第177話 一人ぼっちのバスケットボール
二月上旬。
高校生活も、残り一か月を切った。
冬の空気は相変わらず冷たい。
けれど、どこかその寒さの奥には、少しずつ春の気配が混じり始めている。
卒業まで、あとわずか。
そんな現実が、教室のあちこちに静かに滲み始めていた。
朔也は、滑り止めとして受験していた私立大学へ見事合格し、ひとまず進学先を確保した。
共通テストも終え、私立大学の一般入試もすべて終了。
残る受験は、今月下旬に控える第一志望───国公立大学の二次試験だけ。
すでに推薦や総合型選抜で進学先が決まったクラスメイトたちは、残り少ない高校生活を惜しむように写真を撮り合い、放課後の予定を語り、寄せ書きを書き始めていた。
教室には、受験を終えた者だけが纏うどこか解放された空気が流れている。
その一方で、朔也だけはまだ終われない。
机へ積み重ねられた参考書。
昼休みも問題集を開き、放課後は真っ直ぐ予備校へ向かう毎日。
高校最後の冬を楽しむ余裕などなく、長い受験という戦いの真っ只中に立ち続けていた。
──三年四組。
昼休み。
午前の授業終了のチャイムが鳴り終わると同時に、教室は一気に賑やかさを増していく。
弁当箱を開く音。
椅子を引く音。
友達を呼び合う声。
冬の日差しが窓から差し込み、教室の床へ柔らかな光を落としていた。
「あれ、星野陽向さん?」
「今日こっちでお昼?」
「うんっ!」
陽向は笑顔で頷くと、クラスの輪の中へちょこんと腰を下ろした。
弁当箱を机へ置きながら、楽しそうに笑う。
「今月から、高校最後の一か月は、色んな人とお弁当食べよう月間って決めたの!」
その一言に、教室のあちこちから笑い声が漏れる。
朔也との一件は、陽向の胸の奥に重たい鉛のように沈んでいる。
昼休みに、二組へ顔を出す事も出来なくなってしまったのは事実。
高校生活は、あと一か月もない。
だからこそ。
いつも一緒にいた人だけじゃなく。
あまり話せなかった人とも。
同じクラスになったのに、ちゃんと昼を食べる機会がなかった人とも。
残された時間を、少しでも多く共有したい。
そんな陽向らしい、小さな願いだった。
「綾真と破局して以来だな。」
誰かがそう言う。
「三学期からはまた昼休み、二組ばっか行ってたもんな。」
「綾真が振られたからな。」
「綾真のせいでな。」
「何回も俺を連呼すんなーーっ!!」
綾真の盛大なツッコミが教室中へ響く。
「あははははっ!」
陽向は手を叩きながら、いつものように声を上げて笑った。
その笑顔につられるように、周囲からも笑いが広がっていく。
そんな何気ないやり取りが、たまらなく心地いい。
これまでの三年間、ずっと当たり前だったこの空気。
くだらないことで笑って。
誰かがツッコミを入れて。
教室中が笑顔になる昼休み。
こんな日常が、いつまでもずっと続くものだと思っていた。
この笑い声も。
この教室も。
この机も。
この窓から見える景色も。
全部があと少しで終わってしまう。
「綾真のおかず、今日チーズハンバーグだぁー!」
「ほい。」
「えっ!ありがとー!じゃあねぇ〜…たこさんウィンナーあげよう」
「えーそっちのシュウマイがいい」
「これはだめ」
「はっ!?たこさんウィンナーじゃ割に合わねーだろ!」
「あはははっ!じゃあブロッコリーつけてあげる!」
「いらねーよっ!」
綾真とこうして笑い合える昼休みも。
クラスのみんなと他愛もない話で盛り上がる時間も。
当たり前だった毎日が、少しずつ”思い出”に変わろうとしている。
窓の外では、まだ冷たい冬の風が校庭の木々を揺らしている。
けれど、その枝先にはほんのわずかに春を待つ蕾が膨らみ始めていた。
季節は、止まることなく前へ進んでいく。
それでも陽向は、この何気ない昼休みが、あと少しだけ続いてほしいと願わずにはいられなかった。
───────。
放課後。
夕暮れが、校舎の窓を淡い茜色に染め始めていた。
雫は、生徒会役員会議の議事録を顧問へ提出するため、職員室を訪れていた。
提出を終え、軽く一礼する。
「失礼します。」
静かに扉を閉める。
カタン、と閉まる音だけが廊下へ小さく響いた。
振り返った、その瞬間だった。
「あ、しぃちゃんっ!」
聞き慣れた、明るい声。
ドクンッ────。
目の前には、陽向が立っていた。
「…………星野……先輩……」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
身体が固まる。
これまでとは違う。
たったひとつの出来事で、目の前にいる人がまるで別の存在になってしまったようだった。
朔也くんが、十八年間想い続けてきた人。
自分から、彼を奪っていった人。
そんな言葉だけが頭の中を何度も巡り、視線を合わせることさえ苦しくなる。
「もっちーと答辞原稿の推敲作業やら卒業式の打ち合わせやらの約束してんだけど、生徒会室にいなくて。中にいた?」
陽向は、いつも通りだった。
何一つ変わらない。
いつもの笑顔。
いつもの話し方。
何事もなかったかのような、その自然さに、雫の思考は一瞬止まる。
「……あ……えっと……はい。」
ようやく返事を絞り出す。
(…な…なんで……)
胸の奥で、小さく呟いた。
どうして、そんな顔が出来るんですか。
どうして、そんな風に笑えるんですか。
彼は。
あなたが好きだと言って、私と別れたのに。
すると、不意に陽向の視線が雫のスクールバッグへ落ちた。
「あれ?」
その一言に、雫の肩がぴくりと震える。
「スーパーボール付いてなくない?どした?」
「……っ!!」
心臓が凍り付いた。
視線が、無意識にバッグの金具へ向く。
そこにはもう、透明なクリアポーチは揺れていない。
花火大会の日。
恋人になれた、あの日の思い出。
毎日、宝物みたいに持ち歩いていた、小さな幸せ。
雫はその話しを、陽向へ何度もしたことがある。
当然、スーパーボールの意味を知っている。
(…え………まさか…)
胸がざわつく。
(星野先輩……まだ何も知らない……?)
