぎする。
松は慌てて抱き直す。
「よしよし」
しばらく赤子をあやしたあと、松は窓の外を見る。
堺の町では、今日も人が行き交っている。
荷が運ばれ、商人が声を掛け合い、船が港へ入ってくる。
あの町の中で、自分もまた少しずつ居場所を作っている。
逃げてきたはずだった。
何も持たず。
何も残さず。
ただ、生きるために。
それなのに
いつの間にか。
帰ってくる者がいる。
松は腕の中の赤子を見つめる。
そして、小さく笑った。
「……まあ」
「悪くないわね」
赤子が小さく欠伸をする。
松はその頬を指先で撫でる。
別邸の外から、誰かの足音が聞こえる。
また誰かが、この家を訪ねてくる。
松はその音に耳を澄ませながら、赤子を抱いたまま笑った。
身一つで逃げてきたはずの自分には、いつの間にか――帰ってくる場所ができていた。




