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セカンドシーズン ─好きな人を、真っ直ぐに。─ 〜第三章〜高3編〜【最終章】  作者: 波方 真季


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第175話 伊勢物語の男と女


星野家のリビング。


ダイニングテーブルを挟み、向かい合うように座るのは二人の母親。


その正面には、まるで職員室へ呼び出された問題児のように、横並びで座らされている二人の高校生──



朔也と陽向。



その距離は近いはずなのに、心の距離だけは果てしなく遠い。

二人とも腕を組み、お互いが視界へ入らないように反対方向へ、プイと顔を背けている。


つい数十分前まで住宅街で取っ組み合いの大喧嘩を繰り広げていたとは思えないほど静かだったが、その沈黙の奥では、互いの胸の中で煮え立つ感情だけがまだ激しく燻り続けていた。


「いつまでも小学生じゃないんだから!」


陽向の母、早苗が呆れ返ったように声を上げる。


「あんた達、高校生になってまで取っ組み合いの大喧嘩なんて!そんなこと一体何歳まで続けんのよ…もうすぐ大学生でしょ?」


幼い頃から二人を見てきた。


仲良く遊んでるかと思いきや、いつの間にか掴み合いが始まり蹴ったり殴ったり。

そんな場面を何度これまで世話してきただろう。


その隣では、朔也の母、美紗も深いため息をついた。


「こんな夜に家の前で大声張り上げて…ご近所迷惑とか考えなさいよ。もう子供じゃないんだから」


叱られている本人達はというと───


「……。」


「……。」


ムッス〜


として、返事すらしない。


朔也は頬杖をつきながら、不機嫌そうな表情。

陽向も唇を尖らせたまま、小さく頬を膨らませていた。

二人とも反省しているのかしていないのか分からない、不貞腐れた態度である。


早苗はそんな二人を交互に見つめ、大きく肩を落とした。


「まったく……なにをそんなに揉めてるわけ?」


その問い掛けに、陽向は少しだけ視線を伏せる。

頭の中には、さっきの出来事がまだ鮮明に残っていた。


胸の奥が、またじくりと痛む。


「朔也が…平気で彼女を裏切るようなこと言うから……朔也の彼女は私が可愛がってる大切な後輩だったからつい。」


すると、隣から即座に低い声が飛んでくる。


「お前、自分を正当化すんじゃねぇよ。都合のいいように言ってんじゃねぇぞ」


朔也は眉間へ深い皺を寄せたまま、横目で睨んだ。


「正当化ってなに!?事実じゃん!!」


「自分のこれまでの行動を振り返れよ!!」


「人のせいにすんなよ!!」


「てめーに非はねぇのかよ!!」


売り言葉に買い言葉。

一瞬で火が点いた。


ガタンッ──!