頭の中が真っ白になる。
彼は、この人が好きだと言って自分と別れた。
だから当然。
星野先輩が鷹井先輩と別れたから、それで彼女へ告白する為だと思っていた。
雫は、咄嗟に答えた。
「……金具が外れちゃって……」
喉が乾く。
それでも、精一杯言葉を紡ぐ。
「…それで……家に置いてきました。」
笑顔を作る余裕すら、どこにもなかった。
しかし陽向は、パッと表情を明るくする。
「そっか!なくしたら大変だもんね!」
その笑顔が。
あまりにも眩しくて。
ズキン──。
胸の奥へ、鈍い痛みが走る。
太陽みたいに明るい、その笑顔。
これが、本当に可愛くて。
誰にでも優しくて。
真っ直ぐで。
いつだって、この胸を攫っていく。
それなのに。
「…………っ。」
胸の奥から、黒い感情がゆっくりと滲み出す。
──憎い。
どうして。
どうして、この人だけ。
何も知らないまま、幸せそうに笑っているの。
私は全部失ったのに。
恋人も。
未来も。
宝物だった思い出まで。
全部。
全部、壊れてしまったのに。
その瞬間だった。
ガラッ────。
背後で職員室の扉が開く。
「あ、星野。」
生徒会顧問の、餅田先生だった。
「もっちー!遅いよー!」
「悪い悪い。小野が提出してくれた議事録、目ぇ通してた。」
「えっ、もう終わったの!?仕事はやっ!」
「小野はお前と違ってシゴデキだ。」
「はい生徒差別ー!」
いつも通りの軽口。
陽向は楽しそうに笑いながら、餅田先生の隣へ並ぶ。
その光景が、ひどく遠く感じた。
世界は何も変わっていない。
変わってしまったのは、自分だけなのだと突き付けられる。
「しぃちゃん、ばいばーい!」
陽向はいつものように手を振った。
「気を付けて帰れよ。」
餅田先生も軽く手を上げる。
雫は、丁寧に頭を下げた。
二人の背中が、廊下の向こうへゆっくり遠ざかっていく。
笑い声だけが、静かな校舎へ溶けていった。
雫は、その場から動けなかった。
胸の奥では、さっき芽生えてしまった黒い感情が、静かに、静かに広がっていく。
(……苦……しい…っ…)
まるで、助けを求めるかのように。
心の中で、誰に向けるでもなく呟く。
憧れていた、大好きな先輩。
こんなふうに思いたくなんてなかった。
それでも。
止めようとしても止まらない。
どうして。
どうして星野先輩なの。
好きな人が、好きな人を奪っていく。
どうして…………私を選んでくれないの…?
