第187話 ちゃんと幸せにして下さい
体育館では、教員、卒業対策委員、生徒会役員らによる、明日の卒業式本番へ向けた最終確認が行われていた。
壇上には、明日ここへ並ぶ卒業生たちのための演台が置かれ、壁際には紅白幕が整然と張られている。
座席の間隔。
来賓席の位置。
卒業証書を渡す際の動線。
在校生代表の入退場。
司会の立ち位置。
一つひとつを確認するたび、三年間の最後を迎えるための準備が、少しずつ完成していく。
体育館の高い天井へ、教師たちの声や生徒たちの足音が反響する。
その喧騒の中にいると、明日この場所から何人もの三年生が”卒業生”として送り出されることが、まだ現実ではないようにも感じられた。
けれど。
この景色を見るのも、明日で最後。
長かったようで、振り返ればあまりにも短かった三年間。
この体育館で笑ったことも。
悔しくて泣いたことも。
大切な仲間と肩を並べたことも。
そのすべてが、明日を境に”高校時代”という過去へ変わっていく。
やがて、最後の確認が終わった。
生徒会顧問の餅田先生が、集まっていた役員たちを見渡す。
「それじゃみんなお疲れ様。明日よろしくお願いします!」
「お疲れ様でしたー!」
「よろしくお願いします!」
それぞれが返事をしながら、張り詰めていた空気を少しだけ緩める。
明日はいよいよ本番。
今日まで何度も確認してきたからこそ、あとは明日を迎えるだけだった。
役員たちはそれぞれ荷物をまとめ、体育館を後にしていく。
その中で。
「しいちゃん、行こっ!」
陽向が、まるでそれが当たり前であるかのように雫の手を取った。
いつもの陽向だった。
明るくて、無邪気で。
何の迷いもなく、雫の手を引いていく。
その温もりに、雫も自然と笑みを浮かべかける。
けれど。
「あ……」
ふと、足が止まった。
陽向が振り返る。
雫は繋がれた手へ一瞬だけ視線を落とした。
「…えっと……私……」
「?」
陽向が首を傾げる。
「朔也くんのこと、道場で待たせてて……」
その名前を口にした瞬間。
陽向の表情が、ピタリと止まった。
そして次の瞬間。
「はっ!?」
体育館に、素っ頓狂な声が響いた。
「それ、ちゃんと本物!?」
「本物ですよっ!私が呼び出したんですから!」
雫は思わず苦笑した。
陽向が心配するのも、無理はなかった。
事件が起きた、あの日。
あの時、雫は何かがおかしかった。
いつもの雫とは明らかに違う、どこか思い詰めた表情。
陽向は、その異変に気づきながらも。
(……今から……朔也くんと会う予定になってるので)
そう言った雫の言葉を信じて。
その背中を見送った。
あの日の出来事は、今でも陽向の胸の奥に後悔として残っている。
もし、あの時。
もっと強く引き止めていたら。
もし、一人で行かせなかったら。
結果は変わっていたのだろうか。
また何か起きるんじゃないか。
また雫が傷つくんじゃないか。
そんな不安が、ほんの一瞬だけ心を過った。
陽向は小さく息を吐いた。
そして、いつもの笑顔を取り戻す。
「……それなら、大丈夫か。」
「はい。」
雫も柔らかく笑った。
「心配し過ぎですよ。そんなんで明日卒業出来るんですか?」
「無理~~~~」
陽向は突然、雫に縋るように両腕で小さな身体を包み込んでもたれかかる。
「卒業したくない~~〜キラキラJK終わっちゃう~~~」
雫は呆れたように笑う。
「なに言ってるんですか」
その声には、もう事件の日の影はなかった。
「星野先輩は、JD(女子大生)になってもキラキラですよ!」
陽向はそんな雫の笑顔を見て、少しだけ目を細める。
──よかった。
心の中で、そう思った。
明日。
この学校を卒業する。
三年間ずっと一緒だった仲間たちとも、今までのようには会えなくなる。
大切だった日常が、ひとつずつ過去になっていく。
それでも。
雫がこうして笑っていられるなら。
きっと、大丈夫。
陽向はそう信じた。
やがて。
「じゃあ、また明日!」
「はい!また明日、星野先輩!」
陽向と別れた雫は、体育館を後にした。
廊下へ出ると、夕方の光が校舎の窓から差し込んでいた。
西へ傾いた太陽が、床へ長い影を落としている。
雫はその光の中を、ゆっくりと歩き始める。
向かう先は、道場。
そこにはきっと。
自分が呼び出した、大切な人が待っている。
胸の奥が、少しだけ苦しくなる。
怖くないと言えば、嘘になる。
ちゃんと伝えられるのか分からない。
それでも。
雫は一度だけ、深く息を吸った。
そして、小さく笑った。
ちゃんと、背中を押そう。
自分で決めたことだから。
雫は、静かな廊下を歩きながら。
一歩ずつ、道場へ向かった。
──────。
