第176話 むすぶ手の雫に濁る山の井の あかでも人に別れぬるかな
冬の夕暮れは、あまりにも早い。
ついさっきまで校舎を茜色に染めていた西日も、気づけばすっかり姿を消し、窓の外には群青色の空が静かに広がっている。
そんな中、不意に弾んだ声が響いた。
「朔也くんっ!」
聞き慣れたその声に、朔也はゆっくりと顔を上げる。
視線の先。
そこには、並んで歩いてくる二人の姿があった。
「……………また手ぇ繋いでる……」
陽向と、雫。
自然に重ねられた手と手。
ぎゅっとしっかり握られたその繋ぎ方は、まるで恋人同士のようでもあり、誰より大切な存在へ甘える子どものようでもあった。
その瞬間、胸の奥へ鈍い痛みが走る。
─────ズキッ
思わず視線を逸らしたくなるほど苦しいのに、それでも目だけは二人から離せなかった。
雫が、どれほど陽向を大好きか。
そんなことは、もう嫌というほど知っている。
陽向の話しをする時の嬉しそうな笑顔。
陽向の隣へ並べるだけで幸せそうに緩む頬。
少しでも会話出来れば、それだけで胸を弾ませる姿。
全部、知っている。
だからこそ、胸が締め付けられる。
(……もし…)
ふと、頭の奥で考えてしまう。
もし自分が雫と別れて、その後陽向を選んだら。
雫は恋人を失う、それだけじゃない。
ずっと慕ってきた、大好きな先輩まで失うことになる。
自分が大好きだった二人が、いつの間にか自分だけを置き去りにして結ばれる。
そんな現実を目の当たりにしたら───
きっと雫は、自分が裏切られたと思うだろう。
恋人も。
憧れの先輩も。
一度に失ってしまう。
それはまるで、自分が雫からすべてを奪ってしまうようなものだった。
(…そんなこと……)
呼吸が浅くなる。
苦しくて、息が詰まりそうだった。
だから。
たとえ雫と別れたとしても。
陽向へは絶対に手を伸ばせない。
こんな形で雫を傷つけて、陽向が俺を受け入れるわけがない。
陽向とは今まで通り、何もなかった関係を続けるしかない。
朔也はゆっくりと息を吸い込んだ。
陽向と朔也の視線が重なる。
ほんの一瞬だけ目が合った陽向は、弾かれたように目を逸らす。
気まずそうに視線を泳がせ、小さく表情を強張らせた。
あの大喧嘩の告白が、二人の間へ見えない壁を作ってしまっていた。
もうこれまでみたいに、只の幼馴染として何気なく笑い合える距離じゃない。
幼い頃から当たり前だった距離は、たった一晩で壊れてしまった。
その時。
「わ、私…!」
張りつめた空気を壊すように、陽向が慌てて声を上げる。
「このあとバイト入れてて……遅刻しそうだから駅までガンダするね!(ガンダッシュ)」
言いながら、自分でも少しだけ声が上擦っていることに気付く。
この二人の前へ、自分が立っていること自体が耐えられなかった。
「えぇーっ!そうなんですかぁ〜?」
雫は目に見えて肩を落とした。
せっかく三人で帰れると思っていたのに。
また、この人が胸を痛める可愛い表情が見られると思って喜んでいたのに。
しょんぼりと垂れた肩が、まるで子犬のよう。
「うんっ!ごめんね!また明日ね!」
そう言い残すと、陽向は逃げるように下駄箱へ駆け込んでいった。
その足取りは慌ただしかった。
まるで、その場から一秒でも早く逃げ出したいかのように。
その姿を、朔也は何も言わず見送る。
あまりにもわかりやすい態度。
自分のことを避けた、ということは分かりきっている。
そんな思いが胸の奥へ重く沈んでいったものの、雫と二人で話がしたかったから都合が良かった。
やがて雫も下駄箱でローファーへ履き替え、小走りで戻ってくる。
「行こっ!」
いつもと変わらない、柔らかな笑顔。
その笑顔を見るたびに、胸が痛む。
二人は並んで校門を出た。
