第174話 特大ダイナマイト、大爆発
「……鷹井綾真って………なんで振ったの?」
朔也の静かな問いに、陽向は小さく息を止めた。
「……………。」
陽向は、答えない。
答えられるわけがない。
それを問いかけている張本人が、原因なのだから。
朔也は、そんな陽向から目を逸らさない。
「結局、藤崎先輩が忘れられなかったから、一緒にいるのがしんどくなった?」
責めたいわけじゃない。
怒っているわけでもない。
ただ、知りたかった。
ずっと胸の奥へ引っ掛かっていた答えを。
「………違う。」
「じゃあ忘れた?」
朔也は、ひとつひとつ。
陽向の気持ちを、丁寧に確かめていくように質問を投げていく。
胸の奥で、いくつもの想いが絡まり合う。
朔也の事が好き。
でも、俊ちゃんのことを忘れたわけではない。
忘れることなんて出来ない。
「…………それは流石に無理だけど…」
その一言を聞いた瞬間、朔也は小さく息を吐く。
その言葉には、本当につくづく腹が立つ。
ほら、やっぱり。
もうそのひと言に尽きる。
「お前って、本当執念深い女だな。」
呆れたような声だった。
この苛立ちをぶつけるように、朔也の言葉が強くなる。
「いい加減に忘れて次行けば?」
「…!」
その言葉は、陽向の胸へ鋭く突き刺さる。
「…っ………私だって…!」
思わず顔を上げる。
揺れる瞳には、今にも零れそうな涙が浮かんでいた。
「出来ることなら……そうしたいよ……!」
震える声が夜の住宅街へ滲む。
誰よりも。
自分自身が、一番そう願っていた。
新しい恋をして。
ちゃんと、真っ直ぐに好きだと言ってもいい人と。
もう苦しまなくて済む人生を歩きたい。
毎日、誰かを想って泣くことも。
思い出に縛られて立ち止まることもない。
そんな、ごく普通の幸せが欲しかった。
けれど。
心だけは、どうしても自分の思うように動いてくれない。
好きになってはいけない人。
頭では許されない恋だと分かっている。
もう戻れないことも。
二度とあの頃のような、只の幼馴染みには戻れないことも。
全部、全部理解している。
それなのに。
胸の奥へ刻まれた想いだけは、どれだけ否定してもそこに居座り続けている。
陽向を見つめながら、朔也は肩を竦め、小さくため息をつく。
「そんな執念深いお前には……到底無理だろ。」
その一言が、最後の糸を切った。
「……っ」
陽向の瞳から、大粒の涙がぽろりと零れ落ちる。
頬を伝い、街灯の光を受けながら静かに輝いた。
唇が震える。
何かを堪えようとしても、もう抑えきれなかった。
「……私だって……」
掠れた声が、途切れ途切れに漏れる。
「…………ちゃんと……幸せな恋がしたい……」
その願いは、叫びではなかった。
誰かを責める言葉でもない。
何度も胸の奥で押し殺し続けてきた、本当の本当の願いだった。
(…な……っ!)
なんでだ。
なんで、このタイミングで。
なんで、その言葉でいきなり泣くんだ。
朔也は目を見開いたまま、その場に立ち尽くした。
理解が追いつかない。
胸の奥がざわりと波打った。
得体の知れない焦りが、一気に込み上げてくる。
「…っ…あの子が……っ……羨ましい……」
堪えきれなくなった涙と一緒に。
胸の一番奥へ押し込め続けてきた想いが、ぽろり、ぽろりと零れ落ちていく。
陽向の脳裏に浮かぶのは、先ほどの夕暮れの昇降口。
朔也の腕へ嬉しそうに抱きつき、幸せそうに笑っていた雫の姿。
腕を組む距離。
見つめ合う瞳。
何気ない会話。
恋人だけが持つ、自然な空気。
その光景が胸の奥へ焼き付いたまま、どうしても消えてくれない。
思い出すだけで胸が締め付けられる。
痛い。
苦しい。
息が出来ない。
理性で押さえ込んでいた蓋が外れ、心の奥底に沈め続けてきた本音が、涙と一緒に溢れ出していく。
「……朔也の隣で……っ……いつも幸せそうなしぃちゃんが……羨ましい……!」
震える声が夜気へ溶けた、その瞬間。
ドクン────。
朔也の心臓が、激しく跳ねた。
「…………。」
思わず息を呑む。
身体から力が抜けたように、その場で動けなくなる。
視線だけが、泣き崩れる陽向へ釘付けになっていた。
胸が、大きくざわめく。
頭の中で、その言葉だけが何度も反響する。
(……俺の隣が……幸せそう?)
