第107話 生徒会長って、どんな人?
その日の夜。
陽向は、自室のベッドへ仰向けに倒れ込んだまま、ぼんやりと天井を見つめていた。
部屋の電気は消してある。
カーテンの隙間から差し込む街灯の薄い光だけが、天井へ淡く滲んでいた。
静かだ。
なのに、胸の奥だけが、全然静かじゃない。
布団へ沈み込んだまま、陽向は小さく息を吐く。
けれど次の瞬間——
不意に、耳の奥で朔也の声が蘇った。
(世界一可愛い、俺の彼女なんで。)
ドキッ───
「〜〜〜〜〜っっっ!!!!」
陽向は、勢いよくガバッ!!と飛び起きた。
そのまま、手近にあった枕を掴み。
「ドキッてなんじゃーーーーーーいっっっ!!!!」
ボフッ!!!!!!
全力で壁へ投げつける。
跳ね返った枕が、ベッドの端からぽてっと床へ落ちた。
「はぁ…っ……はぁ…っ……はぁ……」
乱れた呼吸。
熱い。
耳まで熱い。
ありえない。
なぜだ。
不覚にも。
よりによって。
いくらなんでも。
朔也なんかに……………。
(なぜだーーーーーーーーーーっ!!!)
陽向は、頭を抱えて再びベッドへ突っ伏した。
顔をシーツへ埋める。
あんなの。
ただ、その場の勢いだ。
りことなぎさへイラついて。
朔也が、咄嗟についた“嘘”。
たかが、それだけ。
それなのに。
なんで、あんなに心臓が跳ねたのか。
なんで、抱き寄せられた瞬間、息が止まりそうになったのか。
自分で、自分が信じられなかった。
「…………末期だ……。」
ぽつり、と。
絶望みたいな声が漏れる。
これまで、俊ちゃんと過ごした一年間。
優しく抱き締められるたび。
頭を撫でられるたび。
穏やかな声で名前を呼ばれるたび。
胸がきゅうっと苦しくなって。
幸せで。
泣きたくなるくらい、ときめいて。
そんな毎日を、ずっと繰り返してきた。
だからきっと——
完全に、ロスだ。
「……私、よっぽど寂しいんだろうな……」
陽向は、ぼんやり呟く。
きっと今なら。
全世界の男子にドキドキする自信がある。
あの、朔也なんかにそうなるくらいなんだから。
陽向は、再びベッドへ仰向けになった。
スプリングが小さく軋む。
天井を見上げる。
暗い部屋。
静かな夜。
その静けさの中で、胸の奥が、きゅう……っと痛くなった。
「俊ちゃん…………」
空気へ、小さな声が溶ける。
胸板も。
体温も。
頭を撫でる大きな手も。
朔也の腕が。
俊輔のものへ上書きされる。
柔軟剤の匂いが。
俊輔の穏やかな香りへ溶けていく。
寂しい。
その気持ちだけが、静かな夜の中で、どうしようもなく浮かび上がってくる。
「……会いたいな……………」
ぽつりと零れたその声は。
まるで、行き場を失くした恋心の残響みたいに、静かな天井へ消えていった。
────────。
そして——
今日は遂に訪れた。
総選挙を勝ち抜いた、新役員達が初めて正式参加する、今年度最初の役員会議の日。
窓の外では、六月の柔らかな午後の陽射しが、校舎のガラスへ淡く反射している。
昼間まで降っていた雨のせいか、湿った風が少しだけ窓の隙間から入り込み、カーテンをゆるやかに揺らしていた。
先輩役員達が自然体で座っているのとは対照的に、新役員達はどこか背筋が硬かった。
雫も、その一人だった。
(うぅぅぅぅ…………緊張するぅ…………)
膝の上へ揃えた手を、そっと握りしめる。
制服のスカート越しに感じるパイプ椅子の冷たさ。
自分の心臓の音ばかりが、やけに大きく聞こえた。
向かい側では、新役員の生徒が、必要以上に何度もノートの位置を整えている。
隣の生徒も、さっきからずっとシャーペンをカチカチ鳴らしていた。
みんな緊張している。
“生徒会役員”。
その肩書きの重さを、今さらみたいに実感している。
そんな中。
新役員達の視線は、ある一点へ何度も吸い寄せられていた。
生徒会室の壁。
歴代文化祭写真や行事ポスターの間へ、何故か当然のように貼られている、一枚の紙。
『星野陽向を信用するな!星野陽向に気をつけろ!』
あまりにも強烈な文言。
しかも、やけに達筆。
明らかに“ネタ”っぽいのに。
なのに、生徒会室の誰も、それを剥がそうとしていない。
むしろ——
歴代の伝統みたいな顔で、堂々と掲げられている。
(……ネタじゃなくて……結構ガチなのかな…)
雫は、チラ……チラ……と視線を向ける。
けれど気になるとは言えない。
だって。
現役役員達は誰も突っ込まないし。
新役員達もみんな、“気になるけど触れていいかわからない”みたいな顔をしていた。
妙な沈黙。
“星野陽向”と言えば——
言わずと知れた、聖陵国際高校の生徒会長だ。
全校集会では壇上の中心に立ち。