胸の奥で膨らみ始めた嫉妬と憎しみは、もう、自分でもどうすることもできなくなり始めていた。
「……ふ……」
息を吸った瞬間、喉の奥が震えた。
ぼろり、と。
一粒の涙が頬を伝い、制服の胸元へ落ちる。
その温かさに気付いた途端、堰を切ったように涙が溢れ始めた。
その時。
「また呼び出しちょーしんどー」
「んとにうざいよねー」
雫の横を、職員室へ向かう生徒が横切った。
ハッと我に返る。
「…っ」
慌てて制服の袖で涙を拭う。
けれど、一度溢れてしまった涙は、まるで壊れた蛇口のように止まってはくれない。
ダッ────
雫は弾かれたように駆け出した。
廊下を走る。
放課後の校舎は、生徒たちの笑い声で溢れていた。
部活動へ向かう掛け声。
友達と帰る約束を交わす声。
写真を撮り合う笑顔。
卒業や進級までの、残りわずかなクラスメイトとの時間を惜しむように、どこもかしこも明るい空気に包まれている。
その中を、雫だけが俯いたまま駆け抜けた。
誰にも顔を見られたくない。
誰にも声を掛けられたくない。
教室の前を。
長い廊下を。
昇降口を。
玄関を。
涙で滲む視界のまま走り続ける。
頬を撫でる冬の風は痛いほど冷たい。
それなのに、頬を伝う涙だけは熱く、次から次へと溢れてくる。
袖で乱暴に拭っても、すぐに新しい涙が滲んだ。
そのままアプローチ広場を駆け抜けようとした──その時。
「…………っっっ!!!」
心臓が、凍りつく。
視線の先。
正門へ向かって歩いていく三人の後ろ姿が目に飛び込んできた。
蒼太と咲。
そして、その隣には────
(………朔也くん……っ)
足がピタリと止まった。
世界がぐらりと揺れる。
さっきまで必死に走っていたはずなのに、急に身体から力が抜けていく。
胸の奥で押し込めていた痛みが、一気に込み上げた。
もう、あの背中を見るだけで苦しい。
声を聞くだけで胸が潰れそうになる。
「……っ」
雫は、反射的に踵を返した。
人混みとは反対方向へ走り出す。
もう何も考えられない。
ただ、この場所から離れたい。
彼のいる場所から、一秒でも早く逃げ出したかった。
息が切れる。
涙で前が見えない。
それでも足だけは止まらなかった。
やがて。
辿り着いたのは、人の気配も笑い声も届かない校舎裏だった。
冬枯れの木々が静かに並ぶ、小さな裏庭。
誰も座っていない古いベンチ。
風に舞い上がった枯れ葉が、乾いた音を立てながら石畳を転がっていく。
校舎から聞こえてくる賑やかな笑い声だけが、まるで別世界の出来事のように遠く響いていた。
雫はその場でようやく足を止める。
肩で荒く息をしながら、その場へ立ち尽くした。
張り詰めていた心の糸が、ぷつり、と音を立てて切れた気がした。
「……っ……ぅ……」
喉の奥で押し殺していた嗚咽が、小さく漏れる。
それをきっかけに堪えていた涙が一気に溢れ出した。
誰もいない冬の裏庭へ。
雫の嗚咽だけが、静かに冷たい空気へ溶けていく。
涙は止まらない。
何度袖で拭っても、新しい涙が次から次へと溢れてきて、視界を滲ませる。
ふと。
ぼやけた視界の先に、一つのバスケットボールが転がっているのが見えた。
誰もいない裏庭の隅。
ぽつん、と取り残されたそのボールは、まるで持ち主を待ち続けているようだった。
誰にも拾われず。
誰にも必要とされず。
冬の冷たい風に吹かれながら、ただ静かにそこへいる。
それは。
一人ぼっちで。
誰にも選んで貰えない、自分のようで。
可哀想だった。
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「…………。」
雫はゆっくりと歩み寄ると、震える指先でボールへ触れた。
ひんやりと冷え切った感触が、掌へ伝わる。
そのまま両腕でそっと抱き寄せた。
まるで、置き去りにされたその寂しさを、自分が少しでも温めてあげたいと願うように。
ぎゅっと力を込める。
すると不思議なことに、抱きしめているはずのボールが、今度は自分の空っぽになった胸を埋めてくれているような気がした。
張り詰めていた心が、その温もりを求めるように縋りつく。
もう立っていられなかった。
その場へ力なく座り込み、ボールを胸へ抱き締めたまま顔を埋める。
「……っ……ぅ……ぁ……」
堪えていた嗚咽が、とうとう溢れ出した。
肩が震える。
息がうまく吸えない。
涙が止まらない。
誰もいない冬の裏庭で、雫は子どものように声を上げて泣き続けた。
好きだった。
本当に、本当に大好きだった。
胸が苦しくなるほど。
毎日顔を見るだけで幸せで。
名前を呼ばれるだけで嬉しくて。
隣を歩けるだけで、この恋は世界一幸せなんだと思えた。
──本当は。
最初から分かっていた。
彼の一番好きな人が、私じゃないことくらい。
十八年間、たった一人を想い続けてきた人。
その心の深さなんて、誰よりも知っていた。
それでも。
止められなかった。
どうしても好きだった。
信じたかった。
想い続けていれば。
真っ直ぐに、「大好き」を伝え続けていれば。
いつか振り向いてくれると。
いつか一番になれると。
いつか、この手を選んでくれる日が来るのだと。
この先の未来も、ずっと一緒に歩いていけると。
そう、信じてた。
「…ぅあぁー…ふ…っ…あぁぁーーー……」
抱きしめたバスケットボールへ、行き場を失った想いをすべてぶつけるように。
まるで、この温もりだけは失いたくないと縋りつくように。
両腕へ込める力は、震えるたびに少しずつ強くなっていく。
堰を切ったように溢れ続ける涙は、抱き締めたボールを静かに濡らし、その冷たい表面へ次々と染み落ちていった。
冬の裏庭には、雫の嗚咽だけが途切れることなく響いている。
その泣き声は、恋を失った少女の心が崩れていく音にも、もう二度と戻らない幸せへ縋る祈りにも聞こえた。
誰もいない冬空の下。
雫は壊れた心を抱えたまま、ただ声が枯れるまで泣き続けることしかできなかった。