「ざけんな!」


「調子乗んなよ!」


二人はほぼ同時に、反射的に互いの胸ぐらへ手を伸ばす。

その瞬間だった。


「コラーーーーーッ!!やめんかーーーい!!!!」


早苗の雷のような怒号が、リビングいっぱいに響き渡った。


ソファで丸くなって眠っていたレオが、ビクッと身体を震わせ、驚いたように勢いよく顔を上げる。

不安そうに「クゥン……」と小さく鼻を鳴らした。


「朔!ひなだって女の子なんだから!そーやって乱暴なことするのやめなさい!!」


美紗が勢いよく立ち上がる。


「ひな!朔はあんたと違って、まだ受験終わってないんだから!只でさえ大変な時期なのに、余計なストレス与えるようなことすんのやめなさい!」


負けじと早苗も立ち上がる。


「……ちっ…」


「はぁ〜〜〜〜」


朔也の苛立だしげな舌打ちと、陽向の不機嫌な溜め息が同時にぴったりと揃った。


長年胸へ秘め続けた片想いを、ぶつけ、ぶつけられた直後とは到底思えない。

恋人同士になるどころか、険悪さだけは過去最高を更新している。


そんな二人の事情など知る由もない母親達は、顔を見合わせながら頭を抱える。


「朔は相変わらずモテモテなのねぇ」


早苗は呆れ半分に笑う。

美紗も続いた。


「そのくせに、ひなに対しては一ミリも女の子扱い出来ないのはなんで?」


その何気ない一言に──


「「…………。」」


二人の肩が、ごくわずかにぴくりと震えた。


つい数十分前。


これまでの人生をひっくり返すような喧嘩告白が振り広げられたばかりだとは、母親二人は夢にも思っていなかった。




───────。




後日──。


二月に入って最初の生徒会役員会議の日。


放課後を告げるチャイムが鳴り終わると、生徒たちは部活動や帰宅の準備を始め、それぞれの目的地へ散っていく。

それまで静かだった廊下は一気に活気を帯び始めた。


そんな喧騒の中、三年四組の扉のから弾むような声が教室内へ響く。


「星野せーんぱいっ!」


その聞き慣れた声に、陽向は友達との会話を止めて顔を上げた。


「しいちゃん…!」


朔也との出来事は、まだ心の奥へ重く沈んだまま、誰にも見えない場所で燻り続けている。


雫の姿を見た瞬間、胸が小さく痛んだ。


陽向は、話していた友達へ「また明日ね!」と軽く手を振ると、机の上に置いていたスクールバッグを肩へ掛け、軽い足取りで雫の元へ駆け寄った。


「生徒会室に行ったら、まだ来てなかったんでお迎えにきちゃいました!」


少し照れくさそうに笑う雫。


胸が高揚する。

雫は、あの日のキスがずっと頭から離れなかった。


「え、わざわざ?」


「1秒でも早く会いたくて。」


穏やかな笑顔の内側では、ようやく会えた喜びに胸が震えるようだった。


「あはは、ありがとっ!」


雫の言葉に、陽向は思わず吹き出した。

雫の素直さと可愛さには、そんな胸の痛みを一瞬で吹き飛ばす程の破壊力がある。


罪悪感を抱えていても、生徒会役員としての時間は待ってはくれない。


「じゃあ行こ!」


「はいっ!」


並んで歩き出す。

雫の胸は、それだけで弾んでいた。


こうして二人だけで歩ける放課後。

他愛もない話をしながら、生徒会室まで向かうほんの数分。

その短い時間さえ、雫にとっては特別だった。


そっと。

雫は自分の右手を伸ばす。


陽向の左手へ、自然に重ねるように。

恋人同士のように絡め合って繋ぎたいわけじゃない。

ただ少しだけ。

触れられたら嬉しい。

そんな小さな願いだった。


けれど、その指先が届くよりも早く──


「あ、1組寄ってさこちゃんに声掛けに行こ!」


握ろうとした陽向の手は、何の迷いもなく廊下の先を指差した。


「………はい…」


返事はした。

けれど、その声はほんの少しだけ沈んでいた。


陽向は気付かない。


そっと手を引っ込めた雫は、伸ばしかけた指を制服の袖口へ隠すように握り締める。


役員会議の日。

陽向は、毎回相田桜子と一緒に生徒会室に入ってくる。

その光景は、もう何度も見慣れているはずだった。


それでも。

胸の奥が、ちくりと痛む。


もちろん、相田桜子が悪いわけじゃない。

陽向が悪いわけでもない。

役員会議の日に声を掛けるのは、きっと当たり前のこと。

頭ではちゃんと分かっている。


それなのに、胸だけは素直になってくれなかった。


(2人が良かったな………)


心の中だけで、小さく呟く。


その声は夕暮れの廊下へ溶けることもなく、誰にも届かないまま、雫の胸の奥へ静かに沈んでいった。


その時。


三年三組の前を通り過ぎ、三年二組が見えてきた、その瞬間。


陽向の足が、ピタリと止まった。


(………待って。)


心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。

この先の数秒後の未来が、一瞬で陽向の脳内でフル再生のように浮かび上がる。


このまま雫を連れて、三年二組の前を通る。

教室の中には、おそらくまだ朔也がいる。

雫の姿が朔也の視界に入る。

当然、教室から出てくる。




バッティングする。




雫の彼氏に告られている。

朔也の彼女とキスをした。

色々と事故っている。




(バリ気まずい!!)