吐く息は白く、夕暮れの冷たい空気へゆっくり溶けていく。
駅まで続く見慣れた一本道。
歩道脇の街路樹は葉を落とし、冬の風に枝先だけが小さく揺れていた。
「今日の役員会議、早く終わった!」
「そうだな。」
「阿久津先輩が、3年生はもうすぐ卒業だから居残りなんかしないで“恋と青春して下さい”って!もー笑っちゃったよ〜」
雫は楽しそうに笑う。
嬉しいことがあるたび、ころころと表情を変えながら話す癖。
話しながら、時折こちらを見上げる仕草。
冷えた手を両手で包み込んで、温めるように摩ってくれる優しさ。
その全部が、愛おしかった。
こんな何気ない帰り道。
何度歩いただろう。
隣に雫がいることが、当たり前になっていた。
この時間が、ずっと続くものだと思っていた。
(………っ…)
心臓の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
苦しい。
あまりにも苦しい。
手放したくない。
この笑顔も。
この声も。
この温もりも。
全部、このままでいてほしい。
そう願う自分がいる。
けれど。
その隣に立ち続ける資格なんて、もうない。
結局、陽向を忘れられなかった。
雫を好きになった。
大切にしようと決めた。
それも全部、本当だった。
だからこそ。
こんな中途半端な気持ちのまま、雫と一緒に居続けることだけは許されない。
雫は。
もっと一途で。
もっと真っ直ぐで。
自分だけを見てくれる男と恋をするべきだ。
俺なんかじゃない。
俺なんかより、もっと大切にしてくれる人が必ずいる。
もっと、もっと。
雫だったら、幸せになれる。
全身が張り裂けそうになる。
喉の奥が詰まり、息がうまく吸えない。
何度も口を開こうとしては閉じる。
言え。
言わなきゃ駄目だ。
逃げるな。
そう自分へ何度も言い聞かせる。
朔也は小さく唇を噛み締めた。
そして。
覚悟を決めるように、ゆっくりと息を吸う。
「…………雫。」
その一言は。
これまで何百回と呼んできた名前なのに。
喉の奥へ鉛を押し込まれたように重く、口にするだけで視界が滲む。
「んー?」
弾むような返事が返ってくる。
何も知らない、いつも通りの声。
その無邪気さが、胸を容赦なく締め付けた。
冬の夕暮れ。
駅へ続く歩道を行き交う人々が、二人の脇を足早に通り過ぎていく。
朔也は、その場でゆっくりと足を止める。
「…………。」
言葉が出ない。
胸の中では、何度も繰り返し覚悟を決めてきたはずなのに。
いざその瞬間になると、喉が固く閉ざされてしまう。
雫が不思議そうに立ち止まり、振り返る。
「朔也くん?」
パッチリとしとした大きな瞳が、真っ直ぐ自分を見上げていた。
その瞳には、不安も疑いもない。
ただ、大好きな恋人を見つめる優しい光だけが宿っていた。
その視線が痛い。
心が、壊れそうになる。
それでも。
もう逃げることだけは、できない。
自分の不誠実さに決着をつけ、これ以上雫を傷つけないために。
朔也はゆっくりと息を吸い込み、震えそうになる声を必死に押さえ込む。
「………………………別れよう。」
静かに告げられたその一言は、冬の冷たい空気を裂くように、はっきりと二人の間へ落ちた。
風の音だけが耳をかすめる。
車が通り過ぎる音も、人々の話し声も、遠く霞んで聞こえた。
「…………。」
雫は動けなかった。
世界が、一瞬だけ止まったようだった。
自分は今、何を言われたのだろう。
頭が理解を拒む。
数秒前まで当たり前だった日常が、音もなく崩れていく感覚だけが胸を満たしていた。
「…………え…………どゆこと…….?」
ようやく零れ落ちた声は、小さく震えていた。
意味が分からない。
別れる?
誰と誰が?
自分たちが?