鼓動が速くなる。
息が浅くなる。
さっきまで「俊輔が忘れられない」と思っていたはずなのに。
目の前の陽向は、その言葉とはまるで違う苦しみを抱えて泣いている。
今まで一度も考えたことのない答えが、胸の奥からゆっくりと浮かび上がろうとしていた。
(……俺の隣が…………羨ましい?)
陽向が羨ましいと言ったのは、雫そのものじゃない。
──雫が立っている、その場所…?
自分の隣…?
その瞬間だった。
まるで固く閉ざされていた扉が勢いよく開いたように、胸の奥へ封じ込められていた記憶が一斉に溢れ出す。
(………そこ……….私の席なんだけど。)
ディンバードーナツで、不機嫌そうに雫を睨みつけたあの瞳。
(雫、雫、雫、雫って…なんで朔也はいつもそればっかなんだよっっっ!!!)
感情を抑えきれないようにぶつけてきた、あの叫び。
(……どいつもこいつも、雫ばっかで……キショいんだよ!!!)
泣きそうな顔で吐き捨てた、その言葉。
次々と記憶が繋がっていく。
あの直後だった。
陽向が初めて、自分へあんな切なそうな表情を見せたのは。
あの頃からだった。
陽向が雫に冷たい態度を取り始めたのは。
自分達二人の前から、完全に距離を置いたのは。
今までずっと、藤崎俊輔を忘れられないからだと思っていた。
自分が寂しいから。
自分が受験に追い詰められているから。
生徒会長の仕事で余裕がないから。
雫や自分に八つ当たりしていただけだと。
そう考える方が、ずっと自然で。
ずっと、自分が楽に納得出来たから。
けれど。
もし、違うのだとしたら。
あれは…………何もかも全部、嫉妬だった?
思考が止まる。
その事実が、雷に打たれたような衝撃となって朔也の全身を駆け抜けた。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。
そんな、まさか。
そんなことが、本当にあるというのだろうか。
「ひな…お前…………」
震える声が、掠れるように漏れた。
けれど。
その先の言葉は、どうしても続かなかった。
目の前には。
「…ふ……ひっく………ぐす……」
肩を震わせながら、泣きじゃくる陽向。
堪えようとしても堪えきれず、涙を零し続けるその姿は、あまりにも痛々しい。
(……く……っ…)
胸が締め付けられる。
苦しい。
どうしようもなく苦しい。
(……こいつに……泣かれると……っ……)
理性なんて、もう追いつかない。
泣くな。
そんな顔をするな。
そう叫びたい衝動が、胸の奥から込み上げる。
抱き締めたい。
昔みたいに、「大丈夫だ」と言ってしまいたい。
肩を抱いて。
頭を撫でて。
「俺がいるから」
そんな言葉を、何の迷いもなく口にできた頃へ戻れたなら。
そんな叶うはずもない願いが、胸の奥から激しく込み上げる。
理性が、軋む。
雫の恋人である自分。
陽向は幼馴染。
踏み越えてはいけない一線。
頭では分かっている。
分かっているのに、身体だけは言うことを聞かなかった。
気付けば、身体は勝手に動いていた。
思考が霞んでいく。
足が勝手に前へ出る。
震える肩へ向かって、手がゆっくりと伸びていく。
もう少し。
あと少しだけ近付けば、この小さな身体を抱き締められる。
そんな衝動が、理性を押し流そうとした───────。
その瞬間。
「…しぃちゃんを………大切にしてあげなよ……」
涙で震える声が、静かな夜へ落ちた。
陽向の胸には、優しく、幸せそうに微笑む雫がいる。
守りたい、大切な笑顔。
自分の恋なんて、どうでもいい。
自分が苦しくても構わない。
ただ、二人には笑っていてほしい。
そんな祈りだけを胸へ抱きながら。
「……二人には……幸せになってほしいから…………」
その言葉は、あまりにも優しくて。
あまりにも残酷だった。
伸ばしかけた朔也の手は、まるで見えない鎖で縛りつけられたように空中でぴたりと止まる。
あと数センチ。
届きそうだった距離が、永遠ほど遠く感じた。
(………………は?)
