第182話 苦しいくらい憎い人、壊れるほどに愛しい人
「付き纏い、盗撮、窃盗、暴行、強姦未遂……」
重苦しい沈黙が支配する職員室に、陽向の低く震える声だけが響いた。
次の瞬間。
バンッ!!
机を叩く鋭い音が部屋中へ鳴り響く。
「……即刻、退学にしてくださいっ!!」
怒りで肩を震わせながら、陽向は職員たちを真っ直ぐ睨みつけていた。
その机の上には、門倉のリュックから押収された物が、ひとつ、またひとつと並べられている。
透明なジップロックの中に密封された────
下着。
靴下。
飲みかけだったペットボトル。
食べ終えたお菓子の包み紙。
使用済みの汗拭きシート。
どれも、雫の私物だった。
職員室の空気が重く沈む。
誰一人として言葉を発することができない。
それらは単なる”盗品”ではなかった。
誰にも知られない場所で、少しずつ、少しずつ奪われ続けていた日常。
積み重ねられた執着の証だった。
雫は椅子へ座ったまま、その押収品をぼんやりと見つめていた。
瞳は開いている。
けれど、何も映していない。
耳には職員たちの声が聞こえているはずなのに、言葉として頭へ入ってこない。
思考が、止まっていた。
(一学期……。)
脳裏へ、忘れかけていた出来事がゆっくり浮かぶ。
水泳の授業の日。
更衣室で制服へ着替えようとした時。
(……あれ?)
靴下がない。
下着もない。
クラスメイトと一緒になって必死に探した。
結局見つからず、誰かのいたずらかな…で終わった出来事。
あの時は、そんな程度にしか思っていなかった。
でも違った。
最初からずっと。
門倉裕は、自分を見ていた。
盗んでいた。
写真を撮っていた。
今日だけじゃない。
何ヶ月も前から。
ぞわり、と背筋を冷たいものが這い上がる。
胃の奥がねじれるように痛い。
吐き気が込み上げる。
それでも涙すら出なかった。
恐怖が大きすぎて。
心が、自分を守るために感情を切り離してしまっていた。
「退学云々の処分については警察の調査が済んでからの話しだから…」
学年主任が答えると、続いて担任教師が慎重に言葉を選びながら口を開く。
「親御さんに連絡を入れたから。でもまだ本人が帰宅していないから、門倉くんが帰宅したらすぐに連絡を貰えることになってるの。小野さんの親御さんと、警察も時期に到着するから、まずは警察に任せて…」
その言葉を聞いた瞬間だった。
バンッ!!
再び机が激しく鳴る。
「何を甘いこと言ってるんですか!!」
陽向の声が職員室中へ響き渡る。
鼻へ詰められた止血用のガーゼは、まだ赤く滲んでいる。
制服の胸元にも乾き始めた血痕が残っていた。
それでも、そんなことはどうでもよかった。
「まだその辺にいるんだから!!今すぐ!!先生達総出であいつを取っ捕まえて警察に突き出すべきでしょーが!!!
