第186話 好きな人を、真っ直ぐに
卒業式を前日に控えた、高校生活最後の日。
長かったようで、振り返ればあまりにも短かった三年間が、静かに終わりへ向かおうとしていた。
そんな日の前夜。
朔也のスマートフォンに、一通のLINEが届いた。
“明日、放課後の会場設営が終わったら道場で会いたいです”
そのメッセージを見た瞬間。
朔也の胸の奥へ、張り詰めていた糸がふっと緩むような安堵が広がった。
雫が今日から学校へ戻ってきたことは、知っていた。
それでも事件以来、ずっと既読のままだった自分のメッセージ。
それを責める気持ちは少しもなかったし、むしろ返信など求めてはいけないと思っていた。
けれど今。
ようやく、雫の方から言葉が届いた。
それだけで、少なくともほんの少しだけ。
雫は、あの日から前へ進もうという精神状況まで持ち直せたのかと思うと、胸を撫で下ろす朔也だった。
(…………よかった…)
心の中で、小さく呟く。
胸の奥へ溜まり続けていた不安が、ほんの少しだけほどけていく。
───────。
夕暮れの光が、校舎の窓を淡い橙色に染めていた。
明日の卒業式を控え、学校中が慌ただしく動いている。
体育館では、生徒会役員や卒業対策委員たちが最後の会場設営に追われていた。
そんな中。
朔也は放課後一人、道場に向かっていた。
やがて、道場前に到着する。
その瞬間に、ふと蘇る。
(バトミントン部の仮入部って……どこですか?)
この場所は、雫と初めて出会った場所だった。
不安そうに見上げて揺れていた瞳を、今でも鮮明に覚えている。
危なっかしくて。
おぼつかなくて。
放っておけなくて。
心配で。
こいつを守ってやらなきゃと、思った。
二人の全ての始まりだった、この場所で。
二人の関係をリスタートをさせたいという願いを込めての、この場所なのか。
雫は俺を呼んで、何を言うのだろう。
そして朔也は、道場内で雫を待った。
──静かだった。
普段なら、竹刀が床を打つ音。
掛け声。
足さばき。
防具の擦れる音。
三年間、何度も何度も聞いてきた音が、今は何ひとつない。
広い道場には、午後の柔らかな陽射しだけが差し込んでいた。
窓から伸びた細長い光が、磨き込まれた床をゆっくりと照らしている。
その光の中に、埃がいくつか浮かんでいた。
風が動くたび、ゆっくりと揺れる。
静寂の中で、朔也は壁へ背を預けたまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
────この場所へ来ることも、もうない。
そう考えると、不思議な感覚だった。
通うのが当たり前だった場所。
数えきれないほど、足を運んだ場所。
辛い稽古も。
悔しい試合も。
嬉しかった瞬間も。
全部、この部屋の景色の中で鮮明に蘇る。
「…………」
朔也は、ゆっくりと息を吐いた。
その時だった。
ガラッ────
静かな道場に、扉の開く音が響いた。
反射的に顔を上げる。
「………蒼太!」
立っていたのは、蒼太だった。
「最後に顧問とこ挨拶行ったら、さっき黒川が道場の鍵を借りに来たって。」
蒼太は笑いながらそう言って、入口で足を止める。
そして。
スッ───
静かに一礼した。
そのまま、道場へ足を踏み入れる。
何気ない動作だった。
それは三年間、一度も欠かしたことのない習慣だった。
道場へ入る時も、出る時も、必ず一礼する。
剣道部を引退してからも、その身体に染み付いた所作は消えていなかった。
蒼太は何事もなかったように朔也の隣まで歩いてくると、そのまま腰を下ろした。
「こんなところで一人で…感傷に浸ってんの?」
茶化すような笑顔。
朔也はすぐさま顔をしかめる。
「ちげーよ!雫に呼ばれたから待ってんの。」
「は?雫に?」
蒼太の表情が止まる。
朔也はポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を開く。
