第171話 波乱の幕開けは、時間の問題
翌日、昼休み。
冬の陽射しが教室の窓から柔らかく差し込み、机の上へ淡い光を落としている。
昼休みが始まると同時に、あちこちで椅子を引く音や弁当箱を開ける音が重なり、教室はいつもの賑わいに包まれていた。
三年二組。
「んじゃ、もう行くわ。」
朔也はそう言って立ち上がる。
いつものように、昼休みになると教室へやってくる咲と陽向と、二、三言だけ他愛もない話を交わす。
それだけ話せば満足したように弁当箱を片手へ持ち、何の迷いもなく教室の出口へ向かって歩き出した。
「いってらー。」
「ばいばーい。」
咲と陽向が、朔也けひらひらと手を振る。
朔也は振り返ることなく軽く手を上げるだけで応え、そのまま教室を後にする。
向かう先は、もちろんカフェテリア。
そこには、昼休み毎日変わらず自分を待っている雫がいる。
扉が閉まる音が小さく響き、朔也の姿が見えなくなると、教室は再び昼休みの喧騒へ溶け込んでいった。
陽向と咲、そして蒼太もそれぞれ席を寄せ合い、弁当箱を広げる。
その中で。
陽向は、小さく息を吐いた。
「………寂しい。」
ぽつり、と。
誰へ向けるでもなく零れ落ちたそのひと言は、賑やかな教室の音へ紛れそうなほど小さかった。
「なに、藤崎先輩?」
すぐ隣にいた咲の耳にはっきりと届き、反射的に聞き返した。
陽向が”寂しい”と漏らす時。
その理由は、これまでずっと一つだった。
その名前が、咲の中では半ば条件反射のように結び付いていた。
「…………。」
その名前を耳にした瞬間。
陽向の胸の奥で、何かがきゅっと音を立てて縮こまる。
(……俊ちゃん…。)
“遠くへ行ってしまう人”という言葉が胸へ触れた途端、その名前まで思い出してしまう。
一人。
また一人。
大切な人が、自分の前から未来へ歩いていく。
取り残されるような、どうしようもない寂しさだけが胸の奥へ広がっていく。
陽向は小さく俯き、弁当箱の白いご飯をぼんやりと見つめた。
「…なんで……みんな遠くに行っちゃうのかな………」
その言葉には、もう俊輔だけではなかった。
卒業と同時に海外へ旅立ってしまった俊輔。
そして、大学進学を機に家を出ようとしている朔也。
胸の中では、二人の後ろ姿が静かに重なっていた。
「あー朔也?」
咲は箸を止めることもなく、思い出したようにサラッと言った。
「え?知ってるの?寮のこと」
陽向が驚いたように顔を上げた。
蒼太が少しだけ視線を宙へ向け、記憶を辿る。
「二学期に…丁度お前らが喧嘩してる時に言ってた。多分そん時に決めたんじゃね?」
蒼太は聞いていた。
陽向と朔也が冷戦状態だった、あの頃。
誰にも見せないような疲れた顔で、朔也はポツリと蒼太に零した。
陽向とこのまま気まずい状態も続いているし。
いっその事、実家を出て陽向と物理的に離れた方がいいかもしれないと考えていると。
その声には、怒りも苛立ちもなかった。
ただ、どうしようもない諦めだけが滲んでいた。
陽向は小さく息を吐く。
「………あー…そういことね…………」
胸の中で、ひとつの疑問が静かに繋がっていく。
どうして、自分には何も話してくれなかったのか。
どうして相談してくれなかったのか。
その答えは、あまりにも単純だった。
朔也が悩んでいた、その頃。
自分は朔也を避けていた。
話しかけることも。
顔を見ることさえ出来ずに。
自分から距離を置いてしまっていた。
相談なんて、出来るはずがなかった。
陽向の肩が、しゅん…と落ちる。
蒼太はそんな様子を見つめると少しだけ口角を上げ、
椅子を引いて距離を詰めた。
「素直に言ったら?”行かないで”って。」
ゴスッ
「…いってぇ!!」
鈍い音が響き、蒼太が脇腹を押さえて身をよじる。
隣にいた咲が容赦なく肘をめり込ませていた。
咲はそのまま蒼太の制服の袖を掴み、ぐいっと後ろへ引っ張る。
二人は陽向へ聞こえないよう、小声で言い合いを始めた。
(陽向がそんな事言ったらしぃちゃんどーなっちゃうの!!この前の朔也二股疑惑が本当に現実になるか、最悪破局だよ!!)