怒りで震える拳を握り締める。
息が乱れる。
それでも止まらない。
「とにかく!あいつを二度と聖綾国際高校の敷居を跨がせるなーーー!!!!」
職員室の誰もが言葉を失っていた。
陽向の怒りは、自分が殴られたことに対する怒りではない。
雫が受けた恐怖。
雫が奪われた日常。
そのすべてに対する怒りだった。
そこで、不意に陽向は何かを思い出したように雫へ振り向いた。
「……そー言えば……朔也は!?」
ハッとした声だった。
慌てて雫のすぐ隣へ座り、俯いたまま動かないその顔をそっと覗き込む。
「朔也と会うって……言ってなかった……?」
その問い掛けに、雫の肩がかすかに震えた。
震える指先がゆっくりと制服のポケットへ伸びていく。
──カサ……。
小さな紙の擦れる音だけが響いた。
雫は二つ折りの白い紙を取り出す。
何度も握り締められたそれは、もうすっかり皺だらけになっていた。
ゆっくりと折り目を開く。
紙を見つめたまま、雫は途切れ途切れに呟いた。
「…………朔也くんじゃ……なかった……」
震えた声は、今にも消えてしまいそうなくらい弱々しかった。
陽向もその紙へ視線を落とす。
“役員会議のあと話したいです。18時に雫の教室に行きます。 黒川朔也”
ほんの数秒。
陽向は黙ってその文字を見つめる。
そして、小さく首を横へ振った。
「…………朔也の字じゃない。」
その一言は、迷いがなかった。
小学校の頃から、これまで何度も見てきた。
夏休みの宿題。
黒板を写したノート。
何気なく書かれたメモ。
見慣れた筆跡だからこそ、一目で分かった。
これは、朔也が書いた文字じゃない。
陽向は静かに雫の手からメモを受け取る。
震える紙を見つめながら、唇を強く噛み締めた。
「……こんな汚い手使って…っ…」
怒りで声が震える。
「しぃちゃんを罠にはめるなんて…!許せないっ!!」
陽向の拳が震えた。
その隣で。
雫は力なく俯いたまま、小さく肩を震わせる。
「……っ……」
私は。
なんて愚かだったんだろう。
手紙を見つけた瞬間。
胸が、嬉しくて震えた。
もう一度、朔也くんと話ができる。
たったそれだけで、胸が高鳴った。
“黒川朔也”
その四文字が目へ飛び込んできただけで。
それだけで嬉しくて。
それだけで愛しくて。
夢でも見ているような気持ちになった。
だから、筆跡なんて疑おうともしなかった。
違和感なんて、考えもしなかった。
期待してはいけないと何度も自分へ言い聞かせていたはずなのに。
心のどこかでは、ずっと待っていた。
もう一度。
彼が、自分のところへ来てくれることを。
でも。
そんなはず、あるわけがなかった。
自分を振ったのは、彼自身だ。
星野先輩が好きだと言ったのも。
私との関係に、終わりを告げたのも。
全部、朔也くんだった。
それなのに私は。
そのたった四文字だけで。
簡単に、信じてしまった。
「……うぅ……っ…あぁ…ぐす………ふ…っ」
堪えていたものが、とうとう決壊する。
押し殺そうとしても止まらない嗚咽が、静まり返った職員室へ静かに響き渡った。
その涙は、門倉への恐怖だけではない。
もう二度と戻らない恋を、それでも心のどこかで諦めきれていなかったことを。
苦しいほどに自覚してしまった自分自身への、痛々しい涙でもあった。
雫の咽び泣く声だけが、重苦しい職員室へ途切れ途切れに響いていた。
誰も言葉を発することができない。
教師たちはただ痛ましそうに目を伏せ、机の上へ並べられた押収品と、小刻みに肩を震わせる雫を見つめるしかなかった。
張り詰めた沈黙の中、担任教師が静かに椅子から立ち上がる。
「………そこの指導室で……ちょっと落ち着こうか……」
雫の背中へ、そっと手が添えられる。
その温もりに促されるように、雫はゆっくりと頷いた。
涙で滲んだ瞳は焦点が定まらず、泣き疲れた身体は自分の力だけでは立ち上がれそうになかった。
陽向が迷うことなく雫の隣へ立ち、その手をぎゅっと握る。
震え続ける小さな手は、氷のように冷たかった。
雫は陽向に身体を支えられながらゆっくりと立ち上がる。
足元はひどく覚束ない。
一歩踏み出すたびに膝が震え、床がぐにゃりと揺れているような感覚がした。
