第172話 愛の暴走は止められない
陽向の胸の奥では、そのキーホルダーの赤いハートが重なるたび、別の光景が何度も浮かんでしまう。
──昨日。
ストーリーテイルパークで、朔也と雫が肩を並べて歩く姿。
笑い合って。
同じ景色を見て。
このキーホルダーを二人で選んでいた時間。
そして今。
その幸せの証を、自分は笑顔で受け取っている。
陽向の胸の奥が、ちくりと小さく痛んだ。
(いつか…大切な人が出来たら……)
朔也への想いを消せないのに。
そんな人なんて、出来るわけがない。
出来る日は、一生来ない気がした。
「……………。」
陽向はゆっくりと視線を落とした。
スクールバックのキーホルダーは、相変わらず可愛らしい。
なのに、その赤いハートだけが、妙に眩しく見えてしまう。
肩が、ほんの少しだけ落ちた。
笑おうとしても、胸の奥へ広がる苦しさまでは隠しきれない。
そんな陽向の様子を見つめながら、雫はふっと目を細めた。
その変化を見逃さなかった瞳が、どこか満たされたように静かに揺れる。
口元が、思わず緩んでいく。
雫は制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
「見て下さい」
嬉しさを隠しきれない様子で画面を開き、そのまま陽向の肩へぴたりと寄り添う。
「いっぱい写真撮ったんですよ♡」
画面いっぱいに映し出されたのは、ストーリーテイルパークの色鮮やかな街並み。
その景色の中で、頬を寄せ合いながら笑う朔也と雫。
一枚。
また一枚。
さらに、もう一枚。
写真をめくるたび、二人の距離は近く。
肩が触れ合い。
自然に手を繋ぎ。
お互いを見つめて笑っている。
眩しいほど幸せそうな表情ばかりだった。
「ほら、動画もこんなにあるんです♡」
画面をタップする。
次の瞬間、生徒会室へ小さなスピーカーから明るい笑い声が流れ出した。
冬の青空の下。
アトラクションではしゃぐ二人。
笑いながら駆け寄る雫。
そのカメラへ向かって、柔らかく微笑む朔也。
名前を呼び合う声。
何気ない会話。
目が合うたびに交わされる笑顔。
動画の中には、二人だけが過ごした幸せな時間が、そのまま閉じ込められていた。
陽向は、ただ黙ってその画面を見つめる。
耳へ届く笑い声が。
楽しそうな声が。
幸せそうな朔也の笑顔が。
胸の奥へ、一つ、また一つと静かに積み重なっていく。
雫は、スマートフォンの画面を指先で軽やかにスクロールしながら、嬉しそうに思い出を語り続ける。
画面には、色とりどりのフロートを背景に肩を寄せ合って笑う二人。
可愛らしいキャラクターフードを並んで頬張る姿。
次の写真には、夜空を彩る鮮やかな花火。
「夜になって急に寒くなっちゃって……」
雫は少し照れたように笑う。
「花火を見ながら私が寒いって言ったら、朔也くん、自分のマフラーを外して巻いてくれて……そのまま、ぎゅって抱きしめてくれたんです。」
幸せそうに目を細めながら話す、その一つひとつが。
まるで昨日という一日を宝物のように抱き締めているかのようだった。
「…………。」
陽向は、小さく息を呑んだ。
胸の奥が、ぎゅうっと締め付けられる。
その言葉が。
その笑顔が。
その写真が。
胸の奥深くへしまい込んでいた、ある日の記憶を静かに呼び覚ましていく。
────ストーリーテイルパーク。
今でも、自分のスマートフォンの写真フォルダには残っている。
同じ場所で。
同じ景色の中で。
幸せそうに笑う、自分と俊輔の写真。
何気ない動画。
ふざけ合いながら歩く後ろ姿。
夜のイルミネーションを背景に寄り添った自撮り。
どれも消せなくて。
消そうと思ったことも、一度もなかった。
あの頃の私は。
彼以外、何も見えていなかった。
隣を歩くのが当たり前で。
笑い合うのが当たり前で。
この幸せが、この先もずっと続いてくれたらいいのにと、本気で願っていた。
時間なんて止まればいい。
そんな子どもみたいな願いさえ、何度も心の中で呟いていた。
あの頃の二人の間には。
誰かが入り込める隙間なんて、一ミリもなかった。
目の前の画面で笑う朔也と雫が、あの日の自分たちと重なって見えてしまう。
幸せそうな笑顔も。
見つめ合う優しい眼差しも。
相手だけを映している瞳も。
全部、あまりにも似ていた。
