第170話 ずっと言えなくて、これから先も一生言えない
それから───。
朔也は、大学入学共通テストを終えた。
残るは、滑り止めとして受験する私立大学の一般入試。
そして、本命である国公立大学の二次試験。
まだ受験そのものが終わったわけではない。
それでも、何ヶ月もの間、胸へ重くのしかかっていた最初の大きな山場を越えたことで、張り詰め続けていた心には、ほんの少しだけ余裕が戻ってきていた。
あと少し。
そう自分へ言い聞かせながら、机へ向かう毎日は変わらない。
けれど、共通テストを終えたという事実だけが、ほんの僅かに肩の力を抜いてくれていた。
一月下旬。
冬の夜。
吐く息は白く、住宅街はすっかり静まり返っている。
街灯の淡いオレンジ色の灯りだけが、冷え切ったアスファルトをぼんやりと照らしていた。
朔也は自室で問題集を閉じると、小さく背伸びをする。
「……はぁ…」
肩を回しながら、いつも常備してあるエナジードリンクの最後の一本を飲み切ってしまったのを思い出す。
このまま勉強へ戻ってもいい。
けれど、長時間机へ向かい続けたせいか頭が重く、どうにも集中力が戻ってこない。
「……行くか。」
気分転換も兼ねて、近所のコンビニまで行くことにした。
ダウンジャケットを羽織り、スマホだけをポケットへ突っ込む。
玄関を開けると、冬特有の冷たい空気が頬を撫でた。
「寒っ……」
思わず肩をすくめながら、自転車へ手を掛ける。
その瞬間だった。
ガチャ。
すぐ隣から、聞き慣れた玄関扉の開く音が響く。
「レオ!待て!待てだよーっ!」
弾んだ声。
朔也は反射的に隣家へ視線を向けた。
「……!」
玄関から姿を現したのは陽向だった。
ダウンコート姿で、片手にはレオのリード。
もう片方の手には、お散歩用の小さなバッグを提げている。
白い息を吐きながら、元気いっぱいに飛び出そうとするレオを必死に引き留めていた。
レオは散歩が嬉しくて仕方ない様子で、尻尾を千切れそうなくらい振り回しながら、朔也の姿を見つけた瞬間──さらに勢いよく駆け出した。
「わっ、レオ!」
リードがピンと張る。
それでもレオは構わず一直線。
陽向の声も虚しく、レオは朔也の足元まで駆け寄ると、その場で飛び跳ねるようにじゃれついた。
「ハッ♪ハッ♪」
「おーおー。」
朔也は思わず笑みを零し、その頭を乱暴なくらいわしゃわしゃと撫でる。
「いつも元気だなーお前!」
気持ち良さそうに目を細めるレオを見下ろしながら、自然と口元が緩んでいく。
受験勉強で張り詰めていた気持ちが、ほんの少しだけ解けていくようだった。
「散歩?」
顔を上げると、陽向へ問い掛ける。
「うん。どっか行くの?」
頷きながら、今度は陽向が聞き返す。
「コンビニ。エナドリ切れた。」
短く答えながら、レオの耳の後ろを掻いてやる。
「勉強もいよいよ大詰めだね…」
「お前と違ってな。まだ終わってねぇから」
「はいはい。どーせ私には共テも一般も無理ですよー」
「共テ一般どころか公募すら無理だろ。生徒会長の看板無かったら進学先なかったな」
「それは言い過ぎだろっ!」
「どーだか。赤点、赤評定の生徒会長さん。」
茶化しながら返す朔也。
ほんの数分前まで静まり返っていた住宅街へ、二人の笑い声が静かに溶けていく。
こんなやり取りをするのは、一体いつ以来だろう。
ここ最近、自宅では朔也が缶詰め状態で勉強に籠りきりで。
学校ではクラスにいる時以外は雫と常に一緒にいる。
こうして、本当に二人だけでしっかり言葉を交わす機会は驚くほど無かった。
気付けば、こんな何気ない立ち話さえ少しだけ懐かしく感じてしまう。
レオはそんな二人を交互に見上げながら、嬉しそうに尻尾を振り続けている。
くるくる回るレオの無邪気な反応に、朔也も嬉しくなって夢中でじゃれ始める。
「おりゃーっ」
普段学校では何となく気取って、すかしている態度の朔也が、レオのお腹や首を撫で回しながら少年のように笑っている。
(……………やば…)
きゅうぅぅん─────
そんな朔也の姿が久しぶりで、陽向の胸に不意打ちでぐっと来てしまった。
(…あー…………これがキュンだわ…………)
不意に陽向がそんなことを考えてしまったその瞬間。
朔也は急に悪戯っぽく笑うと、陽向の手元へ視線を落とした。
「レオ!たまには俺と散歩行くかっ!」
そう言った次の瞬間。
パッ、と陽向の手からリードを奪い取る。
「えっ!」
陽向が目を丸くする間もなく。