(どっちにしたってもう無理だろ!ど直球感情だだ漏れストレート女が自覚したんだから、いずれすぐに本人にバレんだろ!)
(朔也がなんの為に寮に入ると思ってんの!意味なくなるわ!)
(だから陽向に素直にならせりゃ朔也も考え直すだろ!)
(しぃちゃんどーすんのよ!!可哀想でしょ!!)
(………まぁ……そりゃ…そーかもしんねぇけど……)
反論出来ない。
蒼太の脳裏にも、雫の笑顔が頭をよぎる。
気まずい沈黙が二人の間へ落ちた。
その時だった。
「だいたいさ。」
ぽつり、と陽向が口を開く。
二人は同時に振り返る。
陽向は弁当箱へ視線を落としたまま、小さく頬を膨らませていた。
「しぃちゃんとはこの先卒業してからもずっと毎週会えるわけだし、ずっと一緒にいられるわけでしょ?」
本人は誰に聞かせるわけでもない独り言のように、ぶつぶつと早口で言葉を流れるように漏れ出している。
「私とは…じゃなくて、同級生とは卒業までの残り1ヶ月ちょいくらいしか一緒に過ごせないんだからさ、最後くらい昼休みにクラスで過ごそうとか普通思わない?」
その声には、拗ねた子どものような響きが混じり、箸で白いご飯をつつきながら続ける。
「同級生達との残された僅かな時間で貴重な思い出作ろうとか思わないのかねあの男は。ほんと、色ボケ彼女依存女たらしで腹が立つっ!」
グサッ!
と箸を米に突き刺した。
「おーい全部出てるぞー」
「陽向ー帰ってきてー」
蒼太が苦笑しながら突っ込むと、咲も呆れたように陽向の顔の前で手を振った。
───────。
一月末の日曜日。
共通テストという大きな山場を越えた朔也と雫は、この日をずっと心待ちにしていた。
受験勉強に追われる日々の中、「共通テストが終わったら行こう」と兼ねてより約束していた場所。
国内最大級のテーマパーク───ストーリーテイルパーク。
冬の澄んだ青空の下、色鮮やかな建物が並び、園内には楽しげな音楽と笑い声が絶え間なく響いている。
休日らしい賑わいの中でも、二人の表情はどこか晴れやかだった。
試験の合間にようやく訪れた、束の間の息抜き。
アトラクションを巡り、美味しいものを食べ、他愛もない話で笑い合う。
受験という重圧からほんの少しだけ解放された時間を、二人はゆっくりと噛み締めていた。
そして帰る前。
二人は、お土産ショップへ立ち寄っていた。
店内には所狭しと並ぶキャラクターグッズ。
色とりどりのぬいぐるみや文房具、キーホルダーが照明を受けてきらきらと輝いている。
「どれがいいかなぁ〜」
雫は棚の前で足を止め、胸を弾ませながら商品を見渡した。
小さなぬいぐるみを手に取っては戻し、別のキーホルダーを眺めては首を傾げる。
「なんか……めちゃくちゃ可愛いぬいぐるみのキーホルダーとかないかなぁ〜」
隣で見守っていた朔也が、不思議そうに首を傾げた。
「自分の?」
「ううん、星野先輩っ!」
「え、ひな?」
「そ!」
雫はパッと笑顔を咲かせる。
「星野先輩には、ぜーったいお土産渡したいの」
その真っ直ぐな笑顔に、朔也は柔らかい表情を浮かべた。
「ひなだったら、なんか甘いもんの方が喜ぶんじゃね?」
「だめだめっ!そんなの!」
雫はふるふると首を横へ振る。
そして再び陳列棚へ向き直ると、並べられたキーホルダーをひとつひとつ指先で優しく撫でていった。
どれが一番似合うだろう。
どれなら星野先輩が毎日見てくれるだろう。
そんなことを考えているだけで、自然と口元が緩んでいく。
────卒業まで、あと一か月。
その一か月の間。
私がプレゼントしたキーホルダーは、毎日星野先輩のスクールバッグで揺れる。
”これ、可愛いね”
”誰から貰ったの?”
