第189話 さよなら、好きな人
卒業式の全行程を終えた卒業生たちは、昇降口から正門へと続くアプローチ広場へと集まっていた。
つい先ほどまで、厳かな空気に包まれていた体育館とは打って変わって、そこには賑やかな声が溢れている。
友人同士で肩を寄せ合い、何枚も写真を撮る者。
動画撮影をする者。
泣きながら抱き合う者。
卒業したという実感がまだ追いついていないのか、いつもの放課後のように笑い合う者もいる。
けれど、その笑顔の一つひとつには、どこか名残惜しさが滲んでいた。
今日が最後。
この制服を着て、この仲間たちと、この場所で過ごす最後の日。
そう思うだけで、見慣れた校舎も、いつも通っていた道も、何気なく交わしてきた会話さえも、すべてが特別なものに見えてくる。
春の柔らかな陽射しが、アプローチ広場へ降り注いでいる。
風が吹くたび、校門の向こうにある桜の枝が揺れる。
固かった蕾はもう大きく膨らみ、今にも花を咲かせようとしていた。
そんな春の気配の中。
「陽向ー!」
聞き慣れた明るい声が飛んできた。
振り返ると、こちらへ駆けてくる咲の姿が見えた。
「咲!」
いつもと変わらない、お花みたいな笑顔。
初めて出会ったあの日から、何一つ変わっていない。
むしろ、あの頃よりもずっと眩しくなったように見える。
「打ち上げさぁ〜!二次会から四組とうちらのクラス合流するじゃん?」
三年間という時間を越えてきた彼女の笑顔には、高校生活最後の春を迎えた少女だけが持つ、鮮やかな輝きがあった。
「それでさ、二組の蒼太たちも誘いたいんだけど……」
咲は少しだけ声を落とす。
「二組の幹事、横溝くんらしいから。二次会から二組も合流しよ!って、陽向誘ってみてくんない?」
「ああ、琉嘉?」
陽向は頷いた。
「いいよ!えーっと……どこにいるかなぁ〜」
そう言いながら、二組の生徒たちが集まっている一角へ視線を向ける。
何人もの男子が固まって笑っている。
その中に、見慣れた姿があった。
蒼太。
そして、その少し近くに。
朔也がいた。
「…………。」
ほんの一瞬。
陽向の視線が、そこに吸い寄せられた。
そして、胸の奥がきゅっと締まる。
(……朔也も……二次会来るかな……)
蒼太が来るのなら、きっと朔也も当然来るだろう。
そう思っただけなのに。
胸の奥に、小さな痛みが走った。
今日で、卒業。
保育園。
小学校。
中学校。
同じ学校で朔也と顔を合わせるのも、もう最後になる。
そう考えた瞬間。
さっきまであれほど賑やかだった周囲の声が、ほんの少しだけ遠くなったような気がした。
結局。
朔也とは、最後までぎこちなさを残したままだった。
まったく会話をしなかった頃に比べれば、雫の事件をきっかけに状況はずっと良くなった。
顔を合わせれば、挨拶くらいはする。
必要なことなら、普通に話す。
何かを頼まれれば、普通に応じる。
傍から見れば。
きっと、もう何の問題もないように見えるだろう。
けれど。
二人の間には、まだどこか見えない距離があった。
あの時の大喧嘩。
あの時、朔也から告げられた想い。
自分が抱えた怒り。
戸惑い。
あの日から、二人の間には埋めきれない何かが残ってしまった。
目が合えば、どちらからともなく視線を逸らす。
話しかければ、必要最低限の言葉だけを交わして終わる。
以前なら。
喧嘩しても、後腐れなんて何も残らなかった。
くだらないことで笑い合えた。
何でもないことを話せた。
隣にいることが、当たり前だった。
それなのに今は。
もうお互いがお互いを、異性として意識している。
ほんの数言の会話ですら、胸の奥に何かが引っかかる。
けれど。
今、陽向の胸を締め付けているものは、もう怒りではなかった。