そして、ついに。
道場の扉が、ゆっくりと開いた。
ガラッ────。
静まり返った道場へ、引き戸の音が長く響く。
朔也が振り向くと、夕暮れの光が差し込む入口に一人の少女が立っていた。
「…………………雫……」
その姿を見た瞬間。
朔也の胸が、大きく上下した。
何度も見慣れているはずの、愛らしいその姿。
一緒に過ごした日々が、一気に押し寄せる。
別れてから、そんなに月日は経過していないのに。
妙に、久しぶりで。
実際にその姿を目の前にすると、何を言えばいいのか分からなくなる。
雫は、入口で足を止めた。
そして。
静かに、深く頭を下げる。
スッ………
一礼。
(まず、剣道は礼儀からな)
初めてこの場所へ足を踏み入れた日。
剣道部の仮入部にやってきた雫へ、蒼太が教えてくれたことは、今でも雫の胸に残っている。
(道場入る時も出る時も礼。“お願いします”“ありがとうございました”はちゃんと言う)
あの日の自分は。
緊張しながら何度も周囲を見回していた。
そして、あの時。
真剣な目で剣道をしていたあなたの姿に、心を奪われた。
あれから、どれだけの時間が流れただろう。
笑った日も。
泣いた日も。
初めて手を繋いだ日も。
初めて好きだと言われた日も。
この場所から、二人の全ては始まった。
「……待たせてごめんね、朔也くん」
小さな声だった。
けれど、その声は不思議なほど真っ直ぐだった。
雫は一歩、また一歩と道場の中へ入ってくる。
朔也は、そんな雫を見つめていた。
「……本当に…心配してた」
ようやく出てきた声は、少し掠れていた。
「事件のこと聞いてから……ずっと雫のこと…どんだけ心配したと思ってんだ…」
その言葉を聞いて、雫の胸の奥がほんの少しだけ震えた。
「……うん。LINEくれて、ありがとう」
雫は小さく頷いた。
そして、ほんの少しだけ笑う。
「…凄く……嬉しかった。」
その笑顔を見た瞬間、朔也の表情が歪んだ。
「……ごめん……っ」
本当に、心配していたから。
“嬉しかった”
そのひと言で、堪えていたものが堰を切ったように溢れた。
「…俺のせいで……雫を危ない目に遭わせて……」
雫が静かに首を横へ振る。
「……事件のことは……朔也くんのせいじゃないよ」
「いや、俺がずっと一緒にいたのに……何も気づいてやれなかった…」
声が震える。
「…雫のこと……ちゃんと守ってやれなくて……」
一度、息を呑む。
それでも、止まらなかった。
「その上、俺……雫に本当に最低なことして…… 一方的に……傷つけて……」
喉の奥が詰まる。
朔也の肩が、小さく震えていた。
雫は、何も言わずにその姿を見つめていた。
やっぱり。
この人は、そういう人だ。
自分がどんな立場にいても。
どれだけ傷つけても。
困っている人がいたら、放っておけない
思った通りだった。
朔也くんは自分を責めている。
事件のことも。
別れたことも。
全部自分一人の責任にして。
まるで、自分が苦しめば苦しむほど償えるとでもいうように。
あの日。
突然、別れを告げられた時。
どうしようもないほど、あなたを憎んだ。
どうして私じゃないの。
あんなに可愛いって言ってくれたのに。
あれだけ好きだと言ってくれたのに。
一生、一緒にいたいと言ってくれたのに。
私の手を握ったくせに。
私を抱きしめたくせに。
どうして今さら、他の人を好きだったなんて言うの。
酷い裏切りだと思った。
──いや、本当は。
もっと前から。
ずっと心のどこかで分かっていた。
あなたの瞳の奥に、自分ではない誰かがいることを。
その視線が向かう先を。
その名前を口にする時だけ、ほんの少し柔らかくなる声を。
気づかないふりをしていただけだった。
私は、利用されたんだ。
騙されたんだ。
最初から全部、嘘だったんだ。
そう思えば。
少しだけ、楽になれる気がした。
嘘だったのなら。
愛されていなかったのなら。
こんなに苦しいのも仕方がない。
こんなに泣く自分も。
こんなに縋りつきたい自分も。
全部、なんて可哀想な私。
悔しかった。
納得できなかった。
許せなかった。
最低だと思った。
それなのに。
自分でも嫌になるくらい、あなたのことが大好きなんだ。
雫はゆっくりと息を吸った。
夕暮れの道場には、二人以外誰もいない。
窓から差し込む光が、床の上へ細長く伸びている。
あの日と同じ場所。
二人の始まりだった場所。
そして。
二人の恋が終わろうとしている場所。
雫は、朔也を真っ直ぐに見つめた。
「…………朔也くん」
朔也が顔を上げる。
その瞳は赤く滲んでいた。
雫は、ほんの少しだけ微笑んだ。
悲しい笑顔だった。
それでも。