校内を歩けば、あちこちから名前を呼ばれ。
誰より騒がしくて。
誰より目立っていて。
まるで、学校という世界そのものの“中心”にいるみたいな人。
そして——……
雫の脳裏へ、選挙期間中の朝の光景がふっと蘇った。
────────。
五月の朝。
まだ少しだけ肌寒さの残る空気の中、学校の正門前には、選挙活動を行う立候補者達の声が飛び交っていた。
「おはようございまーす!」
「小野雫に、みなさんの清き一票をよろしくお願いしまーす!」
「あなたの推しにして下さーい!」
「ちょ、ちょっとまどか…!推しってなに…っ!」
隣で元気いっぱいに叫ぶ推薦責任者の友達へ、雫は真っ赤になりながら抗議する。
朝日を受けた校門前は、キラキラ眩しかった。
登校してくる生徒達。
笑い声。
自転車を押す音。
グラウンドから聞こえる運動部の朝練の声。
その中で、雫は必死だった。
配っていたチラシを、ぎゅっと握り直したその瞬間だった。
「…………っ!」
雫の心臓は飛び跳ねる。
(…黒川先輩……だ………)
視界の先。
制服を少し着崩した姿。
無造作な黒髪。
片手をポケットへ突っ込んだまま歩く、どこかだるそうな雰囲気。
初めて出会った、あの日。
柔道部の男子達の輪へ無造作に割って入り「散れ。」
と低い声を落とした時と同じ空気。
胸の奥が、きゅうっと熱くなる。
(……今日も……かっこいいなぁ〜………)
雫は、思わず見つめてしまう。
しかし。
その隣には。
(…え……………)
雫の呼吸が、止まった。
黒川先輩の隣。
明るい笑顔を弾けさせながら、楽しそうに何かを話している。
ころころ変わる表情。
屈託のない笑い声。
距離が、近い。
あまりにも自然に。
まるで、“隣にいる事が当たり前”みたいな空気で並んで歩いている。
肩がぶつかるくらい近い距離感。
黒川先輩も、その女子生徒へ向ける空気だけは、どこか無防備だった。
あれは──
雫の視線が、ゆっくりその女子生徒の顔を捉える。
朝日を浴びた横顔。
見覚えがあった。
星野…生徒会長………?
その瞬間だった。
雫の脳裏へ、あの時聞いた、蒼太と朔也の会話が蘇る。
(んな事言って。大好きなくせによ)
(うるせぇな!今関係ねぇだろ!)
目の前の光景と、その言葉が、頭の中でゆっくり繋がっていく。
黒川先輩の彼女って、もしかして。
胸の奥が、ひやりと冷える。
さっきまで熱かった場所へ、静かに雨水が流れ込むみたいに。
星野生徒会長だったの…………?
生徒会長。
人気者。
学校中の中心にいる人。
誰とでも笑って話せて。
みんなに囲まれて。
太陽みたいに眩しい人。
そんな人が、黒川先輩の隣にいる。
雫は、そっと視線を落とした。
そんな凄い人が、彼女だなんて。
勝てるわけないよ。
自分なんかじゃ。
黒川先輩の隣に並ぶには、あまりにも相手が凄すぎる。
(さすが……黒川先輩だな…………)
胸が、少しだけ痛い。
でも不思議と、“納得”してしまう気持ちもあった。
だって。
黒川先輩は、あまりにも格好良くて。
優しくて。
頼れて。
真っ直ぐで。
そんな人の隣にいるのが、生徒会長みたいな“特別な人”なのは、どこか自然に思えた。
その時。
「小野さん!頑張ってねー!」
通り過ぎる生徒が笑いかけてくれる。
雫は、ハッと顔を上げた。
「あっ、雫たんだ!」
「雫たーん!絶対投票するからねー!」
「は、はいっ!ありがとうございます……!」
慌てて頭を下げる。
そして。
もう一度だけ、遠くを見る。
アプローチ広場の向こう。
黒川先輩と、星野生徒会長。
二人はもう、生徒達の流れへ紛れるように校舎へ向かって歩いていた。
(…………もしも……)
雫は、小さく胸の奥で思う。
黒川先輩の彼女が生徒会長なら。
もし、自分が生徒会役員になれたなら。
生徒会長の近くにいれば。
黒川先輩と、少しだけ関わる機会が持てるかもしれない。
でも。
(………ちょっと…………生徒会長と気まずいかも…………)
そもそも私、只のファンだし。
仲良くなりたいなんて。
近づきたいなんて。
そんなの、おこがましい。
遠くから見ているだけでいい。
憧れるだけでいい。
それだけで、十分だから。
雫は、胸の奥の小さな痛みを隠すみたいに、ぎゅっとチラシを握り直した。
────────。
役員会議開始前の生徒会室。
雫は再び、張り紙に視線を投げた。
じわじわと、気になってくる。
(…………。)
気になる。
ものすごく、気になる。
なのに。
誰も突っ込まない。
先輩役員達は普通にしてるし、新役員達も“見えてるけど見えてないふり”をしている。
その空気が、逆に怖かった。
(……“気をつけろ”って………なにに…?)