担任教師に付き添われながら、二人は職員室のすぐ脇にある小さな指導室へと入っていく。
部屋へ入ると、教師は椅子を二脚並べる。
「ここで待ってて。警察が着いたらすぐ呼ぶからね」
パタン────
静かに扉が閉まり、部屋には雫と陽向だけが残された。
指導室の椅子へ腰を下ろした途端、それまで必死に張り詰めていた糸が再び切れる。
「………私…っ…どうしたらいいの……」
しゃくり上げながら漏れた声は、あまりにも弱々しかった。
涙は止まらない。
止めようとしても、止められない。
「もう…来週には……先輩達は…いなくなっちゃうのに…っ」
卒業式まで、あと一週間。
陽向。
朔也。
咲。
蒼太。
綾真。
横溝琉嘉。
相田桜子。
この一年間。
苦しい時は励ましてくれた。
迷った時は背中を押してくれた。
泣いた時は、側にいてくれた。
何度も何度も、自分を守ってくれた大切な先輩たち。
そんな存在が、あと一週間でこの校舎から去ってしまう。
今日みたいなことが、また起きたら。
怖くなった時は。
苦しくなった時は。
私は────誰を頼ればいいの。
その不安が、事件の恐怖と混ざり合い、雫の心を容赦なく締めつけていく。
「…私……っ…学校来るの……無理です…っ…」
絞り出したその一言には、心が折れてしまった音が滲んでいた。
もう、傷つくのは嫌だった。
もう、誰かを信じるのも怖かった。
もう、自分一人では立ち上がれる気がしなかった。
陽向は黙ってその言葉を聞いていた。
雫の震える手を包み込むように握り、静かに息を吸う。
そして、真っ直ぐ雫を見つめた。
「いなくならないよ」
その声は、不思議なくらい穏やかだった。
雫が涙で濡れた瞳をゆっくりと上げる。
「朔也はちょっとだけ遠くに行っちゃうかもしんないけど……私はずっとあの家にいるし。」
そう言って、雫の手をもう一度ぎゅっと握り直した。
「しぃちゃんが寂しかったら、どこへでも。毎日でもしぃちゃんのところに行くよ。」
その手の温もりは、小刻みに震え続けていた雫の指先へ、少しずつ少しずつ伝わっていった。
「卒業したって、このまま放ったらかしにして、しぃちゃんを置き去りになんてしない。」
迷いのない声だった。
そして、真剣な目で雫を見つめる。
「絶対に、何がなんでも。」
その眼差しに宿っていたのは、ただの慰めではない。意志という名の鋭い光だった。
「私が、あいつをこの学校から、この街から抹消してやる…!」
そして陽向は、次の瞬間。
「それまで諦めないから!」
ニカッと、眩しく笑った。
まるで、黒い影を一瞬で振り払う太陽のように。
「しぃちゃんが安心して、笑って学校生活を送れるようになるまで。」
「………っ…」
雫の胸が、きゅうぅぅぅぅ──っと締め付けられる。
(…どうしよう…………)
呼吸さえ途絶えるほどの圧迫感。
どうしようもないほどの寂しさ。
足元が崩れ去るような不安。
押し潰されそうな辛さ。
そのすべてを抱えた私を、一人にしない人。
絶対に、誰かを置いていかない人。
どんな暗闇に突き落とされても、一瞬で世界を黄金色に塗り替えてしまう、恐ろしいほど眩しい──
太陽みたいな人。
(……やっぱり………好きだ………)
「…星野先輩……っ」
再び溢れ出した涙の堤防を崩すように、陽向の腕が伸びてくる。
すっぽりと包み込まれるように抱きしめられる、小さな体。
「側にいるから」
トン…トン…と、背中を叩く規則的なリズム。
優しく、どこまでも柔らかな手のひらの振動。
「私はいるよ。だから大丈夫」
包み込んでくれる、その腕の強さ。
背中に触れる、温かい手のひらの温度。
押し当てられた胸の奥から響く、確かな心拍。
そのすべてが、あまりにも温かくて。
残酷だった。
「…ふ……っ……うぅ………あぁぁーーー…」
自分の恋を、無自覚に奪っていった人。
この人さえ居なければと、黒い感情で恨んだことさえある憎い人。
それなのに。
胸が壊れるほどに、苦しいくらい。
堪らないほど、愛しい人。
「…ぅ…ヒック……はぁ…っ…」
雫はなりふり構わず、しがみつくように陽向の体に縋りついた。
重なり合う二人の体温が混ざり合い、身体がひとつになるかのように。