頭の中で言葉だけが何度も空回りし、現実へ繋がらない。
「………いきなりで………本当にごめん。」
朔也は視線を合わせられないまま、小さく呟く。
その謝罪が、かえって現実味を帯びさせた。
「ちょっと待って…変な冗談やめて…?」
雫は乾いた笑みを浮かべようとする。
「嘘だよ」って言ってくれる。
そんな期待が、まだどこかに残っていた。
「ドッキリにしても…全然笑えないんですけど…」
声の震えが隠せない。
胸の奥で、嫌な鼓動だけがどんどん速くなっていく。
「…………………ごめん。」
朔也は、ただ謝ることしか出来なかった。
その一言で、雫の中の何かが音を立てて崩れ始める。
ありえない。
どうして。
なんで急に。
こんなにも突然。
彼は私に夢中だったはず。
昨日まで、あんなに優しかったのに。
他には何も目に入らないほど。
毎日のように会いたがって。
いつも私を求めていた。
手を繋いで。
抱きしめて。
「可愛い」って笑ってくれて。
あんなに真っ直ぐ自分を見てくれていた人が。
どうして、こんなに突然───
「………なんで?」
一体、彼の身に何が起きたんだろう。
「………雫は悪くない。俺の…問題だから……」
「私は理由を聞いてるんだよ。」
雫は一歩、朔也へ近付いた。
瞳が潤み始める。
「誰のせいとか、誰の問題とかじゃなくて。」
震える声で、それでも真っ直ぐ朔也を見つめる。
「…なんで……別れるの…………?」
「………っ…」
長い沈黙。
朔也は奥歯を噛み締めた。
陽向の名前は出せない。
ありのままを伝えたら、陽向と雫の関係は壊れてしまう。
どこまで、どうやって伝えたら良いかを悩む。
好きな人がいると、名前を伏せて伝えるにしても。
あまりにも納得出来ないだろうと、予想が出来てしまう。
何を言っても傷つける。
何も言わなくても傷つける。
答えが見つからないまま、時間だけが静かに流れていく。
その沈黙を前に、雫は必死に理由を探し始めていた。
(…まさか…………)
あまりにも突然の心境の変化。
昨日まで何も変わらなかった。
こんな急激に気持ちが変わるなんて、普通じゃない。
最近起きた出来事。
二人の間に割って入るような出来事。
思い当たるものは、一つしかなかった。
(…私と星野先輩の関係が…バレた……?)
胸が凍りつく。
あの時のキス。
誰にも言えず胸へ抱いていた想い。
あの秘密を。
朔也くんは、星野先輩から聞いてしまったんじゃないか。
血の気が、すっと引いていく。
(どうしよう……やり過ぎた…!)
心臓が激しく脈を打つ。
震える唇をゆっくりと開き、恐る恐るその名前を口にした。
「…星野先輩………?」
「………っっっ!!!」
その一言に。
朔也の心臓が大きく飛び跳ねた。
図星を突かれたように、全身が硬直する。
呼吸さえ、一瞬止まった。
「……星野先輩のことが……好きって気付いた……?」
震える声だった。
恐る恐る紡がれたその問いは、冬の冷たい空気を震わせながら、静かに朔也の胸へ届く。
「…………。」
朔也は、目を見開いた。
息を呑む。
その一言だけで、頭の中が真っ白になった。
(雫は……)
朔也の胸が、大きく脈を打つ。
(朔也くんは……)
雫もまた、息を止めたまま朔也を見つめていた。
(俺がひなを好きだと…知っている……?)
(私が星野先輩を好きだと…知っている…?)