あの告白を引きずっているだけじゃない。
時間が経てば経つほど。
今日という日が近づけば近づくほど。
別の感情が、静かに胸の奥へ積もっていった。
もっと悲しくて。
もっと切なくて。
朔也が遠くへ行ってしまうことが、寂しい。
朔也は、この街を離れる。
同じ学校にいることもない。
近所で偶然顔を合わせることもない。
自宅で兄妹みたいに過ごすこともなくなる。
そんな当たり前の日々が。
もう永遠に来ない。
その事実が、思っていた以上に苦しかった。
陽向は、遠くにいる朔也を見つめた。
たった数十メートル先にいる。
それなのに。
今日を境に、この距離は少しずつ、本当の意味で遠くなっていく。
進学先も違う。
生活圏内も違う。
これから歩いていく道も違う。
今までのように、当たり前に会えるわけじゃない。
これから先、何ヶ月も何年も会わないことだってあるかもしれない。
そう思うと、胸の奥がまたきゅっと痛んだ。
(……嫌だ…よ……………)
ほんの一瞬。
そんな幼い言葉が、心の中に浮かんだ。
でも。
それ以上は、考えなかった。
考えてしまえば。
きっと、今まで必死に前を向いてきたものまで、全部こぼれてしまいそうだったから。
陽向は小さく息を吐く。
そして。
「……琉嘉ーっ!」
いつものように笑った。
「咲、ちょっと行ってくるね!」
「あ、ほんと!?お願い!」
陽向は、もう一度だけ朔也を見る。
彼は仲間たちと話していた。
笑っている。
いつもと同じ顔。
見慣れた、大好きな笑顔。
その姿を見つめながら。
陽向は胸の奥に生まれた小さな痛みを、そっと抱きしめるようにしまい込んだ。
陽向が横溝琉嘉と話をしていると。
「お疲れ様です!」
背後から、明るい声が飛んできた。
二人が同時に振り返る。
「孝明!みんな!」
そこには、阿久津孝明を先頭に、生徒会の後輩たちが並んでいた。
つい先ほど卒業式の後片付けを終えた役員達は、どの顔にも達成感と、少しばかりの寂しさが浮かんでいた。
その時。
「みんな!」
別の方向から、声が飛んできた。
振り返ると、クラスメイトの輪から抜け出した相田桜子が、こちらへ駆けてくる。
「お疲れ様!」
相田桜子は嬉しそうに笑いながら、生徒会の輪へ入ってきた。
その笑顔を見た瞬間、陽向の胸の奥がほんの少しだけ熱くなる。
この生徒会役員達の顔を見るのも。
この声を聞くのも。
今日で最後なのだ。
そんな実感が、ほんの一瞬だけ胸を掠めた。
「孝明の送辞、堂々としてたし、めちゃくちゃ刺さったよー!」
陽向がそう言うと、孝明は少し照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます。星野先輩の答辞は癖強すぎですよ」
「あはは!」
「陽向節が炸裂してましたね」
「安定の型破り」
陽向が笑う。
その様子を見て、加賀優音と横溝琉嘉も笑いながら口を挟む。
「めちゃくちゃエモさ爆発してました!」
雫も楽しそうに続けた。
相田桜子も柔らかく笑う。
「ほんと、さすが進学先文学部の、文系クラストップ生徒会長の答辞って感じだったね!」
「だろー?文学部ムーブバリ全開!」
「だる。はい調子乗ったー」
阿久津孝明の突っ込みに、笑い声が重なる。
ほんの少し前まで、体育館の中で卒業生代表としてマイクを握っていた少女と。
その背中を見送っていた後輩たち。
今はもう、ただのいつもの生徒会だった。
くだらないことで笑って。
先輩をからかって。
後輩がそれに突っ込んで。
そんな、いつもの時間。
けれど今は。
その”いつも”が、どうしようもなく愛おしかった。
「じゃあ、最後に写真撮りましょう!」