「ほら。」
そこには、昨晩届いた一通のメッセージ。
“明日、放課後の会場設営が終わったら道場で会いたいです”
蒼太は画面へ視線を落としたまま、一瞬沈黙をして。
「…………別れたのに……?」
ぽつりと漏らす。
その言葉に、朔也の胸がほんの少しだけ痛んだ。
「……………雫が、それを望んでるなら。」
それ以上のことは言わなかった。
自分から勝手に意味を持たせてもいけない。
雫が会いたいと言ったなら、ただ会う。
話したいと言うなら、聞く。
側にいてほしいと願うなら、頷く。
それだけでいい。
蒼太はそんな朔也の横顔をしばらく見つめながら、少しだけ眉を寄せる。
「思わせぶりすんなよ」
蒼太は、事件のことを知らない。
思わせぶり。
その言葉が、胸の奥へ重く落ちる。
自分はもう、雫の恋人ではない。
ひなのことが好きだと言って、自分から雫を振った。
それなのに。
今さら優しくすることが、本当に雫のためなのか。
側にいることが、逆に雫を苦しめることにならないのか。
分からない。
だからこそ。
雫が何を求めているのか、雫が何を言うのかを、ただ待つしかなかった。
もし、雫が自分を必要としているのなら。
側にいてやろうと思う。
怖いのなら、守ってやりたい。
一人になるのが辛いのなら、支えてやりたい。
また笑えるようになるまで。
もう一度、自分の足で立ち上がれるようになるまで。
そのために自分にできることがあるのなら、どんなことだってしてやりたい。
それが、今の自分にできる唯一のことだった。
─そしてそれは同時に、朔也にとって。
自分が雫を傷つけてしまったことへの、贖罪でもあった。
ゴロン─…
朔也は、そのまま道場の床へ身体を倒した。
背中へ伝わる、ひんやりとした木の感触。
何度も何度も竹刀を振り下ろしてきた、見慣れた天井が視界いっぱいに広がる。
白い天井。
梁。
窓から差し込む、夕暮れの淡い光。
三年間、何度この景色を見上げただろう。
苦しい稽古の合間に、肺が痛くなるほど息を吐きながら。
試合で負けた次の日に。
何も考えたくなくて、ただ仰向けになったこともあった。
「………………」
朔也は、しばらく黙って天井を見つめていた。
やがて、ぽつりと。
静かに口を開く。
「……………咲は、いい女だよな」
隣に座っていた蒼太が、朔也を見る。
「お前みたいなクズに言われると、咲の価値が下がる」
「ひでー言い草だな……」
苦笑する朔也。
けれど、その笑みはほんの一瞬だった。
再び視線を天井へ戻す。
蒼太は、少しだけ間を置いて。
「…………陽向も、いい女だろ」
朔也は答えない。
その沈黙が、妙に長く感じられた。
やがて。
朔也が、小さく笑った。
「…………めちゃくちゃ世界一、いい女」
その声には、迷いがなかった。
まるで、それだけは疑う余地のない事実だと言わんばかりに。
けれど、その直後。
笑みは静かに消えた。
蒼太は、そんな朔也を見ながら、ゆっくりと口を開く。
「陽向と……こんな微妙な感じのままでいいの?」
「…………俺に対して、キレてるままだし。」
「なんで雫と別れたこと、陽向に言わねーの?」
その問いに、朔也はしばらく答えなかった。
視線だけが、天井の一点へ固定される。
「…………雫が、それをひなに言ってないし」
一度、言葉を切る。
「…俺が……雫にちゃんと納得させられてねぇんだろうなって……思うから」
蒼太は眉を寄せた。
「そんなの関係ねーだろ」
「大ありなんだよ。」
朔也の声が、強く返ってくる。
「雫が納得しない限り……ひなは俺を受け入れない」
それは、諦めにも似た声だった。
蒼太はそんな朔也を見下ろす。
「…………。」
「ひなは、雫のことが大切なんだよ」
その言葉を口にした瞬間。
朔也の胸の奥へ、何かが刺さった。
蒼太は、静かに息をつく。
「自分のことより………雫の気持ちか。」
蒼太でも分かっている。
陽向がどんな人間なのか。