そんな会話が教室で交わされるのだろうか。
星野先輩に、私はこのテーマパークでの出来事を嬉しそうに話す。
朔也くんと行ったんです。
めっちゃ楽しかったんですよ。
そう言いながら、自分の手でそのキーホルダーを星野先輩のバッグへ付けてあげる光景が、ありありと頭の中へ浮かんだ。
その想像だけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。
「高校生活最後の一か月間……」
雫は小さく呟く。
「毎日毎日、嫌でも絶対に目に入るような……」
心臓が高鳴る。
想像するたび、幸福感にも似た甘い高揚が胸いっぱいに広がっていく。
「友達からも片っ端から注目されちゃうくらい、最高に目立つ可愛いキーホルダーをプレゼントしたいの♡」
そう言って振り返ると、ニッコリと満面の笑みを朔也へ向けた。
その笑顔は、どこまでも無邪気で。
誰が見ても、大好きな先輩への贈り物を選ぶ後輩の笑顔にしか見えなかった。
「雫は……ほんとに、ひなが大好きなんだな……」
その純粋さに思わず頬が緩み、朔也も穏やかに笑う。
「うんっ!」
雫は迷いなく頷いた。
「星野先輩、大大大大だーい好きっ♡」
その言葉と同時に、胸の奥がふわりと熱くなる。
早く会いたい。
今すぐ会いたい。
今日の思い出を、誰よりも最初に話したい。
そして。
一体どんな瞳で、私を羨んでくれるだろう。
(…あー…可愛い…♡)
その想像だけで、雫の頬には満ち足りた笑みが静かに広がっていった。
───────。
週が明けた、月曜日。
放課後。
夕暮れの柔らかな橙色の光が校舎の窓から差し込み、生徒会室の長い机をゆっくりと染めていた。
部活動へ向かう生徒たちの賑やかな声が廊下の向こうから聞こえ、冬の冷え始めた空気の中にも、どこか穏やかな放課後の時間が流れている。
昨晩。
雫は陽向へ一本のLINEを送り、今日の放課後に生徒会室へと呼び出した。
それに対して、陽向は何の疑いもなく快く承諾の返信を返してきた。
ガラッ──。
生徒会室の扉が開く。
「しいちゃん、お待たせー!」
弾むような声とともに、陽向がひょこっと顔を覗かせた。
その姿を見つけた瞬間。
「星野先輩っ!」
雫の表情が、パッと花が咲くように明るくなる。
待ちきれなかったと言わんばかりに、弾むように陽向のもとへ駆け寄った。
その嬉しそうな様子に、陽向は思わず頬を緩める。
「なんか今日ご機嫌だね。」
雫は少し照れたように笑い、それでも隠しきれない喜びをそのまま言葉にした。
「星野先輩に会えると嬉しいんです。」
あまりにも真っ直ぐで、飾り気のない一言。
陽向は思わず吹き出すように笑った。
「あははっ、私もしぃちゃんに会えて嬉しいよ。」
その優しい笑顔を見つめながら、雫の胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
その笑顔が。
その声が。
自分へ向けられているだけで、胸がいっぱいになる。
そして、二人は穏やかな雰囲気で自然と肩を寄せ合い。
そのまま横並びで席に座った。
「それで……」
雫は大切そうにスクールバッグを抱え直した。
「星野先輩に、渡したいものがあって呼んだんです。」
「渡したいもの?」
陽向が不思議そうに首を傾げる。
雫はゆっくりとバッグの中へ手を入れた。
そして、大切そうに取り出したのは。
ストーリーテイルパークのロゴが入った、鮮やかなショップバッグだった。
「……!」
それを見た瞬間。
陽向の瞳が大きく見開かれる。
「えっ!ストーリーテイル行ったの!?」
思わず一歩身を乗り出す。
その名前を聞いただけで、胸の奥に懐かしい景色が広がっていく。
高校二年生の頃。
俊輔と二人で歩いた石畳。
夜のパレード。
イルミネーション。
胸がいっぱいになるほど幸せだった、あの日。
一瞬だけ、そんな記憶が脳裏をよぎった。
その反応を見た雫は、ゆっくりと口角が上がる。
「はい♡」
ニコッと。
誰が見ても無邪気な笑顔を浮かべながら答えた。