加賀優音がスマートフォンを取り出す。
「陽向ちゃん、真ん中!」
「私!?」
「生徒会長なんだから当然だろ」
「もう卒業式終わったから生徒会長じゃないもーん!」
そう言いながらも、陽向は笑ってみんなの中央へ並んだ。
肩を寄せる。
誰かがスマートフォンを掲げる。
「いきますよー!せーの!」
カシャッ。
シャッター音が鳴った。
画面の中には。
笑っている陽向と。
その隣で笑っている後輩たち。
何度も一緒に仕事をして。
何度も失敗して。
何度も助けてもらった仲間たち。
きっと何年か経ったら。
今ここにいる全員が、別々の場所で、それぞれの人生を歩いている。
そう考えると。
胸の奥が、少しだけ寂しくなった。
「ショート動画撮ろうよー!」
「え、全員で!?」
「最後なんだから!」
「何の曲にします?」
「なに踊れるー?」
また笑い声が起こる。
写真を撮って。
動画を撮って。
一人ひとりと言葉を交わす。
「困ったことがあったら、いつでも連絡してね!」
陽向がそう言うと。
阿久津孝明は、少しだけ意地悪そうな顔をした。
「困ったことがあっても、星野先輩には頼らないですよ」
「なんでだし!!」
「キャンパスライフ忙しいでしょうから」
「暇暇!!めっちゃ暇!クソ暇!!」
「いや、大丈夫でーす」
また笑いが起こった。
「大学行っても、頑張ってくださいね」
「うん、孝明も。生徒会長頑張ってね。」
陽向は、少しだけ真面目な顔になった。
「みんなもね」
一人ひとりの顔を見る。
「これからも、ちゃんと。自分たちらしくね」
「はい」
最後の挨拶。
最後の笑顔。
最後の写真。
何気ない時間が、少しずつ「最後」に変わっていく。
そのときだった。
「あの……」
小さな声がした。
陽向が振り向く。
すぐ隣に、何となくずっと元気の無かった雫が立っていた。
雫は、少しだけ躊躇うように視線を揺らしている。
そして、そっと。
「……星野先輩」
「ん?」
雫は、陽向の制服の裾を掴んだ。
「…二人だけで…話したいんですけど……」
その声は、いつもの雫よりも少しだけ小さかった。
けれど。
陽向には、それだけで分かった。
雫が、抱えている気持ちを。
陽向は一瞬だけ雫の顔を見つめ。
すぐに、優しく笑った。
「うん。いいよ」
その返事を聞いた瞬間。
雫は、ほんの少しだけ力が抜けたように笑った。
その二人のやり取りを、生徒会の仲間たちは黙って見つめていた。
誰も、何も言わない。
ただ。
相田桜子が、ほんの少しだけ目を細める。
阿久津孝明も。
横溝琉嘉も。
加賀優音も。
他の役員達も。
みんな分かっていた。
雫がどれほど陽向を慕っていたのか。
生徒会長としてだけではない。
迷ったときに手を差し伸べてくれた先輩として。
辛いときに寄り添ってくれた大切な人として。
そして。
今日、陽向が卒業してしまうことを。
雫がどれほど寂しく思っているのか。
「んじゃ、俺たち行ってるわ」
横溝琉嘉が、わざと軽い口調で言った。
「また後でね、陽向ちゃん!」
相田桜子が笑う。
「うん!」
陽向も笑顔で返した。
一人。
また一人。
生徒会の仲間たちが、二人から少しずつ離れていく。
さっきまで賑やかだった場所に。
ほんの少しだけ、空間が生まれた。
陽向と雫。
二人だけが、その場に残った。
周囲では、まだ卒業生たちの笑い声が響いている。
写真を撮るシャッター音。
友達を呼ぶ声。
泣きながら笑う声。
春の風に揺れる桜の枝。
そのすべてが、少しずつ遠くなるような感覚。
向かい合う。
陽向はただ、いつものように。
優しく雫を見つめていた。
その目を見た瞬間。
雫の胸の奥に、込み上げてくるものがあった。
雫は小さく息を吸った。