こんな幸せ、壊せるわけがない。
「……っ」
耐え切れず、陽向はそっと視線を逸らした。
ねぇ。
俊ちゃんが、もしも今でも私の側にいてくれたなら。
今も私は、きっと朔也なんて目に入らなかったよね。
それは。
朔也を好きになってこんなに苦しむことはなかったという。
絶望的なまでの苦しみから生まれた、朔也への溺れるような恋心の自覚。
胸の奥が苦しくて。
このまま見続けていたら、何かが壊れてしまいそうだった。
「……星野先輩?」
雫は小さく首を傾げながら、そっと陽向の横顔を覗き込んだ。
その瞬間。
ドクンッ──────
心臓が、大きく脈打つ。
(……………はぁ…………はぁ…………)
思わず、熱を帯びた吐息が唇から漏れた。
陽向は俯いたまま、小さく唇を噛んでいる。
眉を寄せ。
肩を落とし。
何かを必死に押し殺すように、細く震えていた。
泣きたくないのに、涙だけが今にも零れ落ちそうで。
(…うわぁ…………)
雫は息を呑む。
その表情は、痛みも、苦しみも、寂しさも、全部ひとりで抱え込んでしまった少女の顔。
(…やばい………♡)
雫の全身が、滾るように燃え上がる。
幸福感とも違う。
優越感とも違う。
もっと名前の付けようのない、甘く危うい熱。
心臓が、また大きく鳴る。
ドクン。
ドクン。
その視線は陽向から逸らせなかった。
こんなにも苦しそうで。
こんなにも壊れてしまいそうな顔を。
自分だけが、こんな近くで見られるなんて。
胸の奥から込み上げる震えが、指先まで伝わっていく。
「…どうしてそんなに………泣きそうなんですか…?」
恍惚としながら、声は驚くほど優しかった。
その瞳の奥では抑えきれない熱が静かに揺れていた。
陽向は、ハッとしたように顔を上げる。
「あ…っ」
慌てて表情を整えた。
けれど、一度崩れた表情は上手く戻らない。
視線が頼りなく揺れた。
「…俊ちゃんとパークに行った時のこと…思い出しちゃって………」
陽向の揺れる瞳が、雫の心と視線を奪って離さない。
その揺れる瞳の奥には、まだ消えきっていない喪失と。
今、新しく生まれ始めた別の痛みが重なっているのが分かってしまった。
そして。
陽向は、小さく唇を震わせながら呟く。
「…………幸せそうな二人が………羨ましい………」
ゾクゾクッ──────
理性が痺れるほどの震えが雫の全身を駆け抜けた。
胸の奥がいっぱいになる。
息が苦しい。
苦しいのに、嬉しい。
星野先輩が、苦しんでいる。
その事実だけで、雫の胸はどうしようもないほど満たされていく。
競り上がる、衝動を押さえきれず。
ぎゅうぅ〜っ───────。
雫は勢いよく陽向を抱き寄せた。
「…しいちゃん………?」
耳元で聞こえた小さな声は、どこか頼りなく震えていた。
その温もりを感じた瞬間、胸の奥がじわりと熱くなる。
雫はそっと目を閉じる。
まるで、大切な宝物を抱き締めるように。
けれど胸の奥では。
誰にも知られてはいけない、甘く静かな歓喜だけが、音もなく広がり続けていた。
心臓はゆっくりと熱を帯び、その熱は血液に溶け込むように全身へ染み渡っていく。
腕の中には、震える陽向。
こんなにも近くで、その温もりを独り占めできることが嬉しくてたまらない。
雫は陽向を抱き締めたまま、そっと耳元へ唇を寄せた。
「…………星野先輩…寂しいですか?」
吐息が甘く溶けるほど小さな囁き。
陽向の肩は小さく震えていた。
雫はさらに優しく抱き寄せる。
「苦しいですか…?」
頬を陽向の柔らかな髪へそっと擦り寄せる。
シャンプーの甘い香りが鼻先をくすぐった。
その香りさえ愛おしい。
「辛いですか…?」
抱き締める腕へ、ほんの少しだけ力を込める。
まるで壊れ物を扱うように優しく。
それなのに、その優しさの奥底では、胸の内に潜む別の感情が静かに息を潜めていた。
──可愛い子ほど、泣かせたくなる。
──好きな子ほど、虐めたくなる。
誰にも理解されない。
誰にも知られてはいけない秘密の想い。
この人だけに向けた、歪で、甘く、どうしようもなく醜い愛情。
雫は幸せそうに目を細めた。
「………私が寒くて凍えそうだった時…」
昨日の花火が脳裏へ蘇る。
イルミネーションの光。
白い吐息。
肩へ掛けられたマフラー。
そして、自分を包み込んでくれた、あの温もり。
星野先輩、もっともっと。
虐めていい?
