第106話 ついに来た!恋の大大大革命!
朔也は、まだ呆然としている陽向の手首を、ぐいっと無造作に掴んだ。
「ひな、行くぞ。」
低い声。
振り返りもしないまま、そのまま歩き出す。
陽向は半ば引っ張られるみたいに足をもつれさせながら、その背中を追いかけた。
背後では、りことなぎさが、まだ信じられないものを見るみたいな顔であんぐりと固まっている。
雨上がりの夕暮れ。
湿った風が、二人の間を吹き抜けていく。
濡れたアスファルトが、オレンジ色の街灯をぼんやり滲ませていた。
駅前の喧騒を抜けるたび、人の話し声や車の走行音が、少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
その中を。
朔也は、陽向の手を引いたまま、黙って歩いていく。
怒っている。
陽向には、それがわかった。
「……ちょっと……どーすんの……」
ようやく絞り出した声は、情けないくらい掠れていた。
「……あんなこと言って……同級生達に、朔也がなに言われるか……」
「どうせ、もう関わんねーだろ。」
朔也は、歩く速度を緩めない。
ぶっきらぼうな返事。
その横顔は、相変わらず不機嫌そうだった。
「だからって、なんでいきなりあんな嘘つくの!」
陽向の声は、強くなる。
朔也は、そんな陽向を一瞥もしないまま言った。
「イラついたから。」
「……は?」
低い声が、湿った夕暮れの空気へ落ちる。
「“星野陽向”の名前が出た途端、コロッと態度変えやがって。ムカつくんだよ、そーゆうの。」
その瞬間だった。
陽向の胸の奥へ、遠い記憶がふっと蘇る。
────────。
小学六年生。
それは、中学という新たな世界へ向かう空気と、まだ子どもの残酷さが、同じ教室の中に混ざっていた時期だった。
その日の六時間目は、委員会決めの学級活動だった。
黒板には、大きな字で各委員会の名前が並べられている。
『学級委員』
『集会委員』
『図書委員』
『放送委員』
『体育委員』
『保健委員』
その下へ、自分の名前が書かれた小さな磁石を貼っていく方式だった。
教室中は、ざわざわと賑やかだった。
「ねー!一緒にやろー!」
あちこちで笑い声が飛び交う。
教室内で、仲の良い友達同士で輪になる生徒たち。
“誰と一緒か”。
それが、委員会を決める一番大事な理由みたいだった。
そんな空気の中で。
陽向だけは、当然のように一人ぼっちだった。
誰とも目を合わせないように。
なるべく存在感を消すみたいに、静かに席へ座っている。
陽向は、小さく視線を上げる。
黒板の前には、まだほとんど名前が貼られていない委員会がいくつかあった。
その中のひとつ。
『図書委員』
胸の奥が、少しだけ落ち着く響きだった。
だから陽向は、自然とそこへ目が向いていた。
その時だった。
「図書委員とかは?」
女子グループの一人が、黒板を見ながら言った。
「人気なさそうじゃない?」
「やりたい人少なければ、うちらみんなでなれそうじゃん」
「確かに!」
楽しそうな笑い声。
3人の女子達が、連れ立って黒板へ向かう。
そして、ぱちん、ぱちん、と。
『図書委員』の下へ、自分達の名前の磁石を並べていった。
その光景を、陽向はぼんやり見つめていた。
図書委員。
もし人数が少なければ、自分もなれるかもしれない。
静かな図書室。
本の匂い。
昼休みに、一人でいても怒られない場所。
陽向は、そっと立ち上がる。
教室のざわめきの中を、誰にも気づかれないように歩いていく。
小さな磁石を握りしめたまま。
そして——
『図書委員』
その下へ、静かに。
“星野陽向”と書かれた名前を置いた。
カチ、と。
小さな音が鳴る。
その瞬間だった。
「え、最悪なんだけど………」
空気が、変わった。
“星野陽向”の名前を見た瞬間。
ついさっきまで笑っていた女子達の顔から。
“コロッと手のひらを返したように”。
スン…と笑みが消えていく。
「うわ……」
「変えない?」
「……うん、そうしよ」
まるで、“汚いもの”でも見たみたいな声だった。
パチン。
パチン。
さっき置いたばかりの磁石が、あっさり別の委員会へ移されていく。
図書委員の欄に残ったのは——
“星野陽向”の名前だけ。
教室のざわめきは、何事もなかったみたいに続いている。
誰かの笑い声。
椅子を引く音。
先生の声。
その全部が、急に遠くなった。
陽向は、黒板を見つめたまま動けなかった。
胸の奥が、じわじわ冷えていく。
あぁ……またか。
自分の名前から、みんな離れていく。
まるで、“星野陽向”という存在そのものに、触れたくないみたいに。
陽向は、小さく唇を噛んだ。
何も言わない。
言えない。
そんな事くらい、もう慣れていた。
傷ついてないふりも。
平気なふりも。
もう、ずっと前から上手だった。
けれど。
ぽつん、と黒板に一人だけ取り残された自分の名前が、やけに大きく見えて。
陽向は、俯いた。
クラス全員が、それぞれ希望の委員会へ磁石を貼り終え、席へ戻っていった。
人気の委員会には、ぎゅうぎゅうに集まった磁石。
担任は黒板を見上げながら、困ったように頭を掻く。
「んー……結構人数偏ってるなぁ」
教室の空気が、少しだけざわついた。
誰かと同じ委員会になれるか。
人気の委員会へ入れるか。