胸が一気にざわついた。


「…あー……てかさぁ〜」


陽向は慌てて表情を取り繕うと、何でもないことのように口を開いた。


「いつも向こうが先に終わればさこちゃんから来るし…」


できるだけ自然に。

できるだけ怪しまれないように。


「まだ教室から出て来てないってことは…なんか取り込み中かもしんないよねぇ〜」 


わざと視線を逸らしながら、思いついたような口調を作る。


「え、そうなんですか?」


「そうそう!」


陽向は慌てて何度も頷く。


「わざわざしぃちゃん付き合わせてまで1組に寄って生徒会室まで遠回りする必要ないし…直で行っちゃおうかぁ〜…」


陽向は、ぎこちない笑顔を浮かべた。

次の瞬間。


「えっ!いいんですかっ!」


雫の表情が、ぱあっと花が咲いたように明るくなる。


「うん。」


陽向も、釣られたように笑顔を返す。


「このまま2人で行こう!」


その笑顔は、廊下と窓から差し込むの柔らかな陽射しよりも眩しかった。


胸が────キュンと高鳴る。


「はいっ!」


雫の胸いっぱいに嬉しさが広がった。

弾むような返事と同時に、雫は思わず陽向の腕へ両腕をぎゅっと絡ませる。


「おわっ。」


突然のことに陽向は目を丸くする。

雫は照れくさそうに笑いながらも、その腕を離そうとはしなかった。


二人だけで生徒会室へ向かう。


ただ、それだけなのに。

雫にとっては、それだけで胸がいっぱいになるほど嬉しかった。


キスをした、あの時から。

雫の胸には、消えない熱が残っていた。


LINEのトーク画面。

文化祭や体育祭で一緒に撮った写真。

日常の生徒会室で何気なく二人で撮影したショート動画。


ベッドの中で、一晩中眺めてる。


次はどんな方法で泣かせようかな。

どんなふうに慰めてあげようかな。


想像しては、眠れなくなって。

胸が震えて、全身が痺れるような感覚に襲われた。


今この瞬間。

腕越しに伝わる陽向のぬくもり。

頬が触れ合うほど近い距離。


夕暮れ色に染まる廊下を並んで歩く、その何気ない数分間が、まるで自分だけに与えられた特別な時間のように感じられた。


一方で陽向は、腕へ絡みつく雫の温もりを感じながら、小さく胸を撫で下ろしていた。


(ふぅ……危なかった〜)


もし、このまま二組の前を通っていたらカオスだったわ。


そう思うだけで、まだ早鐘を打つ心臓はなかなか落ち着いてくれなかった。


夕暮れの長い廊下を、対照的な想いを胸に抱えた二人は、ゆっくりと生徒会室へ向かって歩き出した。



数分後───────。



三年二組の教室には、まだ数人の生徒が残っていた。


机を囲んで談笑するグループ。

受験勉強を続ける生徒。

帰り支度をしながら笑い合う友人同士。

卒業まで残り一か月となった教室には、どこか名残惜しさを含んだ穏やかな時間が流れていた。


その窓際。


夕陽を背中に受けながら、朔也は自分の席へ深く腰掛けていた。


頬杖をつき、ぼんやりと窓の外を眺めている。

視線の先には、オレンジ色へ染まりかけた校庭。

部活動の掛け声が風に乗って微かに届いてくる。


けれど、その景色はほとんど目へ入っていなかった。

頭の中を占めているのは、あの夜のことだけだった。


(……最悪だ…………)


胸の奥で、小さく呟く。

思い返すたび、胃の辺りが重くなる。


告白するつもりなんてなかった。


このまま胸の奥へしまい込んで、一生誰にも言わないまま終わるはずだった。

そうすることが、一番正しいと思っていた。


雫を選んだのは自分だ。


もう戻れない。

戻ってはいけない。

そう何度も自分へ言い聞かせてきた。


それなのに。


(……なんで……………)