星野生徒会長って…
あー見えて、実は怖い人なのかな…
全校生徒の前では、明るく笑ってるように装っていて、実は役員達の前では独裁者…?
じわ……っと、嫌な想像が膨らんでいく。
機嫌を損なわせないように気をつけろ…?
張り紙にしてるくらいだから…
星野生徒会長に気をつけないと……殺される…?
(ひぇっ……)
雫の肩が、小動物のようにぶるっと小さく震えた。
(え、でも……“信用するな”って……なに……?)
雫の脳内で、どんどん意味不明な妄想が加速していく。
自分で考えておきながら、自分で怖くなった。
じわじわ不安が広がっていく。
膝の上で握った手へ、汗が滲んでいた。
(どうしよう……)
せっかく総選挙に当選したのに。
ずっと憧れていた生徒会役員になれたのに。
初日で……もう帰りたい。
その瞬間。
ガラッ——
生徒会室の扉が開いた。
空気が、ピタリと止まる。
新役員達が、一斉に入口を見る。
雫も、ビクッと肩を揺らしながら顔を上げた。
「ちーっす!」
勢いよく響いた声と同時に現れたのは。
肩からスクールバッグ。
片手にパソコン。
もう片手に、蓋付きカップのドリンクを乗せたトレー。
両手が塞がっているせいで、扉を足で押し開ける——
なんともお行儀の悪い、生徒会長。
「カフェテリア寄ってて遅くなったー!もっちーまだ来てない?」
悪びれる様子もなく、陽向はそのまま部屋へ入ってくる。
その後ろから、同じようにドリンクの乗ったトレーを持った相田桜子が続いた。
「いやー新人ちゃんがさ!今日から来ると思って。初日だから緊張してんだろうなーと思ったから、リラックス出来るようにカフェテリアでみんなにコーヒーとオレンジジュース買ってきたんだけど!」
陽向は入室早々、怒涛のマシンガントークを炸裂させる。
さっきまで部屋の中には、新役員を迎える前の、どこかそわそわした静けさがあった。
そこへ、まるで静かな水面に、勢いよく石を投げ込まれたみたいに。
生徒会室全体が、陽向の声と動きに巻き込まれていく。
「優音ちゃんコーヒー飲めなかったよね?新人ちゃんで他にコーヒー飲めない子いるかな?最初コーラにしようかと思ったんだけど、ワンチャン炭酸苦手な子いたら詰むやん!ってなったからオレンジジュースにしたんだよね。オレンジジュースも飲めないって子は流石にいないよね?」
言葉が止まらない。
思いついたことを、そのまま口に出しているみたいな勢い。
陽向が騒がしく喋り倒している傍らで、相田桜子はもう慣れた様子だった。
“いつもの事。”のような気にしない素ぶりで、何でもないように自分のトレーから役員達へドリンクを配り始める。
その時だった。
「そんでさー!聞いてよ!カフェテリア行ったらめっちゃウケんのがさー!」
陽向はなおも喋り続けながら、夢中でよそ見をしたまま一歩踏み出した。
次の瞬間。
ガッ!!
足先が、机の横に出ていたパイプ椅子の脚に引っかかった。
「……っ!」
陽向の身体が、ぐらりと前へ傾く。
片手にはパソコン。
もう片手には、ドリンクの乗ったトレー。
一瞬だけ、生徒会室の時間が止まった。
そして——
ガシャーーーーーーー!!!!
机の上に、ぶち撒けた。
派手な音が、部屋中に響き渡る。
蓋付きカップが倒れ、机の上を転がる。
紙資料の端へ、じわりと液体が広がっていく。
オレンジジュースの甘い匂いと、コーヒーの苦い香りが、最悪の形で混ざり合った。
「ギャーーーーー!!!!」
陽向の悲鳴が、生徒会室へ盛大に響き渡る。
「パソコン!パソコンだけ先に避けて!!」
「キャー!資料がー!」
「コピー控え、予備あります!」
「ぞうきんとモップ持ってくる!」
ほんの数分前まで。
“今日から新体制”というその空気に、どこか新役員たちの静かな緊張が漂っていたはずの生徒会室は——
一瞬で騒然とした。
陽向は半泣きでトレーを抱えたまま、その場でオロオロしている。
そんな“元凶”とは対照的に。
役員達は、一切無駄のない動きで、それぞれ即座に行動を開始していた。
指示なんて、誰も出していない。
それでも全員が、“今、自分が何をすべきか”を自然に理解して動いていた。
普通なら、もっと混乱する。
誰かが固まって。
誰かが「どうしよう」と叫んで終わる。
でも、この生徒会は違う。
“星野陽向がやらかす”事を前提として、一年間鍛え上げられてきた組織だった。
まるで何度も何度も、同じ災害を乗り越えてきた精鋭部隊みたいに。
(((………………。)))
固まるしかない、新役員達。
その光景は、ある意味で異様だった。
そして。
「星野ーーーーーーーーっっっ!!!!!!!!」
三年生副会長、横溝琉嘉の怒号が炸裂した。