子ども達にとっては、それだけで十分大きな問題だった。
担任は出席簿を片手に、教室を見渡す。
「誰か、人数足りないところへ移動してもいい人はいませんか?」
教室が、シン……と静まり返った。
「「「…………………。」」」
誰も先生と目を合わせない。
机へ視線を落とす子。
友達同士で小さく顔を見合わせる子。
聞こえないふりをするみたいに、筆箱をいじる子。
当然だった。
わざわざ“外れ枠”へ行きたい人間なんて、誰もいない。
担任は、少し困ったように息を吐く。
「………誰もいないようであれば……もう授業の時間終わるので、放課後にジャンケンか、くじ引きをします。」
その言葉が落ちた瞬間。
空気が、ざわっ……と濁った。
「はぁ?居残り?」
「えー……最悪。」
「なんであいつのせいで……」
「無理なんだけど。」
ヒソヒソ声。
でも、全部聞こえていた。
陽向は、ぎゅっと膝の上で手を握る。
自分のせいだ。
自分が、図書委員なんかに名前を置いたから。
自分がいるから、みんな嫌がる。
胸の奥が、じわじわ冷えていく。
消えたい。
今すぐ、この教室から。
そう思った、その瞬間だった。
スッ……
静まり返った教室の中で、一人の手が上がった。
「俺。いいすよ。」
教室の後ろの席。
気怠そうに椅子へ座ったまま、片手を上げていたのは
——朔也だった。
クラスの空気が、一瞬ざわつく。
朔也は、だるそうに頬杖をついたまま言った。
「4時からネッ友とオンラインゲームの約束してるんで。まじで居残りとか無理。」
ぶっきらぼうな声。
面倒臭そうな態度。
まるで、“自分が早く帰りたいだけ”みたいな言い方だった。
それでも。
「………!」
陽向にはわかった。
学校では、ほとんど口なんてきかない。
教室では、まるで他人みたいな距離感。
でも。
家に帰れば。
陽向が泣いていたら、無言でアイスを置いていくのも。
嫌な事があった日は、何も聞かずに“暇だから”と言って、ゲームへ誘ってくれるのも。
その不器用な優しさを、陽向だけは知っていた。
そして——
朔也は、教室の中心にいる男子へ視線を向ける。
「おい、蓮悟。」
名前を呼ばれた男子が顔を上げた。
クラスの人気者。
誰とでも話せて。
笑顔の中心にいるような男子だった。
朔也は、口の端を少しだけ吊り上げる。
「親友の俺が、“居残りしたくねぇ”って困ってるぞ。」
教室の空気が、少しだけ緩む。
「そんな時に、親友であるお前は、どーゆう行動を取る?」
その言い方は、半分ふざけているみたいだった。
けれど。
“親友”と呼ばれた蓮悟は、嬉しそうに笑った。
「はいはい。」
ガタ、と椅子を引く。
「ったく、しょーがねぇな。」
そのまま立ち上がり、黒板へ向かう。
教室中の視線が集まる中。
蓮悟は、何の迷いもなく。
ぎゅうぎゅうに名前が引き締め合う委員会の下から、自分と朔也、二人の磁石を掴み——
パチン。
パチン。
『図書委員』の下へ貼り直した。
その瞬間だった。
「え、蓮悟と朔也そっち行くの?」
「だったら俺もそっち行こうかな」
「じゃあ……私もそうしようかな」
空気が、変わった。
さっきまで、“ハズレ枠”だった場所へ。
ぱちん、ぱちん、と。
次々に磁石が増えていく。
笑いながら移動する男子。
友達同士で「じゃあうちらも図書でよくね?」と話し合う女子。
あっという間に、『図書委員』の欄は人数で埋まっていった。
陽向は、呆然と黒板を見つめていた。
さっきまで。
自分の名前が置かれた瞬間に、みんな離れていった場所。
そこへ今、たくさんの名前が並んでいる。
その光景が、信じられなかった。
そして。
教室後ろの席。
頬杖をついたまま、「だりぃ〜」みたいな顔をして天井を見上げている朔也を見る。
陽向の胸の奥で。
凍っていた何かが、じんわり溶けるみたいに、少しだけ温かくなった。
────────。
あの日、“もしかして……”と思った出来事の、答え合わせをされた気がした。
やっぱり、そうだったんだ。
さっきの朔也の言葉が、頭に蘇る。
(星野陽向”の名前が出た途端、コロッと態度変えやがって。ムカつくんだよ、そーゆうの。)
朔也は、ずっと前から。
いつだって、そうやって。
誰にも気づかれないように。
助けたなんて顔もせずに。
まるで、自分がそうしたかっただけみたいな態度で。
何でもないふりをして、私の事を守ってくれていた。
繋がれた手が、熱い。
指先から伝わる体温が、じわじわと腕を伝って胸の奥まで侵食してくるみたいだった。
その熱だけが、妙に現実感を持っていて。
“彼女”。
“世界一可愛い”。
さっき耳元へ落とされた言葉達が、まだ心臓の奥で熱を持ったまま消えてくれない。
ドクン。
胸が、大きく脈打つ。
抱き寄せられた瞬間の感触が、体温が、まだ身体に残っていた。
制服越しに押し当てられた硬い胸板。
肩を包み込む腕の重さ。
雨上がりの湿った空気の中でふわりと香った、柔軟剤の匂い。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
(……なんで…………)
陽向は、自分の鼓動の大きさに気づいてしまう。
耳の奥がうるさい。
呼吸のリズムまで、おかしくなっている。
(…こんな……朔也なんかに……!)