陽向を傷付けた。

雫も裏切った。

自分自身も、どうしようもないところまで追い込んでしまった。


小さく息を吐く。

重たい吐息は、夕暮れの静かな教室へ溶けていった。


その時だった。


「てかさ。」


聞き慣れた声が、不意に頭上から降ってくる。

朔也が顔を上げると、いつの間にか教室へやって来た咲が自分の机の横へ立っていた。

鞄を肩へ掛けたまま、不機嫌そうにこちらを見下ろしている。


「また陽向と喧嘩したわけ?」


その一言だけで、朔也の肩がビクリと跳ねた。

まるで図星を突かれた子供のようだった。


「…………喧嘩っつーか……なんつーか……」


言葉が続かない。

歯切れの悪い返事を聞いた咲は、呆れたように眉を下げる。


「君たちさ、顔合わせてもお互いシカトだし、陽向は昼休みも二組に全然顔出さなくなったし!」


大きくため息をつく。


「もぉ~、また?って感じなんですけど!」


「……………」


朔也は黙ったままだった。

何も言い返せない。


二組に来た陽向と教室で目が合っても逸らす。

廊下ですれ違っても言葉を交わさない。

ほんの少し前まで当たり前だった距離が、今ではまるで別人のように遠かった。


咲は肩を竦めながら続ける。


「もうすぐ卒業なんだからさ。最後くらい仲良く高校生活送れないわけ?」


卒業。

その二文字が、胸へ静かに沈む。


あと一か月。

このまま終わるのか。

こんな関係のままで。


そんな思いが胸を掠める。


「…………そんなこと言われても………」


掠れた声しか出なかった。

そんな朔也を、咲の後ろから見つめていた蒼太が小さく口を開く。


「で、今回はどうしたわけ?」


短く問いかける。

朔也は俯いたまま、拳を膝の上でゆっくり握り締めた。


どうせ、この二人には誤魔化せない。

いずれわかってしまう事。

だったら、隠す意味なんてない。


小さく息を吸い込み、意を決した。


「…ひなに………」


その名前を口にした瞬間、胸の奥で心臓が重く脈を打つ。


「告ってしまった。」


「「はぁーーーーーーっ!?!?」」


蒼太と咲の叫び声が、ぴたりと重なった。

教室中へ響く勢いの大声に、朔也は思わず肩を跳ね上げる。


「えぇっ!?ちょ、ちょっと待って……!」


咲は口元を押さえたまま目を限界まで見開き、蒼太は椅子から転げ落ちそうな勢いで身を乗り出した。


「まじっ!?言ったの!?」


信じられないという顔だった。

咲も慌てて両手をぶんぶん振る。


「告ったってどういうこと!?なんで急にそんなことになったの!?」


頭の中が完全に追いついていない。

話が一気に百キロ先まで飛んだような感覚だった。

対する朔也は、気まずそうに苦笑する。


「いや……ほんと……ついうっかり……」


「うっかりで告るやつがいるかーーーーーっ!!!!」


バァンッ!!


