第185話 拾ってくれた、外したシュート
台車を押しながら、雫は体育館の入口へと近づいていく。
窓から差し込む夕陽が、磨かれた床を淡く橙色に染めていた。
その時だった。
ダン……ダン……
静まり返った放課後の体育館に、乾いたボールの音だけが規則正しく響く。
「……?」
雫は思わず足を止めた。
(誰かいる……?)
視線を奥へ向ける。
夕陽を背に、一人の男子生徒がバスケットゴールへ向かって跳び上がった。
シュッ──
放たれたボールが、美しい放物線を描く。
ガコンッ…!
リングを鳴らしながら、綺麗にネットを揺らした。
「……鷹井先輩っ!」
思わず声が漏れる。
「あ……小野さん!」
綾真は振り返ると、少し驚いたように目を丸くし、それから柔らかく笑った。
「こんなところで、一人で何してるんですか?」
雫が台車を押したまま近づくと、綾真は照れくさそうに後頭部を掻いた。
「担任に…明日、卒業式の会場設営するから、部室に残ってる私物は今日中に持ち帰れって言われて」
そう言って肩をすくめる。
「まだ置いてたんですか?」
「まぁ……こいつだけだけど!」
綾真は手にしていたバスケットボールを軽く持ち上げる。
夕陽を受けたオレンジ色のボールは、何度も手に馴染ませてきた証のように、ところどころ擦れて色が薄くなっていた。
指先でくるりと回すと、そのまま床へ落とす。
ダン、ダン…!
静かな体育館に、ドリブルのリズムが広がる。
綾真はゆっくりとゴールへ向き直った。
身体が自然と構える。
何千回、何万回と繰り返してきたフォーム。
もう考えるまでもなく、身体が覚えている。
シュッ──
ボールは高く弧を描き。
ガコンッ!
再びリングをくぐり抜けた。
「おぉ、ナイシュー!」
雫が思わず拍手すると、綾真は少し照れくさそうに笑う。
「…………3年間、青春を捧げたこのゴールに。」
ぽつりと呟く。
その視線はリングから離れない。
「もうシュートを打つこともないんだって思ったら……最後に打ちたくなった。」
小さく笑って息を吐く。
夕陽がリングを黄金色に染めていた。
卒業式を明後日に控えた体育館は、どこかいつもより広く、静かで。
その静寂が、終わりゆく高校生活を優しく包み込んでいるようだった。
綾真はもう一度ボールを受け取り、軽く膝を曲げる。
シュッ──
放たれたボールは、迷いなくリングへ吸い込まれる。
シャッ…!
ネットだけが柔らかく揺れた。
雫は感心したように目を輝かせる。
「スリーポイント、入れてくださいよ。」
その言葉に、綾真はふっと口元を緩めた。
「いいよ。」
そう言って、ゆっくりとスリーポイントラインまで歩いていく。
床へ引かれた白いラインの手前で立ち止まり、擦り切れたバスケットボールを胸の前へ抱えた。
夕陽が高窓から斜めに差し込み、二人の長い影を静かな体育館いっぱいへ伸ばしている。
綾真はゆっくりと息を吸い込んだ。
三年間。
何千回、何万回と繰り返してきた、この距離、この景色。
身体が自然と構える。
シュッ────
放たれたボールは、美しい放物線を描き──
ガコンッ……!
