第178話 裏庭の優しさ
雫が裏庭へ逃げ込む、ほんの数分前───。
「ヘイ!こっち!」
「綾真!ディフェンス!」
「うぇーい!パス!」
放課後の三年フロア。
掃除の時間だというのに、廊下の一角だけはまるで体育館のような賑わいだった。
ほうきや雑巾を廊下の隅へ放り出した各クラスの掃除当番の男子たちが、笑い声を上げながら一つのバスケットボールを追い掛けている。
「綾真、いくぞ!」
「おっ、来い!」
弾むボールの音が、廊下へ小気味よく響く。
「させるか!」
ダンッ。
ダンッ。
「カットぉ!」
勢いよく伸びた手がボールを弾いた。
「あっ───」
誰かが声を上げるより早く、ボールは放物線を描いて一直線に開いた窓へ向かう。
そのまま───
ひゅっ、と冬の風を切り裂き、校舎の外へ吸い込まれるように飛び出していった。
「うわぁぁぁっ!!」
一瞬、廊下が静まり返る。
「俺のボールーーーーっ!!!」
綾真が頭を抱えて叫んだ。
どうやら飛んでいったのは学校備品ではなく、昼休みや放課後によく遊んでいた綾真の私物だったらしい。
「やっべ!ごめん!」
ボールを弾いた男子が慌てて両手を合わせる。
「今すぐ取ってくる!」
駆け出そうとした、その時だった。
「ちょっとーーっ!!」
女子の鋭い声が廊下中へ響き渡る。
「いつまで遊んでんの!? 掃除終わんないんだけど!」
「真面目にやれー!!」
「帰れないでしょーー!!」
ぴたり、と男子たちの動きが止まる。
一斉に気まずそうな表情を浮かべると、
「「「……すいません。」」」
見事なハモりで頭を下げた。
「ほら!さっさと動いて!」
「はいっ!!」
男子たちは慌てて、放り出していたほうきや雑巾、ちりとりを拾い集めた。
「綾真ごめん。終わったらソッコー取ってくるわ」
申し訳なさそうに友人が言う。
すると綾真は、苦笑しながら首を振った。
「いいよいいよ。帰りに自分で取りに行くから。」
そう言って、ほうきを手に持ち直す。
「とりま、早く終わらせねぇと女子ガチギレしてる。」
軽口を叩き合いながら、男子たちはようやく掃除を再開した。
冬の西日が廊下へ長い影を落としている。
誰も気に留めなくなったバスケットボールは、その頃すでに校舎裏へ転がり着き、冷たい風に吹かれながら、静かにひとり取り残されていた。
そして───────。
掃除を終え、急いで帰り支度を済ませた綾真は、一人校舎裏へ足を向けていた。
「……えーと……確か、この辺に飛んでったよな……」
冬の裏庭は、人の気配がほとんどない。
校舎の向こうから聞こえてくる運動部の掛け声や、下校する生徒たちの笑い声だけが遠く響き、この場所だけ時間が止まったように静まり返っている。
枯れ葉が風に転がる音。
枝先を揺らす冷たい風。
綾真は辺りを見回しながら、落ちたはずのボールを探した。
その時だった。
(…………え。)
思わず足が止まる。
視線の先。
裏庭の隅。
校舎の壁に背中をつけて座り込み、一つのバスケットボールを胸へ抱き締めながら、声を殺して泣いている女子生徒の姿があった。
肩を震わせ。
顔をボールへ埋め。
まるで、それだけが最後の拠り所であるかのように、両腕へ力を込めて抱き締めている。
「……っ!?!?」
綾真は思わず目を見開いた。
(やべぇ……!!)
一瞬で血の気が引く。
(もしかして……当たった!?)
さっき窓から飛び出したボール。
もしあれが彼女へ直撃していたのだとしたら。
それはもう、とんでもない大事だ。
「…マジかよ……」
喉がひゅっと鳴る。
謝らなきゃ。
でも、なんて声を掛ければいい。
足が一歩だけ止まる。
だからと言って逃げるわけにもいかない。
綾真は恐る恐る歩み寄ると、できるだけ刺激しないよう小さな声で話しかけた。
「あ、あのー……すいません……」
その声に反応するように、少女がゆっくりと顔を上げる。
涙で濡れた睫毛。
真っ赤に腫れた目元。
頬を伝う涙。
そして、その顔を見た瞬間。
「……!」
綾真は息を呑んだ。
(……小野雫!?)