咲が勢いよく机を叩いた。

教室に乾いた音が響き渡る。

その横では蒼太も呆れ顔で額を押さえていた。


「いやお前さ……いきなりすぎんだろ」


思わず笑う気力すら失せたように首を振る。


「それで… 陽向はなんだって?」


真剣な表情へ戻る。

その問いに、朔也は静かに目を伏せた。


昨日の陽向の泣き顔が、鮮明に浮かぶ。

胸の奥が、ズキリと痛んだ。


「……もーブチギレ。」


ぽつりと零れた。


「ブチギレ!?」


「なんでそーなんだよ!」


咲は再び目を丸くして、蒼太がすぐさま聞き返した。

朔也は少しだけ間を置き、苦々しく唇を噛んだ。


「…………俺が雫と……付き合ってる状態なのに……」


自分で口にするだけで胸が締め付けられる。


「……”そんなこと言うな”って。」


その言葉が落ちた途端。


「そりゃそーだよ!!何考えてんのっ!!しぃちゃんどうすんのっ!?」


咲が即座に身を乗り出した。

その言葉には、雫を思う焦りが滲んでいた。


一方、蒼太は「はぁ……」と長く息を吐き、椅子の背もたれへ身体を預ける。

腕を組みながら天井を見上げる。


「そうなるか…まぁ、陽向らしいな。」


静かな声だった。


自分がどれだけ好きでも、大切な人を傷つける選択だけは絶対にしないし、それを許さない。

そんな不器用な優しさが、あいつらしいと思った。


「……これからどうすんの?」


静まり返った教室に、咲の声だけが静かに響いた。

その表情からは、さっきまでの勢いは消えている。


「しぃちゃん……何も知らないんでしょ?」


その一言が、朔也の胸へ重く突き刺さった。


「…………はああぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜……」


肺の中に溜まっていた空気を、全部吐き出すような長いため息。


ゴツン。


そのまま力が抜けたように、朔也は机へ突っ伏し額を預けると、鈍い音が静かな教室へ小さく響いた。


朔也は目を閉じる。

頭の中では、二人の笑顔が何度も交互に浮かんでは消えていく。


陽向。


幼い頃から、ずっと隣にいた。

泣いても笑っても、喧嘩しても仲直りしても、そのすべての思い出の中心には、いつも陽向がいた。


何年も何年も胸の奥へ押し込め続けた片想い。

もう届かないと何度も諦めようとして、それでも諦めきれなかった想い。


その気持ちを、ようやく伝えた。

最悪の形ではあったけれど。


もう、一度口から零れ落ちた想いは戻らない。

無かった事にも、出来ない。

これまで通りの幼馴染という関係には、もう戻れない。


──けれど。


脳裏へ、もう一人。

無邪気に笑う雫の顔が浮かぶ。


腕へ抱きついてくる温もり。

照れながら見上げてくる潤んだ瞳。

自分を真っ直ぐに想い続けてくれる、あのひたむきな優しさ。


その笑顔を思い浮かべるだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。


簡単に手放せる存在じゃない。

切り捨てられるような軽い気持ちで今まで付き合ってきたわけじゃない。


大切だった。

本当に、大切だった。

だからこそ、苦しい。


どちらを選んでも、どちらかを必ず傷つけてしまう。


そんな答えしか残されていない現実が、胸へ重くのしかかっていた。


朔也は机へ顔を埋めたまま、ぼそりと呟いた。


「……一夫多妻制を承認してくれないかな……この国。」


教室に、一瞬だけ静寂が流れる。


「ねぇ、ほんと最低なこと言ってるこの人。」


「クズの極み。」


咲が呆れたように言うと、蒼太も即座に切り捨てた。

そんな、冷たい二人の一言に。


「あぁ、そーだよ!!」


ガタンッ!!