そして。
二人だけの時間が、静かに始まった。
「…私………星野先輩に隠してることがあるんです。」
雫が、ぽつりと言った。
その声は、周囲に響く卒業生たちの笑い声に紛れてしまいそうなほど小さかった。
けれど、すぐ目の前にいた陽向には、はっきりと届いた。
「隠してること?」
陽向が首を傾げる。
さっきまで浮かべていた笑顔が、ほんの少しだけ曇った。
ちゃんと、決めたことだから。
どうしても、伝えなければならない。
「…私…………」
そして、雫はゆっくりと陽向を見た。
「……朔也くんと別れちゃいました。」
「え……っ!?」
陽向の目が、大きく見開かれた。
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
言葉だけが、頭の中を空回りする。
雫の発した単語が意味を持たないまま頭の中をぐるぐると回った。
陽向の唇が、かすかに震える。
「……嘘……なんで……?」
ようやく言葉になった声は、ひどく掠れていた。
理解が追いつかない。
あんなに幸せそうだった、二人。
雫は朔也を大好きで。
朔也も雫をあんなにも大切にしていた。
どうして。
「朔也くんは………」
雫は、ほんの少しだけ視線を落とした。
長い睫毛が、頬に影を落とす。
言いにくいことを口にしようとしているのが、その表情だけで分かった。
「……星野先輩が好きだって……言ってました」
その瞬間。
「………………。」
陽向の頭の中が、真っ白になった。
何かを考える余裕なんてなかった。
胸の奥に押し込めていたものが、一気に掻き乱される。
朔也が。
それを、雫に伝えた。
それは。
雫への、最低な裏切りだ。
腹の底から、煮えたぎるような感情がせり上がってきた。
「………………あいつ……っ…」
陽向の手が、ぎゅっと握り締められる。
爪が掌へ食い込む。
「……最低……っ!」
吐き出した声は、怒りで震えていた。
視界が滲みそうになる。
朔也はなんて、愚かなんだろう。
雫は何も悪くない。
非の打ち所がないほど完璧な彼女で。
こんな良い子は、きっとそうそう出会えない、
手放してしまったら、もう他にはいない。
ずっと一緒にいれば、朔也は間違いなく幸せになれたはず。
なのに。
どうして雫を傷つけた。
どうして、今になって。
どうして─────私なんかのために。
陽向の肩が震える。
陽向は、何かを言おうとして口を開いた。
その時、雫の声が静かに落ちた。
「…星野先輩も……朔也くんのことが好きですよね?」
「…………っ!?」
息が止まった。
まるで。
胸の奥を、いきなり見透かされたようだった。
陽向の身体が、ピタリと固まる。
周囲の音が消えたような気がした。
笑い声も。
風の音も。
シャッター音も。
何も聞こえない。
そんな陽向を見つめながら、雫は。
「私、わかってました。」
静かに空を見上げた。
青い空。
春の光。
まだ咲いていない桜の蕾。
どこまでも穏やかな景色だった。
「ほんとはずーっと、わかってたんですけど……それでも、朔也くんのことが好き過ぎて…」
小さく笑う。
その言葉には。
この一年間、自分の中だけに抱えてきた想いが滲んでいた。
大好きだった。
だから、見えないふりをした。
気づいていないふりをした。
朔也の視線の先にいる人を。
朔也がその名前を口にするときだけ、ほんの少し変わる声を。
そして、自分が朔也の隣にいることで。
陽向がどれだけ苦しんでいたかも。
本当は。
雫は、ずっと分かっていた。
それでも好きだった。
だから、どうしても手放せなかった。
「私って……嫌な子だなぁって思いながらも……ズルズルと付き合っちゃってました。ごめんなさい。」