「こうやって朔也くんが私を温めてくれたんです。」
その一言は、静かに。
「……っ」
確実に、陽向の胸へグサリと突き刺さった。
抱き締められた身体が、小さく震える。
その反応が伝わるたび、雫の胸は熱を増していく。
「……だから……」
囁く声は、どこまでも優しい。
「今度は私が……星野先輩を温めます。」
そっと背中へ手を添え、子どもをあやすようにゆっくりと撫でる。
「優しく抱きしめて……その寂しさも、苦しさも……全部、私が温めて…慰めてあげます……」
陽向は何も答えられなかった。
胸が、ズキズキと痛む。
この子はこんなにも、優しくて。
穏やかで。
温かくて。
こんなにも自分を慕ってくれているのに。
この子は何も悪くない。
悪いどころか、誰よりも純粋で。
誰よりも真っ直ぐで。
こんなにも自分を大切に想ってくれている。
その優しさの一つひとつに。
逆に胸を締め付けられてしまう、そんな自分が。
この子の幸せを、心から素直に喜んであげられない自分が。
どうしようもなく嫌だった。
「………………ふ……っ…」
ぽろり、と。
陽向の瞳から、堪えていた涙がとうとう溢れた。
頬を伝った一粒が、静かに制服へ落ちていく。
「…!!」
雫は弾かれたように顔を上げた。
その瞳へ映ったのは、涙で揺れる陽向の泣き顔。
息を呑む。
世界がその一瞬だけ止まったように、その表情へ食らいついた。
(…あぁぁぁ〜〜〜〜……っっっ♡♡♡)
最高。
堪らない。
可愛い。
大好き。
胸がいっぱいになる。
苦しそうに眉を寄せる顔も。
震える睫毛も。
濡れた瞳も。
噛み締めた唇も。
何もかもが、どうしようもないほど愛おしい。
胸の奥で、甘い熱がゆっくりと広がっていく。
誰にも見せたくない。
誰にも触れさせたくない。
このまま、この人をガラスケースに閉じ込めて。
自分の部屋に持ち帰って。
朝も、昼も、夜も。
毎日毎日眺めていられたら、どれだけ幸せだろう。
この泣き顔を、自分だけが眺めていたい。
星野陽向という眩しすぎる光を。
自分だけのものにして。
その光を曇らせることができるのも。
涙を流させることができるのも。
自分だけであってほしい。
そんな許されない願いが、静かに胸の奥で形を持ちはじめる。
(………この人が……欲しい。)
ずっと。
憧れてた。
生徒会長として、全校生徒の太陽でありながら。
誰とでも同じ距離で笑い合ってしまう。
まるで春の陽だまりみたいに。
その人がいるだけで、周りの空気まで柔らかく変わってしまう。
だから、みんな惹かれてしまう。
私が心から愛している朔也くんだけじゃない。
運動神経全校トップの体育祭ヒーロー、鷹井先輩も。
剣道部主将として、一度も公式戦で敗れたことのない剣道界のスター、津堅先輩も。
歩くだけで視線を集める絶対的なマドンナ、一ノ瀬先輩も。
そして有能過ぎると生徒達から憧れられる、生徒会役員の先輩達も。
この学校で”眩しい”と呼ばれる人たちは、みんな星野先輩が好きだった。
心から、羨ましくて。
胸が苦しくなるくらい。
どうして、この人は、こんなにも人々から愛されるんだろう。
私も、あんなふうになれたら。
朔也くんも、私をこんなにも深く、優しく、真っ直ぐ愛してくれたらどれだけ幸せだろう。
そんなことを、何度思ったか分からない。
私はずっと、星野陽向になりたかった。
誰か一人に愛されるだけじゃない。
そこにいるだけで人を笑顔にしてしまう。
誰もが自然と手を伸ばしたくなるような。
光の中心で、みんなの心を惹きつける、たった一人の存在。
そんな、星野陽向という絶対的な光を。
私だけが曇らせ、泣かせることができる。
あんなにも眩しかった光が、自分の腕の中で震え、泣き、縋ってくれる。
その姿を想像しただけで、胸の奥が甘く痺れていく。
一度踏み込んだら、もう戻れない。
底なし沼へ沈むような。
抗うことのできない、甘く、静かで、美しい陶酔。
この抜け出せなくなる極上の愉悦に、雫は心まで呑み込まれ始めていた。