「昨日、共テ頑張ったご褒美で、朔也くんとストーリーテイルデートしてきました♡」
その一言とともに、ショップバッグを両手で陽向へ差し出した。
夕日に照らされた袋が、かさりと小さな音を立てる。
「いーなぁー!」
陽向は目を輝かせながら声を上げる。
「えっ、これ私に?」
「はいっ!」
雫は満面の笑みで頷いた。
「星野先輩への、お土産です♡」
「えぇー!嬉しい!」
陽向の顔がぱっと明るくなる。
子どものように目を輝かせながら、大事そうに袋を受け取った。
その無邪気な反応に、雫も嬉しそうに目を細める。
「開けてもいい?」
「もちろんです!」
その返事を聞くなり、陽向は嬉しそうに袋の口へ手を掛ける。
その様子を見つめながら。
雫の胸は、期待でゆっくりと高鳴っていく。
(さぁ、星野先輩…どんな顔をしてくれるんだろう。)
胸の奥で、小さな幸福感が甘く溶けていく。
それは、大好きな先輩へお土産を渡せる喜びなのか。
それとも──
“朔也くんとのデート”という思い出ごと、星野先輩へ届けられる喜びなのか。
雫自身にも、その境界はもう分からなくなっていた。
「……可愛いー!」
袋から取り出した瞬間、陽向の瞳がぱっと輝いた。
手のひらへ乗っていたのは、ストーリーテイルパークのメイン人気キャラクター、ノアとリラのぬいぐるみキーホルダー。
ころんとした丸いフォルムに、ふわふわの手触り。
寄り添う二人は、それぞれ真っ赤なハートを抱えていて──。
近付けると、そのハート同士が小さな音を立てて吸い寄せられるようにぴたりと重なった。
マグネットでくっつく仕掛けで、二つを離してもまた自然と引き寄せ合う。
まるで恋人同士が惹かれ合うように。
「わぁ……!めっちゃ可愛いじゃーん!」
陽向は何度も離してはくっつけ、子どものように目を輝かせた。
「可愛いですよね!」
雫も嬉しそうに笑う。
その笑顔を見つめながら、陽向は首を傾げた。
「でも……どうしてペアなの?」
その問いに、雫はにこりと微笑んだ。
「…んふ♡」
そっと手を伸ばして、陽向の手からキーホルダーを受け取る。
雫は陽向のスクールバッグを膝の上へ乗せると、金具へ片方のキーホルダーを付けた。
カチリ、と小さな金属音が鳴る。
「これが朔也くん。」
そう呟きながら、今度はもう片方をすぐ隣へ付ける。
「こっちが私。」
二つは隣合わせで揺れていた。
雫がそっとハートを指先で近付けると──。
カチン。
赤いハート同士が、磁石に引き寄せられるようにぴたりと重なり合う。
向かい合うノアとリラが、お互いを見つめながら一つのハートを抱き締めているようだった。
「昨日は、とっても幸せな時間を過ごせたんです。」
雫は幸せそうに目を細めた。
バッグを揺らすたび、二人は離れてはまた寄り添い、ハートは自然と吸い寄せられて重なる。
その愛らしい動きに、陽向は思わず頬を緩めた。
そんな陽向を見つめながら、雫は柔らかな声で言う。
「星野先輩も……」
優しくバッグを撫でる。
「私たちみたいな、幸せな恋ができますようにって願いを込めて。」
「……!」
その言葉に、陽向は一瞬だけ目を丸くした。
雫は何の迷いもない笑顔だった。
純粋に、大好きな先輩の幸せを願っているようにしか見えない。
だからこそ。
その笑顔が、胸の奥へ静かに沈んでいく。
雫は、ぴたりと重なった赤いハートを指先でそっと撫でた。
「いつか…星野先輩にも、大切な人ができたら…」
ふわりと微笑みながら、少しだけハートを離してみせる。
磁石は離れ、ノアとリラは別々に揺れた。
そして──。
「片方を、その人へ渡してください♡」
指先を離した瞬間。
カチン。
二つのハートは、まるで運命に導かれるように再びピタリと重なり合った。
(あんなに素敵な鷹井先輩を振っちゃったのに……)
雫は満足そうに微笑む。
(星野先輩を振り向かせて、この片方を奪える男なんて………現れるかな?)
「きっと、その日が来ますから♡」
(星野先輩が好きなのは……私の朔也くんだもんね?)
その笑顔は、どこまでも優しく、どこまでも無邪気だった。