「あっ、げ!外した!」
綾真が思わず赤面する。
「あーっ、今の惜しかったですね!」
雫が思わず笑う。
「ちょ、今のカット!テイク2!」
「あははっテイク2ですか?」
「あ、今のは一旦記憶消してもらって。」
「ふふっ、いいですよ。」
二人の間へ、小さな笑い声が転がる。
綾真は苦笑しながらボールを拾い、再びラインへ戻った。
ダン……ダン……
静かな体育館に、規則正しいドリブルだけが響く。
もう一度、深く息を吸う。
シュッ────
今度はボールが真っ直ぐリングへ吸い込まれた。
シャッ……
ネットだけが、柔らかく揺れる。
「おおー!ブラボー!!」
雫が大きく拍手を送る。
「よっしゃー!」
綾真は少年みたいな笑顔で拳を握った。
二人の笑い声が、高い天井へ吸い込まれていく。
ほんの数日前まで、この学校であんな出来事があったことなど忘れてしまいそうなほど、穏やかな時間だった。
雫は、その横顔を静かに見つめる。
「鷹井先輩って………ほんと明るいですよね。」
綾真は照れくさそうに肩をすくめた。
「まぁね。暗くなるの苦手かも」
少しだけ笑って、ボールを指先でくるりと回す。
その言葉を聞きながら、雫は小さく笑った。
──そして、静かに俯く。
胸の奥で、ずっと引っ掛かっていた問いがある。
聞いてはいけない。
そう思うほど、その言葉は唇まで込み上げてきた。
「…………落ち込むこととかないんですか?」
綾真が振り向く。
「あんまないね。」
あまりにも躊躇のない即答だった。
その完璧な明るさに背中を押されるようにして、雫の唇から溢れ出た。
「………辛くなかったですか?…星野先輩と……別れた時。」
「……!」
空気が凍りついた。
夕陽の橙色が急に色あせ、体育館全体が息をひそめたかのような緊張感が走る。
それでも、雫は問いかけずにはいられなかった。
突然朔也から突きつけられた別れ。
受け止めることも、納得することも、許すことすらできないまま、立ち止まっている自分。
なのに、なぜこの人はこんなにも軽やかに立っていられるのか。
綾真はボールを抱え直すと、静かに答えた。
「辛かったよ。泣いたし。」
「……鷹井先輩が?」
思いもよらない言葉に、雫は思わず目を見開く。
「うん。自分でも情けないくらい。」
綾真は少し困ったように笑った。
夕陽が、その横顔を静かに照らしている。
「あの時は全然冷静になれなかったし、めちゃくちゃ落ち込んだ。」
その言葉を聞いた瞬間。
雫の胸が、小さく痛んだ。
この人でも。
こんなに明るく笑っているこの人でも。
ちゃんと傷ついて、泣いて、苦しんでいたんだ。
「…………どうやって……」
まるで縋るような、震える声。
雫のその瞳は、あまりにも痛々しかった。
「どうして……また笑えるようになったんですか……?」
その問いは、答えを知りたいというより。
“私も、また笑えるようになりますか”
そう尋ねているようだった。
救いを求めるその問いに、綾真は答えを探すようにゆっくりと天井を仰いだ。
「うーん……」
困ったように小さく笑う。
「正直、よく分かんないけど。」
その時、不意に裏庭で泣き崩れていた雫の姿が綾真の脳裏へ浮かんだ。
裏庭の湿った土の上で、膝を抱えて泣き崩れていた雫の姿。
かける言葉も見つからず、ただ小さく震える姿を見つめることしかできなかった、あの日。
あの時の涙の意味を知っている。
その痛さも、今の自分にはわかる。
だからこそ──綾真は何も言わず、静かにボールを構え直した。
シュッ────
再び放たれたスリーポイントシュート。
ガンッ!
「あっ…くそ!」
リングを弾かれたボールは、大きく跳ね返り、そのまま雫の方へ飛んでくる。
パシッ!
反射的に両手が伸びる。
雫はしっかりとボールを受け止めていた。
「おぉ!ナイスキャッチ!」
綾真が嬉しそうに笑って。
そのまま駆け出し、ゴール下へ潜り込む。
「シュート!」
「えっ、私ですか!?」
「うん!」
雫は戸惑いながらも、両手でボールを持ち直した。
小さく膝を曲げる。
シュッ──
離れたボールは、ぎこちない軌道を描いて空中を舞った。
届いてほしい、という身勝手な祈りを乗せて。
ガンッ!