「……あぁ………星野先輩……」
思わず零れ落ちた吐息は、甘く震えていた。
雫は両手をゆっくりと伸ばす。
震える指先で、涙に濡れた陽向の頬をそっと包み込んだ。
涙に濡れたその顔を、息をすることさえ忘れそうなほど近くから見つめる。
こんなにも近い。
あと少し顔を寄せれば、互いの吐息が混ざってしまうほどの距離。
「…………ぅ………ふ……ぐす………」
その温もりに縋るように、陽向はゆっくりと身体から力を抜いていく。
まるで、たった一人だけが頼れる存在であるかのように。
雫の眼差しが。
優しさが。
天使のような微笑みが。
あまりにも、温かくて。
止めどないほど涙が溢れてくる。
陽向は嗚咽を漏らし、泣き崩れる。
雫の心臓から、甘い熱が全身へ一気に広がる。
(……あぁ………あぁ…………もっと…………)
この人が苦しめば苦しむほど。
弱れば弱るほど。
泣けば泣くほど。
そのすべてが、どうしようもなく愛おしい。
誰にも見せない泣き顔を。
誰にも見せない弱さを。
自分だけが抱き締めていられる。
その事実だけで、幸福にも似た痺れが背筋を這い上がっていく。
陽向を絶望という檻の中に閉じ込めて。
自分の前でだけ弱り、壊れていく姿を見て、雫は全身を甘く痺れさせていく。
「……朔也くんは…」
囁く声は、驚くほど優しかった。
「こうやって…私を抱きしめながら……」
親指が、陽向の頬を伝う涙の跡をゆっくりと辿る。
涙の温もりまで慈しむように。
「髪を撫でて……」
雫の指先が、さらりと陽向の髪を梳き。
その言葉を紡ぐほどに、雫の瞳は熱を帯びていく。
「…温かくて………大きな手のひらが……」
目の前にいる陽向しか、もう見えていなかった。
その涙も。
その息遣いも。
その震えも。
全部、全部。
どうしようもないほど、愛おしい。
愛しくて。
可愛くて。
抱き締めたまま、このまま永遠にどこへも行かせたくなくなる。
「………私の頬を……包んで………」
雫は、陽向の濡れた頬へ静かに触れると、優しい手つきで、その顔をゆっくりと持ち上げる。
泣き崩れる身体は驚くほど力なく、陽向はその温もりへ身を委ねるように微かに揺れた。
伏せられていた瞳が、涙の膜を揺らしながら自分を映した、その瞬間。
ドクンッ。
胸の奥で何かが大きく脈打つ。
息が苦しい。
目を逸らせない。
熱を帯びた視線は、吸い寄せられるように陽向の瞳から唇へと落ちていく。
(……はぁー…………はぁー…………はぁー……………)
薄く開いた唇。
零れた吐息。
震える呼吸。
すべてが、狂おしいほど欲しかった。
「……そのまま………………キスを……………」
もう、止められない。
止まりたくもない。
後戻りなんて、出来ない。
その心ごと。
星野先輩の全部を───────
まるごと食べてしまいたい。
まるで吸い寄せられるように。
雫はゆっくりと、その距離を縮めていった。
「…っ!!」
ガタンッ
咄嗟に身を引いた陽向の背中が、勢いよく椅子の背もたれへぶつかった。
乾いた音が、生徒会室へ鋭く響く。
「…し…しぃちゃん…?」
陽向は息を呑みながら、震える瞳で雫を見上げた。
雫は逃げるように距離を取った陽向を見つめ、小さく息を吐いた。
その頬は淡く紅潮し、潤んだ瞳はどこか夢を見ているように熱を帯びている。
「………好きな人を思い浮かべて下さい。」
雫は、身を離した陽向を逃がさないように。
再びゆっくりと距離を詰めた。
「幸せな私と朔也くんが…泣いちゃうくらいに羨ましいなら……」
雫は迷うことなく両腕を伸ばし、もう一度陽向を抱き寄せた。
今度は逃がさないように。
決して離さないという執着が、その腕には同時に宿っていた。
「幸せを分けてあげるから……」
耳元で囁かれる甘い声。
その温もりは優しいはずなのに、陽向は小さく肩を震わせた。
「私が癒して…埋めてあげるから…」
雫は、止められない衝動に突き動かされるように両手で陽向の頬を抑える。
涙の跡がまだ残る柔らかな頬は、驚くほど熱かった。