どこか、優しい笑顔だった。
「あなたを許します。」
その言葉が。
静まり返った道場の中へ、ゆっくりと落ちていった。
夕暮れの光が、二人の間へ細く差し込んでいる。
窓の外では、春の風に揺らされた木々の枝が、かすかに葉を擦り合わせていた。
けれど、その音さえも遠く感じるほど。
朔也の耳には、雫の声だけがはっきりと残っていた。
「…………雫……」
掠れた声が、喉の奥から漏れる。
雫の表情には、不思議なほど穏やかな微笑みが浮かんでいた。
まるで。
これまで胸の奥へ抱え続けてきた、憎しみも、悲しみも、悔しさも。
その全部を、一つずつそっと手放していくような。
儚くて。
それでいて、どこか天使のような微笑みだった。
「…………っ」
胸の奥が熱くなった。
気づけば、涙が滲んでいる。
長い間、何重にも絡まり続けていた何かが。
少しずつ、ほどけていく。
ずっと自分を責め続けていた。
雫を傷つけた。
雫を守れなかった。
自分が雫の人生を壊してしまった。
そんな思いが、鎖のように胸へ絡みついて、息をすることさえ苦しくしていた。
雫は今。
その鎖を、自分の手で外そうとしてくれている。
「その代わり……」
雫が、ほんの少しだけ首を傾ける。
潤んだ瞳が、柔らかな光を宿している。
「朔也くんに、聞いてもらいたいお願いがあるの」
「……お願い?」
朔也は、涙を拭うことさえ忘れて雫を見る。
雫は小さく頷いた。
「…………星野先輩に、幸せになってほしい。」
真っ直ぐに朔也を見つめた。
「……ひな?」
その名前を口にした瞬間、朔也の表情に戸惑いが浮かぶ。
雫は、その顔を見て少しだけ笑った。
「私、星野先輩のことが好きなの」
そして、雫の声がほんの少しだけ震える。
「だから……私から朔也くんへの最後のお願い。」
溢れそうになる涙を誤魔化すように、雫は深く頭を下げた。
不器用で。
素直じゃなくて。
思わせぶりで。
優しくて。
困ってる人がいたら、放っておけないお人よし。
朔也くん、ありがとう。
あなたの彼女になれて、本当に幸せでした。
「星野先輩を……ちゃんと幸せにしてください。」
そうして、あなたも。
ちゃんと幸せになってね。
その言葉に。
朔也の胸が、大きく揺れた。
雫は、ゆっくりと泣き顔を上げた。
そして、涙で濡れた頬に、ほんの少しだけ悪戯っぽい笑みが戻った。
「星野先輩のこと、ちゃんと幸せにしなかったら……今までのことも全部許さないからねっ!」
朔也は、困ったように笑った。
「…………ひなが、それを望んでくれっかな」
その言葉を聞いた雫は、まるで呆れたように目を細める。
「望んでるに決まってるよ」
「…え?」
「星野先輩は、朔也くんのことが好きなんだから」
その瞬間。
朔也の顔が、ピタリと止まった。
「…………いや」
朔也は困惑したように眉を寄せる。
「ひなが好きなのは、藤崎先輩だよ」
「…………」
雫の口が、ぽかんと開いた。
「……ねぇ、それ……本気で言ってる?」
「本気もなにも、事実なんだよ」
あまりにも真顔で答えるものだから。
雫は言葉を失った。
そして、ふっと。
堪えきれないように笑った。
「…………どこまで鈍感なの?」
「え?」
「朔也くんって、そんなに馬鹿だったっけ?」
「おい!馬鹿ってなんだよ!」
朔也が思わず身を起こす。
「あ、ごめん!つい!」
雫は慌てて口元を押さえた。
けれど。
その肩は、小さく震えている。
笑っている。
本当に、心の底から。
「……あ!そー言えば、第一志望の合格おめでとうございます!」
「遅っ!」
「だって…私それどころじゃなかったし?」
「確かにそうだけど…“そういえばおめでとう”ってなんか酷くね?」
「ちゃんと思ってたけど伝える手段がなかったの!」
「いやいや。何回もLINEしたのに全スルー!」
「あはは!ちょっとお灸を据えてやったんだよー!」
雫は涙の残る瞳を細めながら、もう一度笑った。
その笑顔を見つめながら。
朔也も、つられるように口元を緩める。
いつ以来だろう。
こうして何も考えずに二人で笑ったのは。
ほんの一瞬だけ、あの日々が戻ってきたような気がした。
けれど雫は知っている。
これは、あの日々へ戻るための笑顔ではない。
過去を取り戻すための笑顔でもない。
前へ進むための笑顔だから。
この笑顔の先で。
雫は、自分の大好きな人を、自分ではない誰かのもとへ送り出そうとしていた。
それでも不思議なくらい、胸は穏やかだった。
苦しい。
悲しい。
寂しい。
本当は、今すぐ泣きながら縋りつきたい。
それでも、好きな人が幸せになることを願える自分を。
雫は、今はじめて。
少しだけ好きになれた気がした。