お互いの境界線すら溶けていくかのように、固く、強く抱きしめる。
雫は、涙で濡れそぼった頬を擦り寄せるようにして、そっと陽向の唇へと自分の頬を押し当てた。
陽向はそれを拒むことなく、雫の求めに応える。
濡れた雫の頬に静かに唇を落としながら、陽向は優しく雫の頭を撫で続けていた。
───────。
ほどなくして、数名の警察官が学校へ到着した。
現場保存の確認が行われると同時に、事情聴取が始まる。
雫、陽向、そして教職員たちは、それぞれ別々の場所で当時の状況を詳しく説明することになった。
その一方で、別の警察官たちは逃走した門倉の行方を追い、自宅へと急行していた。
やがて学校には、連絡を受けた雫の両親と陽向の母親も到着する。
重苦しい空気に包まれた応接室で、学校側は事件の経緯を説明した。
突然知らされたあまりにも衝撃的な内容に、保護者たちは言葉を失うしかなかった。
陽向は暴行によって頭部と顔面に負傷し、制服には乾き始めた血痕が残っていた。
警察による事情聴取を終えると、そのまま母親に付き添われて病院へ向かう。
暴行事件の被害者として診断を受け、診断書を作成するためだった。
一方その頃。
門倉は何事もなかったかのように自宅へ戻った。
しかし玄関の前には、すでに警察官が待機していた。
帰宅した門倉はその場で保護され、警察署へ任意同行される。
その夜遅くまで、事情聴取が続けられることとなった。
雫もまた、学校で長時間にわたる事情聴取を受け続けた。
何度も当時の状況を思い出し、そのたびに震える声で言葉を絞り出す。
恐怖と疲労で心身ともに限界を迎えた頃、ようやくすべての聴取が終了した。
事情聴取の最後、警察官は机の上に置かれた門倉のリュックへ静かに視線を向けると、ゆっくりと言った。
「……星野さんが怪我をしてまで離さなかったこのリュックですが、非常に重要な証拠になります。」
職員室の空気が、静まり返る。
「中からは被害品などが押収されています。もし犯人がこのリュックを持ったまま逃走し、証拠を処分した上で『何もしていない』と否認していた場合……」
警察官は慎重に言葉を選びながら続けた。
「防犯カメラのない教室内で起きた出来事です。もちろん被害者の証言は重要ですが、物的証拠が失われていた場合は、立件が難しくなっていた可能性もありました。」
その言葉に、職員室は重い沈黙へ包まれる。
血を流しながらも、必死に門倉へしがみつき続けた陽向の姿が、雫の脳裏へ鮮明によみがえった。
(絶対に……逃がさない……っ!)
(先生呼んできてーーっ!!)
(さっさと行け!!雫っっっ!!!)
鼻から血を流し、何度殴られても、蹴られても。
最後まで離さなかった、あの小さな背中。
あの数分間の必死の抵抗が、事件を証明する決定的な証拠を守り抜いていたのだ。
雫の胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
学校を後にした時には、時計の針はすでに夜九時を回っていた。
一方その頃。
検査を終えた陽向は、母・早苗と並んで病院を後にしていた。
夜風が、火照った頬を静かに撫でていく。
「鼻、折れてなくて本当に良かったわ……」
安堵したように息を吐く早苗へ、陽向は鼻のガーゼを気にしながら苦笑する。
「来週、壇上で答辞読むのになぁ〜…痣にならないかなぁ」
「最悪、ファンデーションで誤魔化すしかないね」
「じゃあセラフィットのコンシーラー買って!」
「ったく……」
早苗は呆れたように肩を竦め、小さく笑う。
「無茶ばっかりして……あんた本当に女の子?」
その言葉に、陽向は少しだけ照れくさそうに笑った。
その横顔を見つめながら、早苗は何も言わなかった。
先ほど、学校で聞かされた教師の言葉が蘇る。
(星野さんのお陰で最悪の事態は守られて、押収してくれた証拠品のお陰で、事件を速やかに解決出来そうです。)
ただ、娘が誰かを守るためなら自分の身さえ顧みない子であることを、改めて痛いほど思い知らされていた。
あまりにも長く、あまりにも過酷な夜。
それぞれの胸に深い傷を残したまま、その一日は静かに幕を閉じた。