その熱へ吸い寄せられるように、雫の親指がそっと肌をなぞる。
熱を帯びた瞳が、まっすぐ陽向を映している。
その眼差しから、もう目を逸らせなかった。
雫の唇が、陽向との距離を縮めていく。
(………好きな人を思い浮かべて下さい。)
雫の囁きが、じっとりと湿り気を帯びた呪文のように陽向の胸の奥へ沈んでいく。
好きな人。
その言葉が、陽向が心の最も深い場所に隠していた澱に、静かに触れた。
最初に脳裏をかすめたのは、俊輔の姿だった。
人生で、ただ一人。
生まれて初めてキスをして、世界の全てと信じ込んだ、今でも美しく胸に残り続ける大好きな人。
「あなたが喉から手が出るほど…」
雫の声が追ってくる。
俊輔と交わした熱いキスの記憶。
その甘やかな底から、泥のように這い上がってくるもう一つの影があった。
覆い被さるように浮かび上がり、俊輔の残像を塗りつぶしていく。
何度駄目だと、自分に言い聞かせただろう。
何度諦めようと、心を鬼に宛がっただろう。
それなのに、胸の奥の最も熱い場所にへばりついて消えてくれない、あの男の、憎らしいほどに無垢な笑顔。
───朔也。
心の中でその名前を呼んだ瞬間。
陽向の網膜が。
世界が。
激しく揺れた。
「欲しくて堪らない愛を………」
目の前で、雫の濡れた唇がゆっくりと迫ってくる。
陽向の視界は、その唇だけで満たされていく。
この唇は。
昨日も。
今日も。
そして、きっと明日も。
自分が決して触れられない、朔也の唇と。
毎日、当然のように重なり合っている唇。
朔也の気配に触れたいという渇望が、陽向の理性を内側から焼き尽くしていく。
私も……………朔也とキスが出来たなら。
「…全部あげる♡」
甘く、残酷な宣告。
「….っ」
かすかな拒絶か、あるいは歓喜か。
陽向の喉から漏れた小さな音を押し潰すように───────。
雫は、陽向に唇を重ねた。
夕暮れの校舎は静かだった。
廊下の向こうから聞こえる運動部の掛け声も、この部屋までは遠く、今は雫の荒くなり始めた呼吸だけが、小さく重なっている。
全身の血液が沸騰したように熱い。
思考を操る脳の芯がどろどろに溶けていくような、強烈な高揚感。
胸の奥で、心臓が悲鳴を上げるほど暴れ狂っている。
朔也くんとのキスなんて、比にならない。
これまで知っていたどんな衝動も生温く思えるほどの、圧倒的な熱量。
胸を突き刺すようなこのときめきと。
全身の神経を逆立てるようなこの興奮と。
理性を焼き尽くすほどのこの熱狂。
離したくない。
止められない。
このまま溺れるように、ずっと貪り続けたい。
「…っ…はぁ………」
呼吸ごと全てを奪われるキスの中で、陽向は限界を迎えた酸素を求めるように。
辛うじて唇を割って、掠れた息を吸い込んだ。
「…っ」
しかし、その僅かな隙間さえ許されない。
すぐにまた、追いかけてきた柔らかな唇にすべてを奪われる。
激しい攻勢を受けるその最中、ふと陽向の脳裏にどす黒い輪郭が浮かび上がる。
──こんな風に、この子は。
いつも朔也と、こうして唇を重ねているんだろうな。
(…………朔也…)
朔也の香りが、鼻を掠めた気がした。
思考が融解し、目の前で自分を貪る存在の輪郭が揺らぐ。
いま触れているのは雫なのか、それとも雫を通じて感じている朔也の影なのか。
キスの相手が、甘美な混沌のなかで曖昧になっていく。
「…………。」
陽向は無意識に。
ただ、本能に突き動かされるままに。
ゆっくりと、雫の背中に腕を回した。
確かな体温を抱きすくめるように、その指先が制服の生地に沈む。
その瞬間。
ツー…と。
陽向の頬を、一本の熱い涙が伝い落ちた。
雫は、その陽向の涙をひどく慈しむように。
壊れ物を愛撫するような手つきで唇を這わせ、濡れた軌跡を吸い上げていく。
(………もう……………堪らない………♡)
窓の外では、茜色の空が、ゆっくりと夜の闇に呑まれようとしていた。
夕闇が忍び寄る密室の中で、ただ二人の、狂い始めた呼吸の音だけが、小さく、けれど執拗に重なり合っていた。




