第7話:緊急家族会議
「ただいまー……」
疲弊した声で呟くように言うと、リビングの方から勢い良く走ってくる音が聞こえた。
まるで獲物を追いかける獣のように、力強い足音だ。
「お兄ちゃんおかえりーっ!」
「──ブッ!」
帰ると妹──波瑠が抱き着いてくるのは、小学生の頃から変わらない。
学校では人気者として本当の性格を隠しているが、家ではベタベタくっついてくるし、甘えん坊な性格だ。
しかし、俺も彼女はもう高校生──こんなことをして、恥ずかしいとは思わないのだろうか……?
「重いから離れて……ギブ」
「重いって? 何が」
マズい。
怒らせたか? 今の俺には『ご機嫌取りのアイス』を買いに、コンビニまで走る気力は残っていない。
そんな時、「はぁ……」と呆れたようにため息をついた。耳元に生暖かい吐息がかかり、背中を擽られるような寒気が襲いかかる。
「もう、お兄ちゃん」
「…………?」
「ようやく私の愛が重いことを気づいてくれたの!?」
「愛?」
「お兄ちゃんってば、照れ屋さんなんだから♡」
意味がわからない。
──つくづく思う。この光景を知り合いに見られたら、俺は余裕で死ねる。
「ささ、お兄ちゃん様。夜ご飯ができてるよ」
俺から飛び降りると、すぐ手にある鞄を持ってくれた。
波瑠なりの気遣いなのだろう。
俺が元カノに遭遇したことを心配しての行動のはず。
「今日は久しぶりの部活オフだから、お兄ちゃんとイチャイチャする〜♪」
「イチャイチャしない」
「ケチー。でも好き〜」
「はいはい」
適当に受け流していると、キッチンの方から肉の焼けるいい匂いがした。
──まさか。
俺の足は期待で早くなる。
ジューって音と甘辛いタレの香り──焼肉だ。平日に、しかもなんの前触れもなく。
波瑠が裏で何かしたなと、思ったが、そんなことは忘れてすぐに手を洗った。
「父さんは仕事中?」
「明日取引先との大事な会議があるんだって。でも、部下が資料を作るのを忘れてたんだとか」
「相変わらずお人好しだな……」
リビングの机で、真剣な眼差しでキーボードを叩いていたことの理由がわかった。
父さんのことだ。部下には叱らず、「俺が終わらせる」って引き受けたのだろう。
──そんなんでは部下は同じ失敗を繰り返すだけなのに。
「波瑠、お皿運ぶの手伝って」
俺も手伝おうとして立ち上がると、母さんは首を横に振った。
親子揃ってどうなってんだ?
疲れていたので、今日のところは二人の優しさに甘えておこう。
「すまん。俺は後で食べる」
焼肉は父さんの好物でもあったはず。
それを後回しにするほどだ、資料が完成するのはまだまだ先のことになりそうだ。
久々の焼肉は頬っぺたが落ちそうなくらい美味しかった。
しかも、どの肉も油が丁度良い塩梅でのっていた。ここまでくると元カノと遭遇しただけなのにと、申し訳なさが勝ってくる。
「お兄ちゃんイチャイチャしよ〜」
「イチャイチャしない」
ソファに腰掛けていると、隣に座ってきた波瑠は腕に抱き着いてくる。
黒川とは違って体つきは子供っぽいので、彼女のような柔らかさはなかった。
──って、俺は実の妹に向かって何を考えてんだよ。
「お兄ちゃん黒川さんとはイチャイチャするクセにッ!」
「──は?」「──え?」
途端に、父さんと母さんの視線がギュンとこちらに向いた。
「家族会議だ」
そう言って父さんは腰を上げる。
仕事と同じ真剣な顔だ。
「ちょ、待って。イチャイチャって言葉が誤解を生んでるだけで、別にそういうわけじゃ──」
「静かにしなさい」
「はい」
父さんに名前を呼ばれると、反射的に背筋が伸びる。
三度の緊急家族会議を経験してきた体が、既に覚えてしまっていた。
「座りなさい」
逃げ場はない。