雫は、ゆっくりと頭を下げた。
制服の裾を、指先で小さく握る。
「…………しぃちゃん…っ…」
陽向の胸が、きゅっと締めつけられる。
いつも笑っている少女。
自分の後ろをついてきて。
自分のことを大好きと言って。
どんな時でも、自分を憧れの眼差しで見つめてくれていた少女。
その雫が、こんなにも長い間。
自分の知らないところで、この恋に苦しんでいた。
陽向の胸の奥に、鈍い痛みが広がっていく。
「…………。」
雫は、ゆっくりと頭を上げる。
陽向はただ、雫の瞳を見つめた。
雫もまた、真っ直ぐに陽向を見つめ返していた。
そして。
胸の奥に残っていた最後の勇気を、そっとかき集めるように。
「……星野先輩。」
その声が。
静かな春の空気へ溶けていく。
雫は、ほんの少しだけ笑った。
泣きそうなのに。
それでも笑おうとしている顔だった。
そして。
ずっと言えなかった言葉を。
自分の中だけで、大切にしていた秘密を。
今日、この人が卒業してしまう前に。
自分の口から。
ちゃんと伝えたい。
ずっと大好きだった、この人に。
「私、星野先輩のことが好きです。」
その一言が、春の空気の中へ静かに落ちた。
周囲では、今も卒業を喜ぶ声が飛び交っている。
桜の枝を揺らす風が吹き抜け、陽だまりの中を、淡い花びらが一枚だけ舞っていった。
けれど。
雫には、それらすべてが遠く感じられた。
今、この瞬間。
目の前にいる人だけが、世界のすべてだった。
「…………。」
陽向は何も言えなかった。
ただ、目の前の雫を見つめている。
その瞳には、驚きと戸惑い。
そして、どうしようもないほどの悲しみが浮かんでいた。
雫は、そんな陽向を見つめながら、ほんの少しだけ笑った。
泣きそうだった。
今にも涙が溢れてしまいそうだった。
それでも、ちゃんと笑いたかった。
この人の前では、最後まで。
自分が大好きだった、太陽みたいな先輩の前では。
「……星野先輩がいてくれたから、私は強くなれました。」
声は、少し震えていた。
不安な時も。
自分に自信が持てない時も。
落ち込んだ時も。
勇気が足りなくて、どうしていいか分からなかった時も。
(行こうっ!)
初めて出会ったあの日。
怖がっていた自分へ向けてくれた笑顔の眩しさ。
差し伸べてくれた手の温かさ。
あの時。
誰も置いていかない人なんだって、わかったんだ。
(応援するよっ!!!朔也とLINE、繋いであげよっか!?)
(いや、めっちゃ良き。その感じ、絶対朔也嬉しいと思うよ。)
(…しぃちゃん。自分がどんだけ最強に可愛いか、もっと自信持った方がいいよ。)
私の背中を、何度も押してくれた。
自信をくれて、勇気をくれて。
いつでも前を、向かせてくれた。
あなたが笑ってくれると、どんなことでも大丈夫って思えたんだ。
「星野先輩がいてくれて、楽しかったです。」
雫の瞳が、少しずつ潤んでいく。
その声を聞きながら。
陽向の胸の奥にも、熱いものが込み上げていた。
思い出す。
くだらないことで笑った日。
生徒会室で遅くまで話した日。
一緒に帰った日。
怒られた日。
失敗した日。
何でもない一日。
その一つひとつが、今になって宝物のように蘇ってくる。
(こーーらーーーー!!やっと見つけたーーー!!!)
(しぃちゃん……!走って!)
(キャーーーー!!この人痴漢ですーーーーー!!!誰かーーーー!!助けてくださーーーーい!!!)
無茶苦茶だけど。
守りたいっていう気持ちは誰よりも強くて。
(どけぇーーーっ!!!!)
(しぃちゃん…!大丈夫!?)
(……即刻、退学にしてくださいっ!!)
(とにかく!あいつを二度と聖綾国際高校の敷居を跨がせるなーーー!!!!)