思考が、真っ白になる。
次の瞬間。
胸の奥で押し込め続けてきた何かが、限界を迎えた。
──ブチッ。
理性という糸が、音を立てて切れる。
「ふざけんなよっっっっ!!!!!!」
夜の住宅街へ、怒号が叩きつけられた。
自分でも驚くほど大きな声だった。
胸の奥から溢れ出した感情が、堰を切った濁流のように一気に噴き出していく。
どれだけ人を期待させれば気が済むんだ。
どれだけ勘違いさせて。
どれだけ心を掻き乱して。
そのたびに。
最後には必ず。
突き放して。
絶望させて。
全部なかったことみたいな顔をする。
いつも。
いつも。
いつもそうだ。
何度も、何度も。
毎回、毎回。
もう──いい加減に、うんざりなんだよ!
ガシッ…!
気付けば、身体が勝手に動いていた。
朔也は陽向の胸ぐらを両手で掴み、その小さな身体を強く引き寄せる。
街灯の光に照らされた陽向の肩が、大きく震えた。
「人の気も知らねーで、思わせぶりな事ばっか言ってんじゃねーぞっっっ!!!」
こいつを今すぐ、無理だけど。
可能であれば、ボコボコになるまで殴ってやりたい。
怒りで喉が焼ける。
息が荒い。
心臓は暴れるように鳴り続けていた。
「期待させたり、失望させたり、もううんざりなんだよ!!勘違いさせんのもいい加減にしろ!!」
傷付けたいわけでもない。
ただ。
もう振り回されたくなかった。
期待して。
諦めて。
また期待して。
その繰り返しに、心がとっくに限界だった。
震える細い肩。
泣き腫らした赤い目。
そんな姿を見ているのに、怒りは少しも収まらない。
「は…?え?どういう事…??」
陽向は突然胸ぐらを掴まれ、何が起きたのか理解できないまま目を見開く。
困惑しかない。
怒鳴られる理由が分からない。
朔也が何を言っているのか、本当に理解できなかった。
その反応が。
朔也の火に油を注いだ。
「お前って本当バカなの!?何でわかんねーんだよっ!!!このクソ女っ!!!!」
朔也の頭には血が昇り、もう感情の制御が出来なくなっていた。
陽向は怯えたように首をすくめる。
涙で濡れた瞳が、ただ朔也を見つめ返す。
「意味わかんない…な、なんで怒ってんの…?」
その一言が。
朔也の胸をさらに強く抉った。
「ムカつくんだよ!お前のそーゆうバカなところとか!!」
怒りだけじゃない。
苦しさも。
悔しさも。
何年も押し殺してきた想いも。
全部混ざっていた。
「いつまでたっても藤崎先輩の事しか見てねーで!こんなにずっと一緒にいんのに…!」
血が頭へ上る。
視界が熱で揺れる。
もう、自分が何を言っているのかさえ止められなかった。
「なんで俺の方には!…1ミリも見向きもしねぇんだよっっっ!!!」
言った瞬間、自分でも息を呑んだ。
(……あ。)
時間が、止まったような錯覚。
・・・・・・。
陽向の瞬きが、ぱちり、ぱちり、と二回。
朔也の頭の中が真っ白になる。
さっきまで燃え盛っていた怒りが、一瞬で凍り付いていく。
(言っちゃったーーーーーーーーーーー!!!!!)
