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セカンドシーズン ─好きな人を、真っ直ぐに。─ 〜第三章〜高3編〜【最終章】  作者: 波方 真季


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第179話 風吹けば 沖つ白浪 たつた山 夜半にや君が ひとり越ゆらむ


数日後────。


昼休みも終わりに近づく、午後の授業開始前。

廊下には、次の授業へ向かう生徒たちの足音が響いていた。


窓から差し込む冬の日差しは、まだどこか冷たさを残している。

けれど、二月の後半が近づくにつれて、その光の奥には少しずつ春の柔らかさが混じり始めていた。


その廊下の角を曲がった時だった。


「「……あ。」」


ほとんど同時だった。


目が合った瞬間。

二人の足が、ぴたりと止まる。


小野雫と、鷹井綾真。


あの日、冬の裏庭で出会った二人。

雫にとっては、忘れられない日だった。


誰にも見られたくなくて。

誰にも触れてほしくなくて。

全部を失ったような気持ちで泣いていた自分に、綾真は何も聞かなかった。

理由も、事情も、無理に笑わせようとも。


ただ、隣にいてくれた。


あれから数日。

もちろん、朔也への想いはが消えたわけじゃない。

胸の痛みがなくなったわけでもない。


それでも。

あの日、ひとりぼっちだった自分を包んでくれた優しさだけは、今も温かく残っていた。


「あの……この前は……その……」


先に声を出したのは雫だった。


一瞬、言葉に詰まる。


あの日の自分を思い出す。

泣き崩れて。

子どもみたいに声を上げて。

知られたくなかった弱い部分を、全部見られてしまった。

恥ずかしさと申し訳なさが混ざり、胸が少しだけ締め付けられる。


それでも。


「……すみませんでした!ありがとうございました!」


雫は深く頭を下げた。

あの日もらった優しさに、ちゃんとありがとうを伝えたかった。


「いや……別に俺なんもしてないけど。」


綾真は少し困ったように頭を掻く。


雫が顔を上げる。

けれど綾真は、いつものように軽い調子で笑った。


「もう大丈夫なの?」


その言葉に。

雫の胸が、ほんの少しだけ温かくなる。


あの日と同じだった。


無理に踏み込まない。

でも、ちゃんと心配してくれている。

その距離感が、綾真らしい優しさだった。


雫は、小さく息を吸う。


そして。


「はいっ!お陰様で!」


いつもの自分らしい笑顔を浮かべた。


その笑顔を見た瞬間。


綾真は、少し安心したように目を細めた。


「あそ。」


そして。

眩しい太陽の光のように笑って、走り去る。






「泣いてるより笑ってる方が似合ってるよ!じゃーね!」






「……っ」


一瞬。

そんなことを、あまりにも自然に言うから。


時間が止まったような気がした。


まるで特別なことじゃないみたいに、綾真は手を軽く振った。

そう言って、いつもの調子で廊下の向こうへ走っていく。


冬の廊下。

遠くで聞こえる生徒たちの声。

窓から差し込む淡い光。


全部が、少しだけ遠くなる。


「おい!綾真ー!ちょっと急がねーと授業遅れる!」


「まじかー!やべー!」


そんな声が遠ざかっていく。

残された雫は、その場に立ち尽くしていた。


「…………。」


胸の奥が。




ドクン、と大きく跳ねる。




頬が、少し熱くなる。




(……え。)


今の、何……?




綾真の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


雫は思わず自分の胸元へ手を当てた。

鼓動が、やけに大きく聞こえる。


(うわ……何だ今の……。)





反則だーーー!!!