自分のことよりも、誰かのことを優先して。
自分が傷つくことなんて、まるで気にせずに。
(しぃちゃんが寂しかったら、どこへでも。毎日でもしぃちゃんのところに行くよ。卒業したって、このまま放ったらかしにして、しぃちゃんを置き去りになんてしない。)
(絶対に、何がなんでも。私が、あいつをこの学校から、この街から抹消してやる…!それまで諦めないから!」
(しぃちゃんが安心して、笑って学校生活を送れるようになるまで………側にいるから)
一つひとつ思い出すたびに、胸の奥が温かくなる。
何もできなかった自分に、差し伸べてくれた手。
迷って立ち止まっていた自分の背中を、何度も押してくれた。
自分が辛くても、私のために笑ってくれた。
泣いている時には、何も聞かずに隣にいてくれた。
傷つけちゃった事も。
傷つけられちゃった事もあるけれど。
それでも。
何度も何度も。
この人は、私を守ってくれた。
「……だから」
雫は、涙を堪えるように一度だけ瞬きをした。
少しだけ笑う。
そして。
陽向の顔を見る。
「星野先輩がいてくれて……幸せでした。」
とうとう、一粒。
涙が頬を伝った。
それを拭おうとはしなかった。
この一年間。
胸の奥へ大切にしまい続けてきた気持ちを。
今日全部、この人に伝えると決めたのだから。
雫が陽向を好きなのは、ただの恋愛感情ではなかった。
憧れだった。
尊敬だった。
自分を変えてくれた人への感謝だった。
そして────
それらすべてを包み込むような、愛だった。
陽向は、唇を強く噛み締めた。
「ごめんね……しぃちゃん……っ」
声が震える。
必死に涙を堪えようとしているのが、雫にも分かった。
「私のせいで…っ辛い思い……させちゃった……っ」
「……先輩………」
言葉が途切れる。
「私が……もっと早く朔也の気持ちに気づいてたら……」
陽向の瞳から、とうとう涙が零れた。
「もっとちゃんと……しぃちゃんのこと見てたら……」
朔也が、自分を好きだったなんて。
どうしてわからなかったんだろう。
どうして雫の苦しみに、気づいてあげられなかったんだろう。
私はずっと、無自覚で。
ずっと、取り返しのつかないことをしていた。
「こんなに……苦しませなくて済んだのに……」
雫は、陽向の涙を見つめた。
胸が痛かった。
自分のために泣いてくれている。
自分のことを、こんなにも大切に思ってくれている。
嬉しかった。
本当に。
どうしようもないくらい、嬉しかった。
だからこそ、この人には幸せになってほしい。
この人が、心から笑える場所へ行ってほしい。
雫は、泣きながら微笑んだ。
「私は……星野先輩に、幸せになってほしいんです」
それは、きっと。
雫が、この一年間で、陽向から教えてもらったこと。
好きだから、一緒にいたい。
好きだから、離れたくない。
好きだから、誰にも渡したくない。
そんな気持ちだけが、愛じゃない。
好きだからこそ。
相手が笑っていられる未来を願うこと。
その人が自分のいない場所で幸せになることを、心から喜べること。
それは。
「だから……」
あなたが、ずっと私にくれた優しさ。
そんな、尊い感情を。
あなたが教えてくれたから。
「自分の気持ちを、大切にしてください」
「…!」
陽向の瞳が揺れる。
「もう、私のために自分を犠牲にしないで」
雫は、優しく微笑んだ。
「朔也くんに…本当の気持ちをちゃんと伝えてください。その方が、私は嬉しいですから」
陽向の顔が、くしゃりと歪む。
「……しぃちゃん……」
その表情を見ていると。
胸の奥から、どうしようもない感情が込み上げてくる。
泣きたい。
抱きしめたい。
行かないで、と言いたい。
もっと一緒にいたい。
もっと、この人の隣にいたい。
────大好き。
その気持ちは、紛れもなく本物。
「……でも……」