「あっ……」
願いも空しく、ボールは無情にもリングの前足に弾かれた。
やっぱり自分には、届かない──そんな諦念が胸を掠めた、その瞬間だった。
パシッ。
影が踏んだ。
ゴール下で待ち構えていた綾真が、落ちてくるボールをしなやかな手つきで完璧に掴み取る。
一連の動作のまま空中へ跳躍し、高く、美しく腕を振り抜いて──ジャンプシュート。
ガコンッ──
ネットが静かに揺れた。
ほんの一瞬。
まるでスローモーションのように。
時間だけがゆっくり流れたような気がした。
「……っ」
トクン──
雫の胸の奥で、小さく。
けれど抗いようのない確かな鼓動が跳ねた。
綾真はボールを抱えたまま、ゆっくりと雫の方へ歩み寄ってくる。
高い高窓から差し込む夕陽を背に受け、そのシルエットは眩しいほどに光を纏っていた。
「…………ゴールを外したシュートを」
静かな声が、体育館へ溶けていく。
「誰にも拾ってもらえないボールなんて、存在しないよ。」
雫は息を止め、言葉を失った。
あの日、裏庭で見つけた一人ぼっちのバスケットボール。
冷たい地面を転がるだけだと思っていた自分の感情を──この人は、いま目の前で拾い上げてくれたみたいだった。
綾真は柔らかく笑う。
「きっと、また笑えるようになれるから。」
その笑顔は、西の空を染めるどんな夕陽よりも温かく、あまりにも眩しかった。
「…………っ。」
ずっと冷たく固まっていた胸の奥の何かが、パチンと小さな音を立ててほどけていく。
朔也に別れを告げられてからずっと張り詰め、息の詰まるようだった心へ、柔らかな温もりが一気に流れ込んできた。
溢れそうになる感情を抑えきれず、雫の瞳から、ポロポロと静かに涙がこぼれ落ちた。
この前、彼からLINEのメッセージが届いた時。
スマホの画面に映し出された文字を、何度読み返しただろう。
画面に並ぶ一文字一文字を見つめるたび、胸の奥がじんわりと熱を帯びていった。
“刑事さんから話があったけど、ものすごく心配してる”
”雫がもし必要なら、俺が側にいるから。気にせず頼ってほしい”
”俺に出来ることがあれば、何でも言って”
たった数行の文章。
それだけなのに。
画面が滲んで読めなくなるほど、涙が溢れた。
嬉しかった。
胸が痛くなるくらい、嬉しかった。
きっと、あの時。
私が「会いたい」と一言だけ送れば、彼は迷わず駆けつけてくれただろう。
「抱きしめて」と言えば、何も言わずに優しく抱きしめてくれたはず。
「側にいて」と願えば、その温もりを失わないように、ずっと隣にいてくれた。
彼は、そういう人だから。
誰かが困ってたら放っておけなくて。
助けを求めている人がいたら、自分の事なんて考えずに手を差し伸べてしまう人だから。
道場の前で、初めて出会ったあの日も。
電車が止まって、バス停まで送ってくれたあの日も。
そうやって、私を助けてくれたから。
だから私は、知ってる。
あの言葉に嘘なんて一つもないことを。
縋りつきたかった。
また彼と一緒に過ごせる日々を再び取り戻せるなら、その温もりに溺れてしまいたかった。
何もかも忘れて彼に甘え、壊れてしまったあの頃の日常を、歪な形でもいいから繋ぎ止めたかった。
でも。
朔也くんが、星野先輩のことが好きだという事実までは変えられない。
どれだけ願っても。
どれだけ涙を流しても。
それが、あまりにも残酷な現実なのだから。
彼はきっと、この事件を自分の責任だと思ってる。
自分と付き合っている頃に、私に危機が及んでいる事に気づけなかったことを。
あの日、自分があの手紙のきっかけになってしまったことを。
恐らく彼のことだから。
押し潰されそうになりながら、何度も何度も自分を責め続けている。
そんな罪悪感に苛まれ、申し訳なさからあのメッセージをくれたんだ。
そんな罪悪感と引き換えに、表面上だけの「彼」を自分の手元に繋ぎ止めたとして──そこに何が残るというのだろう。
差し出された手は、愛情ではなく哀れみで。
重なる視線は、恋ではなく同情で。
側にいてくれる時間は、彼なりの償いに過ぎない。
そんなの、なんて虚しいのだろう。
彼のことが、本当に大好き。
心から彼を愛しているから。
嘘の温もりで、彼を縛り付けたくなんてない。
私は、ちゃんと諦めないと。
それが、彼の未来を守るための道だから。
そして、泥沼の中でもがく自分を許してあげるための、唯一の術だから。
もう、解放してあげるね。
私という重たい鎖から、ちゃんとあなたを自由にしてあげるから。
溢れ続ける涙を静かに拭いながら、雫は胸の奥で、小さく、けれど確かに、その決意だけを抱き締めた。