好きな男に告白されたのに、朔也が雫を裏切ることにブチギレている、そんな陽向が。
自分の恋よりも。
自分の幸せよりも。
大切な後輩である雫の気持ちを優先することくらい、分かっている。
朔也は自嘲するように笑う。
「あいつに何を言っても、どうせ無理。」
そう思えば。
諦めてしまう方が、ずっと楽だった。
「卒業したらこのまま家も出るし、腐れ縁も終わる。」
陽向を好きだと言わなければ。
もう一度、手を伸ばさなければ。
傷つかずに済む。
雫を傷つけることもない。
陽向を困らせることもない。
誰も傷つかない。
──そう思っていた。
けれど。
「ちゃんと言ったことあんのかよ。」
蒼太の声が、静かな道場へ落ちた。
朔也が目だけを動かす。
「陽向に、はっきり“好きだ”って、自分の気持ちを真っ直ぐ伝えたことあんのか?」
蒼太は、強い瞳で朔也を見つめる。
「……………。」
朔也は答えなかった。
唇が、ほんの少しだけ動く。
けれど、言葉にはならない。
「ここで、汗まみれになるまで竹刀振って、あんなに伝えたくて必死だったくせに。」
そこには、三年間。
朔也が何度も何度も振り続けた竹刀がある。
悔しい日も。
嬉しい日も。
どうにもならない感情を抱えた日も。
何も言えない代わりに、ただひたすら竹刀を振った。
陽向への想いを。
言葉にできなかった時間。
伝えられなかった気持ち。
自分の中で全部抱えて。
あの日。
“試合に勝って、絶対に告白する。”
振って。
振って。
振り続けて。
何度も何度も、祈るように竹刀を振った。
自分の中にあるものを、全部叩き出すように。
「好きで好きで、どうしようもないくせに。誰よりも、世界で一番大切なくせに。」
蒼太の声は静かだった。
怒鳴っているわけでもない。
責め立てているわけでもない。
それなのに。
一言一言が、朔也の胸の奥へ深く突き刺さる。
「好きな人を、真っ直ぐに。」
その言葉に。
朔也の瞳が、わずかに揺れた。
自分自身が、誰よりも守れなかった言葉。
蒼太の声が、少しだけ柔らかくなる。
「ちゃんと好きだって、真っ直ぐ想えよ。言い訳ばっかりこいてねーで。」
そう言ったあと、蒼太は立ち上がった。
道場の床が、僅かに軋む。
「重たい防具つけて竹の剣ばっかり振ってても、刺さるもん刺さんねーから。」
そして、穏やかに笑った。
「一回くらい全部脱ぎ捨てて、真剣で勝負してみろよ」
その言葉を最後に、蒼太は背を向けた。
ゆっくりと、出口へ向かって歩いていく。
一歩。
また一歩。
その足音が、静まり返った道場へ小さく響いていく。
入口まで辿り着く。
蒼太は、そこで足を止めた。
ただ、三年間。
青春を捧げた、この道場を見渡す。
何度も叱られた。
何度も笑った。
何度も悔し涙を流した。
仲間と汗を流し。
試合へ向かい。
負けて。
勝って。
そして今。
その全てを、この胸に。
蒼太は静かに姿勢を正した。
そして。
スッ────。
深く、一礼した。
三年間の感謝を。
ここで過ごしたすべての日々へ。
言葉にはできないほどの想いを込めるように。
蒼太はそのまま、道場を出ていった。
ガラッ────。
扉が閉まる。
広い道場に、朔也一人だけが残された。
夕暮れの光が、少しずつ薄くなっている。
床へ伸びていた橙色の光も、いつの間にか細くなっていた。
朔也は、仰向けだった身体を起き上がらせた。
真っ直ぐ前だけを見つめている。
さっきまでとは、何かが違っていた。
胸の奥へ押し込めていたものが。
ずっと見ないふりをしていたものが。
蒼太の言葉によって、静かに引きずり出されてしまったようだった。
──好きな人を、真っ直ぐに。
その言葉が。
何度も何度も、頭の中で響いている。
朔也はゆっくりと目を閉じた。
そして。
胸の奥で、たった一人の少女の名前を思い浮かべる。
(…………ひな…)
誰もいない道場の静寂の中で。
その名前だけが、朔也の心の中で小さく落ちた。