とうとう、雫の声が震えた。
「……星野先輩が卒業しちゃうのは……っ」
堪えていたものが、決壊した。
「やっぱり寂しいです……っ」
雫は、陽向へ駆け寄るように身体を寄せた。
ぎゅっ。
小さな身体が、陽向へしがみつく。
制服越しに伝わる温もり。
ずっと憧れていた、大好きな人の温もり。
「……っもっと……一緒に過ごしたかったです……っ」
涙が止まらなかった。
陽向は、そっと雫の背中へ腕を回した。
「……私も……」
陽向の声も、震えていた。
「…しぃちゃんと離れるの….っ寂しいよ……」
その言葉と同時に。
陽向の瞳からも、涙が一粒こぼれた。
二人は、しばらく何も言わなかった。
ただ、抱きしめ合っていた。
周囲では、相変わらず卒業を祝う声が聞こえている。
なのに、この瞬間だけは。
二人にとって、そこだけ時間が止まったようだった。
やがて。
雫が、ゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れた瞳。
それでも、その口元には少しだけ笑顔が戻っている。
「……また、お家に遊びに行ってもいいですか?」
陽向は、涙を拭いながら笑った。
「もちろん!」
そして、いつもの調子で。
「いつでも来てよ。明日来る?」
「……あはは、明日ですか?」
雫は思わず笑ってしまう。
「本当に行っちゃいますからね!」
「全然いいよ!なんなら泊まりで!」
「えっ……」
雫が少しだけ目を丸くする。
そして。
悪戯っぽく、口元を緩めた。
「……一緒に寝たら、私……星野先輩のこと食べちゃうかもしれないですよ?」
「なんで食べんのー!」
「それくらい……大好きってことです」
雫が笑う。
陽向も笑う。
二人の笑い声が、春の空へ弾けた。
それは。
さっきまで泣いていた二人のものとは思えないほど、いつもの笑い声だった。
雫は思った。
彼女は、きっと。
こんな私の恋心なんて、一ミリも気づいてない。
きっと、友達との距離顔が近い子なんだって。
少し変わった可愛い後輩からの親愛としか、思ってない。
でも、これでいい。
最後まで。
この人とは、笑っていたい。
だから、もう。
こんな形で、好きでい続けることは。
終わりにするね。
さよなら、私の恋。
そして。
雫は、もう一度だけ陽向を見つめた。
「……朔也くんのところに、行ってください」
その言葉に。
陽向の笑顔が、ほんの少しだけ止まる。
「……うん」
小さく頷く。
「じゃあ……行ってくる!」
そして、いつもの明るい笑顔を見せた。
雫が、少しだけ悪戯っぽく笑う。
「喧嘩しちゃ駄目ですよ?」
「それはどうかなぁ…相手次第かな!」
「もう……」
雫は呆れたように笑った。
けれど。
その瞳には、もう迷いがなかった。
そして。
「じゃあ……」
雫は、そっと陽向へ一歩近づいた。
「素直になれる、おまじないです。」
「…?」
陽向が首を傾げる。
雫は、両手をそっと伸ばした。
ふわり。
陽向の頬を、両手で包み込む。
温かい。
柔らかい。
何度も見上げてきた、大好きな人の顔。
そう思った瞬間。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
そして。
ほんの一瞬だけ。
陽向の頬へ唇を触れさせた。
ちゅ。
触れるだけの、ほんの短いキス。
それ以上は、何もなかった。
雫は、ゆっくりと顔を離す。
頬を赤くしながら。
それでも、どこか晴れやかな顔で。
「……健闘を祈ってますね」
陽向の頬へ、じわりと赤みが広がっていく。
「…………しぃちゃん…ありがと!」
陽向は手を振りながら、同級生の輪の中へと駆けて行く。
雫は、そんな陽向の背中を見送りながら、笑顔を浮かべた。
その笑顔は。
まるで、これから新しい一歩を踏み出す人の背中を押す───小さな春の光のようだった。