もはや自分が何を口走ったのか分からない。
取り返しがつかない。
絶対に口にしてはいけなかった言葉が、とうとう全部飛び出してしまった。
止めようと思っても遅い。
溢れ出した本音は、もう二度と胸の奥へ戻ってくれなかった。
一方の陽向は、ただ呆然としていた。
「…え………期待させたりって…?」
混乱する頭の中で、今の言葉を何度も反芻する。
期待。
勘違い。
見向きもしない。
一つひとつの言葉が繋がらない。
「…は……ちょっと待って……」
震える唇がゆっくり動く。
鼓動が早い。
胸がざわつく。
「……なに………勘違いって…え…ま、まさか…」
恐る恐る。
陽向はゆっくりと顔を上げ、朔也を見つめた。
潤んだ瞳が、小さく揺れる。
そして。
信じられないというように、小さく首を傾げた。
「………誰のこと?」
静寂が落ちた。
冬の夜風だけが、二人の間を静かに吹き抜けていく。
「……………。」
朔也は信じられないものを見るように目を見開いた。
思わず言葉を失う。
そして。
「……はぁ〜〜〜〜?」
思わず力が抜けそうになる。
怒りなのか、呆れなのか、自分でも分からない。
なんでそこで分からない。
なんでそんな顔が出来る。
ここまで言って、まだ伝わっていないのか。
頭が痛くなる。
「こんな事お前に言ってんのに、お前以外誰がいんだよ!バカ!」
その一言が、陽向の胸へ重く落ちる。
「…………」
思考が止まった。
(朔也が……私を…………?)
胸の奥で、心臓が大きく跳ねる。
ドクン。
ドクン。
鼓動は一瞬で速さを増し、耳の奥まで響き始める。
息が浅い。
身体が熱い。
信じられない。
そんなはずがない。
ずっと、あり得ないと思っていた。
兄弟みたいで。
家族みたいで。
自分なんて、恋愛対象になるわけないって。
女の子として見られるはずないって。
だからこそ、その言葉は陽向の心へ、あまりにも大きな衝撃となって押し寄せた。
──けれど。
その熱は、次の瞬間には冷たい何かによって切り裂かれた。
脳裏へ、不意に一人の少女の笑顔が浮かぶ。
朔也の腕へ幸せそうに抱きつき、無邪気に笑っていた雫。
(大好きな朔也くんと……)
その笑顔が、胸へ鋭く突き刺さる。
「……いや……意味わかんない……」
陽向は何度も首を横へ振った。
まるで、その考え自体を振り払うように。
理解しようとしても、何一つ繋がらない。
朔也が自分を好きだった。
そんな言葉と。
今も雫の恋人であるという現実が、どうしても両立しない。
「……じゃあ、なんで…… しぃちゃんと付き合ってんの……?」
その問いは、責める声ではなかった。
純粋な困惑。
胸の中で二つの事実が激しくぶつかり合い、思考は完全に行き場を失っていた。
その問いに、朔也はゆっくりと目を伏せた。
陽向の胸ぐらを掴んでいた手から、少しずつ力が抜けていく。
パッ…と離した。
そのまま、ギリ…と拳を握り締めた。
爪が掌へ食い込む。
胸の奥へ押し込め続けてきた記憶と後悔が、一つひとつ蘇ってくる。
「……ムカついたから。」
低く落ちた声。
「は?」
陽向は目を瞬かせる。
あまりにも予想外の答えに、何を言われたのか一瞬理解できなかった。
「うんざりだったんだよ!お前がいつまで経っても藤崎先輩を全然忘れねぇし!!」
何度期待しても。
何度隣にいても。
陽向の心の中には、いつも藤崎俊輔がいた。
どれだけ笑わせても。
どれだけ近くにいても。