雫は、廊下の先を見る。

もう綾真の姿は見えない。


それなのに。

胸の奥に残った温かさだけは、消えてくれなかった。


冷え切っていた冬の心へ。

小さな春の気配が、そっと芽吹き始めていた。




───────。




二月下旬───。


学年最後の定期テストが始まった。

校舎の空気は、それまでとはどこか違っていた。


教室には、問題用紙をめくる音と、シャープペンシルが紙を走る音だけが静かに響く。

窓の外では、まだ冷たい冬の風が木々を揺らしている。

けれど、差し込む陽射しだけは少しずつ柔らかさを増し、季節が確かに春へ向かって歩き始めていることを告げていた。


三年生にとっては、高校生活最後の定期テスト。


すでに推薦や総合型選抜で進学先が決まり、一般入試も終えた生徒が多い三年生にとって、このテストの結果が進路を左右することはもうない。

だから教室には、どこか肩の力が抜けた空気が流れていた。


「赤点だけは回避しよー」


「終わったらカラオケ行くか」


そんな呑気な声が、休み時間にはあちこちから聞こえてくる。


陽向もまた、その一人だった。


もちろん手を抜くつもりはない。

けれど、かつて受験に追われていた頃のような張り詰めた空気はもうない。


高校生活最後のテストを、「最後の思い出だね」と笑いながら受けていた。


その一方で──。


雫は違った。


一年生の自分にとって、この定期テストは未来へ続く大切な積み重ね。


高校三年間の評定平均。


それが、どれほど大きな意味を持つのか。


朔也の一般受験へ向き合う姿を隣で見てきた。

推薦入試で勝つため、努力を重ねてきた陽向も見てきた。

先輩たちの一年間を間近で見続けたからこそ、その重みが痛いほど分かる。


だからこそ、立ち止まるわけにはいかなかった。


胸の奥には、まだ失恋の痛みが残っている。

陽向への嫉妬も、醜いと思う自分自身への嫌悪も、決して消えたわけではない。


それでも。

教科書を開けば、その苦しさを忘れられる気がした。

問題を解き、答えを導き出し、ただひたすら机へ向かう。

今だけは余計なことを考えなくていい。


そう自分へ言い聞かせるように、雫は誰よりも真剣な眼差しで答案用紙へ向き合っていた。


そして──。


朔也もまた、別の戦いの真っ只中にいた。

数日後に迫る、国公立大学二次試験。


高校生活すべてを懸けた、本当の勝負。

第一志望合格。

未来への切符を、自分の力で掴み取るために。

積み重ねてきた努力を、一点の悔いもなく出し切るために。

参考書を開き、問題を解き続ける。


雫のことも。

陽向のことも。

胸の奥には確かに残っている。

けれど今は、その想いに向き合う時間ではない。

すべてを一度心の奥へ押し込み、ただひたすら目の前の一問へ集中する。


それぞれが、それぞれの未来のために戦う冬。


交わることのない三人の時間だけが、静かに、そして確かに春へ向かって流れていった。




───────。




二月の終わり。


夕食を終えた星野家のリビングには、暖房の柔らかな熱がゆっくりと部屋を満たしていた。


テレビではニュースキャスターが「国公立大学前期試験が終了しました」と伝えている。

受験生たちの映像。

試験会場から出てくる学生たち。

張り詰めていた表情が少しだけ緩み、家族と笑顔を交わす姿。

その映像をぼんやり眺めながら、陽向は湯気の立つマグカップを両手で包み込んだ。


胸の奥へ、一人の姿が浮かぶ。


「……朔也……二次試験の手応えどうだったのかな……」


思わず零れ落ちた呟きだった。


「あんた毎日学校で顔合わせてるんだから、そんなことも聞いてないの?」


キッチンで食器を洗っていた母が、呆れたように振り返る。


「顔合わせてないよ!クラス違うし……」


陽向は視線を落とした。


「最近……ずっと話してないから……」


一ヶ月弱。

学校では何度もすれ違った。

廊下で見掛けたこともある。

それなのに、お互い目を逸らして、そのまま通り過ぎてしまう。


「は?まさか、まだ仲直りしてないの?」


母が目を丸くする。


「えっと……あ……うん……」


「ばっかじゃないの!?もう1ヶ月近く経つじゃない!どんだけ引っ張んのよ!」


母の声に、陽向は小さく肩をすくめた。


あの日。

家の前で突然の朔也からの告白。

それは、二人の母親まで巻き込んだ大喧嘩に発展した。

あれ以来。

気まずさだけが、雪のように積もり続けている。


「だって朔也……試験直前でずっと家に籠もってたし……」


「まー朔も忙しくてそれどころじゃなかったか……」


母はため息をつきながら食器を拭く。


「でも合格したら朔、家出るんじゃないの?」


「……うん。」


胸の奥が、小さく疼いた。


それは新しい未来の始まり。

同時に、幼い頃から当たり前だった毎日が終わるということでもある。


「試験も終わったし、パパッと謝ってきなさいよ!」


「なんで私が!」


なかなか素直になれない陽向を、母は真っ直ぐ見た。


「卒業したら、会えなくなるんだよ?」


その一言が、胸へ静かに落ちた。


“朔也は、第一志望に合格する”。


母親の発言は、当然のようにその前提だった。

卒業式までは、もう二週間もない。


高校を卒業すれば。

家族でもない。

恋人でもない。

只の“幼馴染”でしかない自分は。




朔也と会える権利を失う。




それが、急に現実味を帯びて押し寄せてきた。


(……なんて………伝えようかな…)


そう思いながら、一ヶ月近く何もできなかった。


朔也の事が、好き。


その気持ちは、どれだけ消したくても消えてくれない。

今でも朔也の隣には、幸せそうに笑う可愛い彼女がいる。

それなのに朔也は、自分の事を好きだと言った。




(お前に未練抱えたまま、雫と付き合ってる俺の気持ちなんか!!)




ありえない。

理解出来ない。

許せない。


そんなの、許されない。


どれだけ、好きでも。

いくらお互いが、想い合っていても。


私と朔也が恋人同士になるなんて、決して許される事では無い。


それは、略奪だ。


誰かを傷つけて。

誰かが泣いて。

誰かの不幸の上に成り立つ幸せなんて、存在してはいけない。


朔也は、彼女の事も好きなはず。

可愛がっていたし、大切にしていた。

彼女と一緒にいる時間は、とても幸せそうな顔をしていた。


だから。


「…………わかった。」


陽向は小さく息を吐く。


「行ってくる。」


立ち上がると、リビングの暖かな空気が背中から離れていく。


玄関で靴を履き、扉へ手を掛ける。

冷たい夜風が、頬を撫でた。


二月の終わりの空気はまだ冬の名残を残していたけれど、そのどこかに、ほんの少しだけ春の匂いが混じり始めている。


その風を胸いっぱいに吸い込む。


(……ちゃんと…話そう。)