思わず目を見開く。
「……え、小野さん……?」
知っている顔だった。
生徒会役員。
校内一の美少女と言われる大人気アイドル。
いつも笑顔で。
誰にでも優しくて。
いつも陽向の隣で嬉しそうに笑っている、あの小野雫。
そして、黒川朔也の彼女だ。
その彼女が、まるで別人のような顔で泣いていた。
胸がざわつく。
何があった。
いや、それよりまず──。
「あの……そのボール……俺のなんですけど……」
言葉が妙にぎこちなくなる。
「えっと……その……大丈夫……?」
ボールが当たったのか。
どこか怪我をしたのか。
それとも全然違う理由で泣いているのか。
何一つ分からない。
雫は答えず、腕の中のバスケットボールへ静かに視線を落とした。
冷たくなったオレンジ色のボール。
さっきまで、自分と同じように誰にも見つけてもらえず、一人ぼっちで置き去りにされていた。
けれど。
迎えに来てくれた。
ちゃんと、この子を探してくれる人がいた。
「………グス……。」
雫は、そっと指先でボールを撫でる。
まるで、最後のお別れをするように。
(……ボールくん…)
心の中で、小さく呟く。
(君には……ちゃんと迎えが来たんだね。)
胸の奥が、また熱くなる。
(よかったね…… 君は、もう一人ぼっちじゃないんだね……。)
その言葉とは裏腹に、涙だけが止まらなかった。
自分とは違う。
持ち主が迎えに来てくれる。
大事にしてくれる人がいる。
必要としてくれる人がいる。
その当たり前が、このボールにはあった。
雫はゆっくりと立ち上がる。
涙で滲む視界のまま、一歩だけ綾真へ近づいた。
抱き締めていたボールを、名残惜しそうに胸から離す。
ボールを離した瞬間。
冷えた冬の空気がヒヤッと胸に触れた。
胸の奥が、またぽっかり空いてしまった。
震える両手でボールを差し出す。
その姿は、まるで大切な何かを無理やり手放そうとしているようだった。
その瞬間。
「……っ……ふ……」
再び嗚咽が込み上げる。
力が抜ける。
(…また……一人ぼっちになっちゃう………)
雫はその場へ崩れるように、肩を震わせて再び泣き始めてしまった。
(えっ……!)
綾真は完全に狼狽えた。
「ご、ごめん……!」
思わず声が裏返る。
「ボール……ぶつかった……?」
恐る恐る尋ねる。
雫は泣きながら、フルフルと首を横へ振った。
違う。
そう伝えるように。
けれど涙は止まらない。
「…ヒック……うぅ……ふ…グス……」
差し出したボールを持つ雫の手が、小刻みに震えていた。
「…………。」
綾真は困ったように立ち尽くす。
目の前にあるのは、自分のボール。
本当なら「ありがとう」と受け取れば終わる話のはずだった。
それなのに、先ほどボールを抱きしめながら顔を埋めて座り込み、縋りつくように泣いていた姿が蘇る。
今、このボールを受け取ってしまったら。
まるで泣いている彼女から、最後の残った心の支えまで、自分の手で取り上げてしまうような気がして。
綾真は差し出されたボールと、雫の泣き腫らした顔を何度も見比べる。
伸ばしかけた手は、途中で止まった。
(…なんか…受け取りづらい………………)
妙な沈黙だけが、冬の裏庭へ静かに流れていく。
風が吹く。
枯れ葉が足元をさらさらと転がり、二人の間を静かに通り過ぎていく。
綾真は小さく息を吐くと、照れ隠しのように後頭部をぽりぽりと掻いた。
「……あの……」
遠慮がちな声。
雫がゆっくりと顔を上げる。
涙で滲んだ瞳と目が合った瞬間、綾真は少しだけ視線を逸らし、困ったように言った。
「……もう少し………貸しといた方がいいっすかね。そのボール。」
「……!」
雫の瞳が、かすかに揺れた。
思いもしなかった言葉だった。
どうしたの?と無理に理由を聞くわけでもなく。
ただ、自分の気持ちを優先してくれた。
そのさりげない優しさが、不意打ちのように胸へ届く。
これまで深く話したことなんてほとんどない。
まともに言葉を交わしたのも、二学期の終業式の日、保健室で少し話した程度。
それなのに。
その一言は。
まるで、ずたずたに裂けた傷口へ、そっと温かな包帯を巻いてくれるようだった。
その瞬間、不意に雫の胸の奥から一つの記憶が浮かび上がる。
──二学期最後の日。
終業式のあと、高熱を出した陽向と過ごした、あの保健室。
(あ、小野さん……はい。)
(え……私ですか?)