その心だけは、自分には向かない。
そんな現実を突き付けられ続けるたび、胸の奥が削られていくようだった。
「まじで脈ないからムカついた!!」
吐き捨てるような声だった。
苛立ちをぶつけるように。
その直後。
怒鳴っていたはずの顔が苦しそうに歪む。
荒かった呼吸が、少しだけ乱れた。
「だから……」
その一言を絞り出すだけで、胸が痛んだ。
けれど、もう隠すことも出来なかった。
「雫で、お前の存在を消したかった。」
静かな夜だった。
その言葉だけが、住宅街へ重く落ちる。
「…………」
陽向は何も言えなかった。
涙で滲んだ瞳が揺れる。
声が震える。
「……わかんない………まじで意味わかんない……」
朔也が何を苦しんできたのか。
どうして雫と付き合うという結論に至ったのか。
その理屈が、陽向にはひとつも理解できなかった。
私のことを好きだったのなら。
どうして、他の子と付き合うの?
その疑問だけが、胸の中で何度も何度も繰り返される。
涙で濡れた瞳のまま、真っ直ぐ朔也を見つめる。
「……あんたのやってること……最低だよ!!」
震えながら放たれたその言葉は、夜の静寂を真っ直ぐ切り裂いた。
その言葉を真正面から受け止めた朔也の表情が、かすかに歪む。
けれど、もう止まれなかった。
胸の奥へ何年も押し込め続けてきた感情は、一度決壊してしまえば理性ではどうにもならない。
「お前にはわかんねーだろうな!!」
朔也の怒鳴り声が夜空へ響く。
「いつまでも先輩の事が好きで、他のやつと付き合うことなんて微塵も頭にねぇカタブツだもんな!!」
吐き捨てるような声。
悔しさも。
惨めさも。
報われなかった年月も。
全部が濁流のように喉から溢れ出していく。
「お前に未練抱えたまま、雫と付き合ってる俺の気持ちなんか!!」
その言葉を聞いた瞬間。
陽向の胸の奥で、何かがぷつりと音を立てて切れた。
込み上げてくる感情を止められない。
「……だったら……!」
胸が痛い。
息が苦しい。
心臓を素手で締め上げられているようで、まともに呼吸さえできなかった。
「しぃちゃんと付き合わないでほしかったっ!!」
張り裂けそうな叫びだった。
その一言へ込められていたのは、怒りではない。
責める気持ちでもない。
─────だったら、最初から。
私を選んでほしかった。
「…今……あの子と付き合ってるまま……」
喉が震える。
涙で視界が滲み、目の前の朔也の姿さえ揺れて見えた。
「…私に……そんなこと言わないでほしかったっ……!!」
奪いたいわけでもない。
ただ。
そんな残酷なことを言うくらいなら。
好きだったなんて、今さら教えてほしくなかった。
もっと早く。
雫と出会う前に。
たった一度でも、その想いを真っ直ぐ伝えてくれていたなら───────。
叶うことはなかった”もしも”だけが、涙と一緒に胸の奥から溢れ続けていた。
「は…?」
朔也の、呆れたような声が漏れる。
どれだけ、待って、待って、待ち続けて。
どれだけ振り向いてほしかった。
ずっと、ずっと。
陽向だけを見続けてきた。
それなのに。
その瞳に映るのは、いつだって自分じゃなかった。
何度「もう諦めよう」と思ったか分からない。
何度心を殺して、笑ってみせたかも分からない。
それでも結局、最後まで。
一度たりとも、俺を選んでくれなかったくせに。
「勝手なことばっか言ってんじゃねーよ!!」