混乱したまま、少し前を歩く背中を見つめる。
無造作に揺れる黒髪。
広い肩。
ぶっきらぼうで、口が悪くて、いつも偉そうで。
なのに。
苦しい時だけ、必ず隣にいる。
(…ありえない心臓の動きになってんのっっっ!!??)
自分の身に起きている事が、理解できない。
だって朔也は、物心ついた頃から隣にいて。
喧嘩して、悪態ついて、くだらない事で言い争って。
そんなろくでもないような相手なのに。
さっき抱きしめられた瞬間から、全部がおかしい。
指先が熱い。
耳が熱い。
胸が、壊れそうなくらいうるさい。
そして——
「朔也……っ……あのさ……」
背後から聞こえた陽向の声は、困ったみたいに小さく震えていた。
朔也は、歩きながら小さく眉を顰める。
“キショい”
“彼女とかありえない”
“冗談でも無理”
どうせ、そんないつも通りの文句が飛んでくるんだろうと思った。
だから朔也は、振り返りもしないまま、背中越しに不機嫌そうな声を返す。
「あ?」
その瞬間だった。
ぎゅっ——
繋いでいた手へ、陽向の指が強く握られて。
思わず、驚いて振り返った。
「……っありがとう。」
掠れたその声は。
朔也が小学校の頃からずっと。
何気ないふりをして積み重ねてきた全部へ、ようやく届いた“答え”みたいだった。
「っっっ!!??」
朔也の思考が、一瞬で真っ白になった。
(な……っ……!?)
振り向いた朔也の視線の先。
真っ赤になった顔。
困ったみたいに寄せられた眉。
涙を滲ませたまま揺れる瞳。
ピシャーーーーーーーーンッッッ!!!!
朔也の脳内へ、盛大に雷が落ちた。
(はっっっ!?!?!?!?)
なになになに。
待て待て待て待て。
ちょっと待て。
何が起きた???
想定外過ぎる陽向の様子に、大パニック。
なんで。
この俺に。
友達以下。
家族以下。
俺に会う時、風呂すら入らない。
もはや空気とか家具とか、そのレベルの雑な扱いをされ続けてきた、この俺に対して。
(ひなが……照れてるだとーーーーーー!!??)
朔也は、完全に硬直した。
繋がれた手だけが、やけに熱い。
陽向の指先は、まだぎゅっとこちらを握っていて。
離したくないみたいに、微かに震えている。
そのくせ本人は。
そわそわと。
視線をあっちへ泳がせたり。
こっちへ逸らしたり。
落ち着かないみたいに、もじもじしていた。
耳まで真っ赤だ。
(なんだその可愛すぎる表情と仕草はーーーーーーー!!!!)
ドッカーーーーーーーーンッッッ!!!!!!
朔也の脳内が、大爆発していた。
今、目の前にいる陽向は。
完全に、“THE、乙女。”の顔をしている。
(…………来た。)
朔也の胸の奥で、何かが確信へ変わる。
ずっと。
ずっとこの瞬間を、待っていた。
どれだけ隣にいても。
どれだけ守っても。
どれだけ特別扱いしても。
こいつの中で自分は、“幼馴染み”という雑なポジションから一向に昇格しなかった。
なのに、今。
ついに。
ついに。
ついに俺を、異性として意識しやがった!!!!!!
その事実が、朔也の理性をぶん殴る。
今すぐ抱きしめたい。
頭を撫で回したい。
もう付き合っていいかな。
いやまだ早いか。
朔也は、必死に全部飲み込んだ。
喉が焼けそうなくらい熱い。
それでも、どうにか平静を装って。
「……お、おう。」
絞り出した声は、自分でも驚くくらい掠れていた。
そして。
繋いだ手だけは、絶対に離さないまま。
二人は、また並んで歩き出す。
雨上がりの道。
湿った風。
街灯の光。
その全部が、さっきまでとは違って見えた。
(来た。……来た、来た、来た。)
朔也の心の中で、クラッカーが鳴り響いていた。
(これ……まじで………剣道大会勝ったら……)
革命。
歴史的瞬間。
記念日制定レベル。
(ワンチャン……ガチでワンチャンあるんじゃね……?)
朔也は、陽向と繋いでいない方の手を、そっと制服の影へ隠す。
そして。
気づかれないように、小さく。
グッ… ────
ガッツポーズをした。