(陽向の分だけ買ってきて…小野さんに何もないって流石に。)
(あ……ありがとうございます。)
(こちらこそ。色々手伝ってくれてありがとう)
あの時、不意に差し出された優しさ。
冬の日差しを受けたその笑顔は、どこか温かくて、眩しかった。
見返りなんて求めていない。
特別なことをしたつもりもない。
ただ目の前にいる人を気遣っただけ。
そんな当たり前の優しさが、そこにはあった。
雫はあの時、少しだけ驚いた。
綾真は誰よりも陽向を心配していた。
きっと頭の中は陽向のことでいっぱいだったはずだということは、雫も当たり前のようにわかっていた。
それでも。
綾真は、雫のことまでちゃんと見ていてくれた。
あの時、高熱を出した陽向のために買ってきた袋の中には、スポーツドリンクやゼリー、栄養補助食品がぎっしり詰まっていた。
その一つ一つに、溢れるほどの愛情と優しさが込められていた。
けれど、その愛情の隅っこに。
自分への優しさも、ちゃんと忘れないでいてくれた。
自然に。
当たり前みたいな顔で。
そのことが、なぜだかとても嬉しかった。
思い出した途端。
冷え切っていた胸の奥へ、小さな灯がともる。
じんわりと。
凍えた心が少しだけ温まるような感覚。
誰かを好きになる時も。
誰かを大切にする時も。
その人だけじゃなく、周りにいる人までちゃんと気遣える人。
だからこそ。
星野先輩は、鷹井先輩を好きになったのだろう。
そして、今。
「大丈夫だよ」なんて軽々しく言わない。
「泣かないで」とも言わない。
ただ。
“今は、それを抱いていてもいい”
そう言われたような気がした。
まるで、呼吸をするみたいに、自然に与えられる優しさ。
それは。
傷ついた心に、温かい手を差しのべてくれているようで。
今その優しさは…………刺さる。
「……っ……」
胸の奥で何かが音を立てて崩れる。
張り詰めていた心が、その一言だけで限界を迎えた。
雫はもう一度バスケットボールを胸へぎゅっと抱き寄せる。
冷え切ったゴムの感触が、制服越しに伝わる。
それでも、その冷たさだけが今は不思議と心地よかった。
その場へ、崩れるように座り込む。
「……っ……ぁ……っ……」
堪えていた嗚咽が、一気に溢れ出した。
肩を震わせながら、子どものように泣きじゃくる。
ボールへ顔を埋めるたび、涙がぽたぽたと落ち、その表面を静かに濡らしていった。
苦しくて。
悲しくて。
息ができない。
(……どうして……。)
朔也くんも。
鷹井先輩も。
どうして星野先輩を好きになる人は──
こんなにも優しくて。
こんなにも真っ直ぐで。
こんなにも、素敵な人ばかりなんだろう。
そんな人たちが、みんな星野先輩を好きになる。
それはきっと、当然なんだ。
そう思ってしまうたび、自分の存在が否定されたようで。
星野先輩が、羨ましい。
星野先輩に、なれたら。
星野先輩さえ、いなければ。
そんな醜い嫉妬や憎悪に押し潰される自分が、惨めで。
消えてしまいたい。
胸の奥が、また音を立てて軋んだ。
綾真は、小さく息を吐いた。
そして──。
「……。」
諦めたよう息をつくと、雫の隣へ、少しだけ距離を空けて腰を下ろした。
冷え切ったコンクリートの感触が制服越しに伝わってくる。
胸の奥で、小さく息をつく。
どうやらボールが当たったわけではないらしい。
怪我をさせてしまったのではないかという最悪の想像だけは、どうにか杞憂で済んだ。
そのことに安堵する一方で、新たな疑問が胸へ広がっていく。
だとしたら────
「…ヒック…ぅぁ……グス……ぅぅ……っ」
ものすごい勢い泣き方だ。
只事では無い。
しゃくり上げるたび、小さな肩が震える。
嗚咽は止まらない。
呼吸さえ苦しそうで、その細い身体が壊れてしまうんじゃないかと思うほどだった。
綾真は、ゆっくりと目を伏せる。
胸の奥で、ある考えが静かに浮かび上がった。
(…………もしかして………)
冬休みの終わり。
陽向に振られた、あの日。
あの時、頭をよぎった最悪の未来。
──陽向が、黒川朔也を好きになった。
──黒川朔也は、ずっと陽向だけを想い続けてきた。
だから。
小野雫は、いつか必ず傷つく。
あの日、自分はそんな未来を想像してしまった。
それが、現実になったのかもしれない。
胸の奥が、ずしりと重く沈む。
雫は何も言わない。
だから確かなことは分からない。
それでも。
この泣き方を見れば、十分すぎるほど伝わってしまう。
綾真は、静かに空を見上げた。
冬の空は高く、どこまでも青く澄んでいる。
冷たい風が木々を揺らし、枝先だけが小さく震えていた。
その景色を見ているうちに、不意に自分自身の記憶が重なった。
冬休みの終盤。
陽向と二人で訪れた遊園地。
イルミネーションの光。
他愛もない会話。
あの日も、自分は疑いもしなかった。
この幸せが、これからも続くものだと。
けれど、帰り際。
突然、告げられた別れ。
あの瞬間。
世界から音が消えた。
何を言われているのか理解できなくて。
何度も「嘘だろ」と思って。
悪い夢であってほしいと願い続けた。
それでも現実は、どこまでも残酷だった。
家へ帰ってからも涙は止まらず、枯れるほど泣いた。
息が苦しくなるくらい、泣いた。
それでも、胸の痛みだけは少しも消えてくれなかった。
「…………。」
綾真は何も言わない。
慰めの言葉なんて、見つからなかった。
何一つ届かない。
そんなことは、もう痛いくらいに。
自分が一番よく知っている。
冬の風が、二人の間を静かに吹き抜ける。
その世界から取り残されたように。
泣き続ける雫と。
その隣で、ただ何も言わずに座っている綾真だけが。
静かな冬空の下で、空を見上げていた。