張り裂けるような怒声が、静かな住宅街へ響いた。
押し殺していた想いが、一気に堰を切る。
「なにが“付き合わないで欲しかった”だ!!」
苦しくて。
悔しくて。
寂しくて。
それでも笑って見送るしかなかった何年もの想いが、怒りへ姿を変えて溢れ出す。
「てめーはどこまで自己中なんだ!!舐めたことばっか言ってっとぶっ飛ばすぞ!!」
陽向の肩が、大きく震えた。
「朔也のばかっっっ!!」
ボカッ
バコッ
頭の中は、ぐちゃぐちゃで。
陽向の両手の拳が、がむしゃらに朔也の胸を強く叩く。
「クズ!最っ低…!!!」
嗚咽に掠れた声が漏れる。
涙で視界は滲み、狙いなんて定まらない。
震える拳がまた振り下ろされる。
その手首を、朔也が咄嗟に掴んだ。
「誰のせいで…っ!」
細い腕が空中で止まる。
強く握られた手首から熱が伝わる。
「クズになったと思ってんだよっっっ!!!」
二人の大声が夜の住宅街へ響き渡る。
胸は激しく上下し、呼吸は乱れていた。
怒りなのか。
悲しみなのか。
自分でももう区別がつかない。
何年も押し殺してきた感情が、一度に噴き出してしまった代償だった。
陽向は掴まれた腕を振りほどこうと必死にもがく。
身体を捻り、止まらないように、もう片方の拳を振り上げる。
「…あんたにそんなこと言われて!!!」
涙が次々と溢れ落ちる。
「私はどうしたらいいんだよーーー!!!」
張り裂けるような叫びだった。
こんなに、好きで。
好きで、好きで、大好きで。
朔也も、自分を好きだと知ってしまって。
それでも、雫を傷つけられるわけがない。
絶望も。
後悔も。
押し殺し続けてきた恋も。
全部がぐちゃぐちゃになっていた。
「知らねーよっ!!いい加減しろよてめー!!」
取っ組み合いの、掴み合い。
二人は大声で叫び合いなから、理性では届かない感情同士が剥き出しのまま激しくぶつかり合っていた。
冬の夜の住宅街。
幼い頃から何年も一緒に育った家の前。
笑い合い、喧嘩し、仲直りもしてきた、思い出が積み重なったこの場所で。
不慮の事故のように投下してしまった朔也の特大のダイナマイトは、幼馴染という穏やかな関係を跡形もなく吹き飛ばしていた。
もうそこにいるのは、幼馴染ではない。
何年もの想いを抱え続け、傷付き続けてきた、一人の男と、一人の女。
誰より近くにいたからこそ、誰より傷付け合ってしまう二人が、感情のまま最悪な形で泥沼の大喧嘩に発展していた。
その時だった。
ガチャッ!!
勢いよく玄関の扉が開く。
「ちょっと!!あんた達何してんの!!」
鋭い声とともに、陽向の母親がサンダルもまともに履かないまま飛び出してきた。
目の前に広がっていたのは、互いの服を掴み合い、大泣きしている娘と、怒りが限界突破している隣家の息子。
その状態で、怒鳴り声をぶつけ合う二人の姿。
一瞬、状況を理解できず息を呑む。
その直後────
ガチャッ!!
隣家の玄関も勢いよく開いた。
「ちょっとうるさい!!何揉めてんの!?」
朔也の母親も慌てて駆け出してくる。
夜の静寂は、すっかり破られていた。
「ひな!!離しなさい!!」
「朔也っ!!落ち着いて!!」
二人の母親がそれぞれの子どもへ駆け寄り、必死に身体を引き離そうとする。
絡み合った腕を一本ずつほどき、押し返し、間へ身体を割り込ませる。
荒い息。
止まらない涙。
震える肩。
二人の激しい息遣いだけが、冷え切った冬の夜気の中へ重く響いていた。