同じ沈黙。
同じ動揺。
けれど、その胸に浮かんでいる”真実”だけが、まるで噛み合っていなかった。
二人とも、相手が自分の秘密を知ってしまったと思い込んでいる。
だからこそ、言葉が出ない。
静かな沈黙だけが、二人の間へ重く降り積もっていく。
やがて朔也は、小さく目を閉じた。
諦めたように、長く息を吐く。
白い吐息が夜の入口へゆっくりと溶けていった。
雫は、とっくに気付いていた。
今さら取り繕ったところで意味はない。
変に嘘を重ねれば、それこそ雫をもっと傷つけるだけだ。
だったら、せめて。
ちゃんと自分の口で伝えよう。
朔也は拳をゆっくり握り締めた。
震える喉を何とか動かしながら、静かに口を開く。
「…………ずっと、ひなが好きだった。」
その一言を口にした瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れ落ちた気がした。
「物心つく前から……18年間。」
掠れた声が、冬の夕暮れへ静かに消えていく。
「………………え……?」
雫の思考が、再び止まった。
耳へ届いた言葉を、頭が理解できない。
ひなが好き。
その言葉だけが何度も何度も頭の中で反響していた。
朔也は俯いたまま続ける。
「何回も諦めようとした。」
ゆっくりと唇を噛む。
「あいつは無理だって…自分に言い聞かせて.何回も忘れようとした。」
自分を嘲るような、壊れそうな笑みだった。
「だけど……っ……」
声が震える。
喉が詰まり、言葉が途切れる。
胸の奥へ押し込め続けた十八年分の想いが、少しずつ溢れ出してしまう。
「……どうしても……消えてくれねぇから……っ」
その一言を絞り出した瞬間、朔也はゆっくりと目を閉じた。
悔しかった。
忘れられなかった自分が。
雫を好きになったことも嘘じゃない。
大切にしたいと思った気持ちも、本物だった。
それなのに。
心の一番奥だけは、最後まで陽向のままだった。
そんな自分が、どうしようもなく嫌だった。
「……こんな最低な気持ちのまま……」
震える息を吐く。
「このままずっと、雫を彼女にしてて……いいわけがない。」
「…………。」
雫は何も言えなかった。
胸の奥で、点と点が静かに繋がっていく。
違った。
私は勘違いしていた。
朔也くんは。
私が星野先輩を好きだと気付いたんじゃない。
────自分が、星野先輩を好きだということに、気付いてしまったんだ。
その事実が、胸へゆっくりと沈んでいく。
十八年間、星野先輩へずっと片想いをしていたことは最初からわかっていた。
それでも。
付き合っているうちに、私を一番好きになってくれたと思ってた。
あんなに言ってくれた。
可愛いって。
大好きって。
ずっと一緒にいたいって。
苦しい。
悲しい。
悔しい。
それ以上に。
今まで自分へ向けられていた笑顔や「好き」という言葉、そのすべてが、本当は星野先輩を忘れるためのものだったのではないか─────
そんな考えが、一瞬で胸を支配する。
喉の奥が熱くなる。
涙が滲む。
唇から零れ落ちたのは、たった一言だった。
「…………最低。」
震える声は、泣き声にも似ていた。
「…この世で一番………愛しるって……」
ぼろりと、堪えていた涙がとうとう頬を伝って零れ落ちる。
「雫がいないと…生きていけないって……!」
震える肩。
掠れていく声。
あんなに縋りついて。
藁にもしがみつくように。
私に全てを捧げてた。
「ずっと………一生…側にいるって…離れないって……」
胸の奥へ、大切にしてきた言葉たち。
その一つ一つが、今は鋭い刃となって心を切り裂いていく。
まさか、こんな事になるなんて。
「あんなに言ってたじゃんっっっ!!!」
悲鳴のような叫びが、冬の夜道へ響いた。
吐き出された白い息は、涙混じりの嗚咽とともに闇へ溶けていく。
頬を伝う涙は止まらない。
次から次へと溢れ、視界は滲み、街灯の光まで歪んで見えた。
「…っ………」
朔也は、心臓がぐしゃっと握り潰されるようだった。
ずっと雫が、確かに心の支えだった。
苦しくて押し潰されそうな日も。