ソファに座り直すと、向かいに父さんと母さんが並んで腰を下ろす。波瑠はその隣で、膝の上に肘をついてニコニコと笑っていた。完全に楽しんでいる。
「黒川さんというのは……どんな子だ?」
「……クラスの友達。隣の席で、まあ、色々あって仲良くなった」
「色々って?」
父さんの目が細くなる。
こういう時の父さんはいつもと違って真面目な顔をする。
母さんがノリノリな様子で二人分のココアを用意して、一つは自分に、もう一つは父さんの前に置いた。
俺が言わないと解放されないやつだ。
「父さん資料を作らないといけないんじゃ……」
「あったことを全て吐けば仕事に戻る。時間がかかりそうなら、部下に押し付けるから安心しろ」
パワハラじゃ……
そんなことで職を失われても困る。
緊急家族会議中の父さんは勘が鋭い。下手な嘘をつくと、却って長引きそうだ。
早く寝たい……。
「放課後に一緒に遊んだり、学食で飯食ったりとか……本当にそれだけだから」
「波瑠、補足はあるか」
「えーとですね──」
波瑠が人差し指を顎に当てて首を傾げる。
学校でよく見るあの仕草だ。
「お兄ちゃんが黒川さんのことを話す時、声のトーンが少し上がるんですよね」
「上がってない」
「上がってたよ〜」
「……」
母さんがクスクスと笑った。
普段は父さんの隣でおっとりと座っているだけだが、こういう時だけ妙に存在感が増す。
いや、俺が変に意識しすぎているからだろうか。
「私は早く連れてきてほしいな。うちの子と仲良くしてくれる子なら、どんな子でも大歓迎よ」
「連れてこない。あ──」
『よかったら今度家に読みにくるか?』
そういえば一緒に漫画を読む約束をしてたんだった。
今からドタキャンでも──そう考えた矢先、ポケットの中のスマホが通知音と共に震えた。
『家に行くの、今週末とかどう?』
そのメッセージと、可愛らしい犬のスタンプが送られてきた。
断ずれぇ……
『いいよ』
断ったら後でぐちぐち言われることがわかっているので、簡単に返して画面を閉じた。
「もしかして黒川さん?」
「うん」
「最後に一つだけ聞かせてくれ」
父さんが静かな声で言う。
笑顔でも険しい顔でもなく、ただまっすぐに俺を見ていた。
「その子の名前はなんだ?」
答えるまでに、少しだけ時間がかかった。
「黒川だけど」
「苗字じゃない。下の名前だ」
「……」
言われてみれば知らない。
いつも黒川と呼んでいるし、それで満足していた。
「……知らない」
「そうか」
それだけ言って、父さんは閉じていたパソコンを再び開いた。
会議終了の合図だ。
毎回あっけない幕切れだが、今回は胸の奥が妙にざわついていた。
決して良い印象ではなかったが、半年間隣に座っていた。
それなのに下の名前を知らない。
次会った時に聞こう──そう思ったら、なぜか少しだけ緊張した。
◇
風呂から上がってスマホを確認すると、黒川からメッセージが届いていた。
『そういえば今日は大丈夫やった?』
たったそれだけの一言だったが、なぜかしばらく画面を見つめてしまった。
心配してくれているのはわかる。
黒川はこういう時、素直に「心配してた」とは絶対に言わないだろう。
それでも、俺の味方は家族だけではないことという事実が、嬉しくてつい笑みが溢れる。
『大丈夫。今日は助けてくれてありがとう』
送信すると、すぐに既読がついた。
少し間があって返信が来る。
『水瀬くんのためとかじゃないわ。あいつの態度がムカついただけやから』
思わず笑った。
スマホの画面を伏せて、天井を見上げる。
今日一日のことが頭の中でゆっくりと巻き戻っていった。
黒川の声、黒川の怒った顔。
そして──まだ知らない黒川の下の名前。
次会った時に聞こう。そう決めたところで、俺は電気をつけたまま眠ってしまった。