震える指先でドアを閉めると、陽向はゆっくりと朔也の家へ向かって歩き始めた。



────ピンポーン



夜の静けさを震わせるように、インターホンが鳴った。


「はーい。」


ほどなくして玄関の扉が開く。

出てきたのは、朔也の母だった。


「朔也いる?」


「朔、さっきバイト行ったよ?」


「へ!?」


陽向は反射的に駐車場へ目を向ける。


街灯に照らされたコンクリートの上には、いつも停まっているはずの原付バイクがない。


「ほんとだ…気づかなかった」


自分でも呆れてしまうほど、何も見えていなかった。


何をどう伝えるかばかり考えて、そこにあるはずの景色さえ目に入っていなかったらしい。


「帰ってきたらひなに声かけるよう言っとこうか?遅いかもだけど」


「いや!いいよ!急ぎでもないから…大丈夫!」


陽向は慌てて両手を振った。


「じゃ!おやすみー!」


「うん、おやすみ」


静かに玄関の扉が閉まる。


カチャリ、と鍵の掛かる音だけが、夜の住宅街へ小さく響いた。


(長かった受験がようやく終わったばっかなのに…すくにバイトかぁ…)


偉いな、と思った。


自分も受験が終わったあとはバイトを始めた。

けれど最初の数日は、ようやく終わったという解放感に浸って、何もしない時間を思い切り楽しんでいた。


もっとも、それは十一月のこと。


朔也は違う。


今は、もう三月になろうとしている。

もうすぐ卒業して、この街を離れる。

引っ越しの準備も、新生活の準備もある。

のんびりしている時間なんて、きっとないのかもしれない。


陽向はそっと顔を上げた。


「………。」


二階。

灯りの消えた朔也の部屋の窓が、夜空を背に静かに浮かんでいる。


誰もいない。

分かっている。

それなのに、胸が締めつけられた。


これからは、この部屋に灯りがついていない夜が、当たり前の日常になる。


寂しい。

寂しくて、寂しくて、朔也がいない毎日なんて、想像つかない。

朔也なしで、これから先の毎日をやっていけるのか不安になる。


それでも────。


ゆっくりと瞼を閉じる。

脳裏へ浮かぶのは、一人の女の子。




朔也のためを思ったら。

きっとこの先の人生朔也の隣で一緒に歩いていくべきなのは。






自分じゃなくて、雫の方が良い。






優しくて、真面目で、謙虚で、素直で、健気で、純粋で、一途で、一生懸命で、可愛くて。


完璧な彼女。


あの子なら、きっと朔也を幸せにできる。


それに対して、私は。


気が強くて、感情的で、気分屋で、物忘れも激しくて、不注意で、ドジで、マヌケで、ズボラで、清潔感も無くて。


俊ちゃんの事を、今も好きで。




(結局、藤崎先輩が忘れられなかったから、一緒にいるのがしんどくなった?」


(………違う。)


(じゃあ忘れた?)


(…………それは流石に無理だけど…)


(お前って本当執念深い女だな。)




(いい加減に忘れて次行けば?)




呆れたような声だった。


朔也の事だけを、一番に。

一途に想ってあげる事も出来ないこんな自分が。


朔也を幸せになんて、どう考えても出来るわけがない。


朔也と俊ちゃんは。

比較する対象じゃないし、比べられるものでもない。


それでも、そんなの朔也が理解出来るわけないし、納得出来るはずもない。


怒らせてばかりで。

困らせてばかりで。

迷惑ばかり掛けて。

世話ばかり焼かせて。


きっと、苦労ばかりをさせてしまうに決まってる。


朔也の事だけが、一番に大好きな雫。

だけど自分は、朔也だけを一番に想ってあげることさえできない。


だから。

あの日、朔也が伝えてくれた想いは。




“聞かなかったことに、するから。”




あの日。

私達の間には、何もなかったことにしよう。


それだけを朔也に伝えれば、私はそれでいい。


陽向はゆっくりと夜空を見上げた。




「……風吹けば 沖つ白浪 たつた山 夜半にや君が ひとり越ゆらむ」




小さく口ずさむ。

吐く息は白く、星のない冬空へ静かに溶けていく。


それは、伊勢物語『筒井筒』の一首。




昔。


愛する夫が、自分ではない女性のもとへ通うようになった。


それでも妻は責めなかった。

引き止めもしなかった。


ただ。


──夜道は危ないから。


どうか無事で。


そんな願いだけを、一首の歌へ託した。



(…………無事に……それで幸せになれるなら。)



責めたいわけじゃない。

引き止めたいわけじゃない。

困らせたいわけでもない。


ただ。


朔也が何事もなく、幸せならそれでいい。





その幸せの隣にいる人が、自分じゃなくても。





夜風が頬を撫でる。


その冷たさに目を細めながら、誰にも届かない小さな決意だけが。


春を待つ夜空へ、そっと溶けていった。


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