陽向への想いを忘れようともがき続けた時間も。
その全部を救ってくれたのは雫だった。
雫がいないと、耐えられなかった。
雫を失うなんて、考えたくもなかった。
軽く扱っていたわけじゃない
全部、本心だった。
本気で大切で、愛おしくて、彼女の優しさに救われてきた。
けれど。
そんなことを今さら口にしたところで。
余計に雫を傷つけるだけだとわかっていた。
だから朔也は、何も言えずに俯くことしか出来なかった。
すると。
雫の震える指先が、ゆっくりとスクールバッグへ伸びる。
バッグの金具には、小さなクリアポーチが揺れていた。
透明なビニール素材に、淡いピンク色の縁取り。
手のひらほどしかない、小さなポーチ。
けれど、その中には雫にとって世界で一番大切な宝物が入っていた。
透明だからこそ、中身はいつでも見える。
ころん、と転がる色鮮やかなスーパーボール。
二人で浴衣を着て歩いた花火大会。
屋台で夢中になって挑戦したスーパーボールすくい。
子どものようにはしゃぐ雫へ、朔也が優しく袖を持っていてくれた。
あの時のときめきが詰まった、たった一つの宝物だった。
雫はその日から、一度もそれを手放したことがない。
透明なクリアポーチへ大切にしまい、
毎日スクールバッグへ付けて学校へ通った。
歩くたびに小さく揺れて。
光が当たるたび、ころころと転がる。
それを見るで、あの夏の日を思い出せた。
“大好きな人と恋人になれた日”
その幸せを閉じ込めた、小さな宝箱だった。
その金具へ。
雫は震える指を掛ける。
──ブチッ。
乱暴に引きちぎられた金具が、小さく乾いた音を立てると、迷うことなく朔也へ向かって振りかぶった。
「……嘘つきっ……!」
バシンッ!!
クリアポーチが朔也の胸へ勢いよくぶつかる。
軽いはずのそれは。
鉛のような重さを持って、朔也の胸へ突き刺さった。
透明なポーチの中で、スーパーボールたちがコロン、と乾いた音を立てて跳ねる。
まるで。
二人で過ごした思い出そのものが、音を立てて壊れてしまったかのようだった。
雫はしゃくり上げるように息を吸うと、もう朔也の顔を見ていられなかった。
涙で滲んだ視界の向こうで立ち尽くす彼の姿さえ、今は苦しい。
そして──弾かれたように駆け出した。
「雫……!」
呼び止める声が聞こえた気がした。
けれど振り返れない。
振り返ってしまったら。
きっとまた期待してしまう。
「嘘だよ」
そう言って抱き締めてくれるんじゃないかと。
そんな希望だけは、もう抱きたくなかった。
冬の冷たい風が頬を切る。
涙が次から次へと溢れ、街灯の灯りが滲んで揺れた。
苦しくて。
悲しくて。
胸が壊れてしまいそうで。
それでも足だけは止まらない。
逃げるように。
壊れてしまった心を抱えたまま。
雫の背中は、人混みの向こうへ少しずつ小さく消えていった。
残された朔也は、その場から一歩も動けなかった。
追い掛けたい。
抱き締めたい。
泣かせたくなんてなかった。
そんな思いが胸の中で何度も叫んでいるのに、足はまるで地面へ縫い付けられたように動かなかった。
追い掛ける資格なんて、そんなの自分にあるわけない。
雫の姿が夜の街へ完全に溶けて見えなくなっても、朔也はしばらくそこへ立ち尽くしたままだった。
冬の風だけが静かに吹き抜ける。
足元には、雫が投げつけたクリアポーチが転がっていた。
透明なビニール越しに見える色とりどりのスーパーボール。
街灯の光を受けて、ころり、と一つ転がるその鮮やかな色だけが、あの日の幸せを残酷なほど鮮明に映し出していた。
その光景を見つめたまま、朔也はゆっくりと目を閉じる。
雫はきっと、自分を許さないだろう。
あんなに最低な傷つけ方をした。
自分ですら、自分の事を許せない。
もう自分には。
幸せな恋なんてする権利はない。
雫を不幸にしておいて、自分だけが幸せになっていい筈がない。
どんな孤独も。
どんな報いも。
どんな罰も。
当然に受けて然るべきなのだから。
胸の奥では、もう二度と戻らない何かが、静かに崩れ落ちる音だけが鳴り続けていた。