朔也は勢いよく顔を上げた。

椅子が大きく鳴り、教室の空気がびくりと震える。


「俺はクズで最低で!!」


拳を強く握り締める。


「可愛い女の子が大好きで!!端から端まで全員と片っ端から付き合いたいと思ってる!!」


半ばヤケクソだった。


「男の最大の欲望に、誰よりも正直で忠実な!!ダメ男の中のダメ男だーーーーっ!!!」


叫び終えた教室には、妙な静けさだけが残った。


「うわ、開き直った。」


「そこまで清々しく認められると、逆に格好良く見えてくるの不思議だな。」


咲が引いたように一歩だけ身体を引き、蒼太も呆れ顔でため息をついた。


朔也はゆっくりと拳をほどき、再び俯く。

さっきまでの勢いは、もうどこにも残っていない。

肩が、少しだけ小さく見えた。


「…………雫の顔を見ると……」


ぽつり、と零す。

その声は弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。


「……言わなきゃって………ちゃんと話さなきゃと思ってるのに……」


脳裏へ浮かぶのは、何も知らずに笑う雫の顔。


「……どうしても…………言えなくて…………」


胸が痛い。


あんな笑顔を、自分で壊さなければならない。

そう思うだけで、足が止まる。


「……もう…どうしたらいいのか……分かんねぇ。」


掠れた声が静かな教室へ落ちた。


その弱音を聞き終えた蒼太は、腕を組んだままゆっくりと口を開いた。


「その時点で、もうお前の中で答えは出てる。」


「……!」


朔也が顔を上げる。

蒼太の視線は真っ直ぐだった。


「どっちを選ぶかで悩んでるんじゃない。そんなの、本当は最初から決まってる。」


強い声だった。

一言一言が胸へ深く刺さる。


教室に夕陽が差し込む。

その光の中で、蒼太はゆっくりと言葉を続けた。


「だから、お前のやることは一つしかない。自分でもとっくに分かってんだろ。」


その一言で、朔也の肩がぴくりと震えた。

蒼太は言い切る。


図星だった。


「…………。」


長い沈黙。

朔也は目を閉じ、深く息を吐いた。


「…………わかってる。」


胸の奥が、ズキリと痛む。


それでも、もう逃げるわけにはいかない。


ゆっくりと顔を上げた朔也は、自分自身へ言い聞かせるように、小さく呟いた。


「…………雫とは……別れるよ………」


胸の底に、重たい鉛が沈むように。

その声は、どこか諦めにも似ていた。


蒼太は、嬉しそうに息をつく。


「んとに…お前らは。」


椅子の背もたれへ身体を預け、頭の後ろで両手を組む。




「伊勢物語の男と女だな!」




伊勢物語の中でも、よく知られた一篇──“筒井筒”。


昔、幼なじみの男の子と女の子がいた。

二人は井戸のそばで遊びながら育ち、お互いの背比べをするほど仲が良かった。


やがて大人になり、二人は夫婦になる。


しかし、恋多き夫は別の女性のもとへ通うようになってしまう。

妻は悲しい気持ちを抱えながらも、夫を責めたり引き止めたりせず、静かに待ち続けた。


ある日、夫は浮気相手の女の家へ向かう途中、妻が詠んだ和歌を耳にする。


「風吹けば 沖つ白浪 たつた山 夜半にや君が ひとり越ゆらむ」


(風が吹いて白波が立つような夜に、あなたはたった一人で竜田山を越えて行くのでしょうか。)


その歌には。


「危ない夜道だけど、あなたのことを心配しています。」


という、夫を責めるのではなく思いやる妻の気持ちが込められていた。


夫はその一途な愛情に心を打たれ、


「自分はなんて浅はかなことをしていたのだろう。」


と深く反省する。


そしてその後は、二度と浮気相手の女のもとへ通わなくなり、妻だけを大切にするようになった。




高校一年生。

定期テスト期間。


放課後のディンバードーナツ。

参考書やノートを机いっぱいに広げながら、みんなで古典の勉強をしていた、あの日。


(でもさ、この男が朔也なら、将来朔也の妻になる女は陽向じゃね?だってこの2人、幼なじみなんだろ?)


(は?幼なじみとくっつくとかフィクションだから)


(こいつがこの“伊勢物語”みたいに、こんなに健気で奥ゆかしい女なわけないだろ!!)


(はぁ!?私はあんたと違って一途ですから!!)


その時の陽向の、むきになって言い返す顔まで、昨日のことのように思い出せる。


「だから………」


朔也は、フッと静かに笑った。 





「あいつは伊勢物語の女みたいに、健気で奥ゆかしくねーんだよ!」





そう言いながらガタンッと立ち上がると、制服のポケットからスマホを取り出した。

教室の出口へ歩き出しながら画面を開くと、トーク一覧の一番上には、雫とのLINEが表示されていた。


胸の奥が、また痛んだ。


それでも迷いを振り切るように文字を打つ。




“昇降口で待ってる”




送信ボタンを押すと、小さな送信音が静かな教室に響いた。

スマホをポケットへしまい込む。


夕陽が差し込む教室の扉を開けると、冬の冷たい空気が頬を撫でた。

長く伸びた自分の影を見つめながら、朔也はゆっくりと廊下へ足を踏み出す。


その足取りは重い。

それでも、一歩ずつ。


もう後戻りはできない現実へ向かって、静かに歩き始めた。







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