「よーし、レオ行くぞ!」
「ワンッ!」
レオは待ってましたと言わんばかりに勢いよく駆け出した。
街灯がぽつぽつと灯り始めた夜道を、レオのリードを引く朔也が先頭で歩く。
その半歩後ろを、陽向がゆっくりと歩いていた。
「………。」
陽向は、何も言わずにその背中を見つめる。
広くなった肩幅。
長くなった足。
高くなった頭の位置。
けれど。
こちらに全く合わせる気のない歩く速さも。
ポケットへ手を突っ込んで歩く癖も。
少し猫背気味な後ろ姿も。
昔から何一つ変わらない。
昔からこうだった。
家を出れば鉢合わせて。
何気ない一言だけで、一緒に歩き始める。
約束なんてしたこともない。
会おうと思わなくても会える距離。
それが二人にとっては、ごく当たり前の日常だった。
だからこそ。
あと数か月もすれば、この”当たり前”は本当に終わってしまうことを。
陽向はまだ胸のどこかで、現実として受け止め切れてはいなかった。
ふと、先日雫に聞いた話しを思い出す。
(聞いてないですか?第一志望に受かったら、大学の寮に入るつもりみたいですよ。)
高校を卒業すれば。
朔也は、この家を出る。
そう思った瞬間、胸の奥がひどく静かになった。
歩きながら、視線が自然と朔也の背中へ吸い寄せられる。
どうして。
私には、何も言ってくれないんだろう。
「…っ」
唇をきゅっと噛む。
胸の奥が、痛いくらい締め付けられる。
幼馴染なのに。
十八年間、誰より近くにいたはずなのに。
そんな大事な話を、自分は雫から聞いた。
その事実が、思っていた以上に胸へ刺さっていた。
陽向は、無意識に口を開いた。
「朔也……あのさ…」
「ん?」
朔也は歩く速度を緩め、何でもないように振り返る。
街灯の明かりが、その横顔を淡く照らしていた。
陽向は一瞬だけ言葉を飲み込む。
それでも、震える唇をゆっくりと開く。
「国公立受かったら…………家出るの………?」
その表情は、今にも泣き出してしまいそうだった。
必死に平静を装っているのに、揺れる瞳だけが隠しきれない痛みを映し出している。
朔也は、そんな陽向の顔を黙って見つめたあと、小さく息を吐いた。
「あぁ…まぁ、そうだね」
どこか諦めたように笑う。
陽向は俯きかけた視線を、ゆっくりと上げた。
「前は…家から通うみたいな感じじゃなかった?」
その問い掛けは、ごく自然な雑談を装っていたけれど、声は少しだけ震えていて。
本当は、“どうして”って、聞きたかった。
どうして急に変わったの。
どうして私には、ひと言も相談してくれなかったの。
そんな言葉を、胸の奥へ押し込めながら。
朔也はポケットへ片手を入れたまま、街灯に照らされた夜道へ視線を流す。
「最初はそう思ってたんだけど。毎日の通学時間で勉強とかバイトの時間削られんの勿体ねーし。サークルも入りたいから」
どこまでも理屈らしい答えだった。
時間を有効に使う。
実際、それは嘘ではなかった。
大学生活を考えれば、往復三時間という通学時間はあまりにも大きい。
勉強も。
アルバイトも。
新しく始まる人間関係も。
その時間を削ってまで実家から通う理由はない。
それでも──理由はそれだけじゃない。
「…美紗ちゃんは…朔パパは、いいって?」
朔也の両親は、息子が家を出ることをどう思っているのだろう。
幼い頃から家族ぐるみで過ごしてきたからこそ、陽向は自然と気になった。
朔也は苦笑し、小さく肩を竦める。
「駄目な理由ないだろ」
あっさりと返ってきた言葉だった。
「…………。」
陽向は何も返せなかった。
小さい頃からしっかり者の朔也は、自分とは違う。
実家を出るからと言って、きっと両親から何を心配されることもない。
ただ俯き、小さく唇を噛む。
夜道を吹き抜ける冬の風が、二人の間を静かに通り過ぎていく。
レオだけが、何も知らないまま楽しそうに尻尾を振りながら、二人の少し前を歩いていた。
そんな陽向の横顔を、朔也は静かに見つめる。
家を出る、もう一つの理由。
いつまでもここに居たら。
陽向のすぐ隣で、今までと同じような日常を送り続けていたら。
きっと、自分は前へ進めない。
雫を好きだという気持ちは本物で。
その笑顔を見るたび嬉しくなって。
手を繋げば心が温かくなって。
抱きしめれば、守りたいと心から思う。
その想いに嘘偽りなんてひとつもない。
それでも、やっぱり。
十八年間の、あまりにも長い年月。
物心がついた頃には、いつも隣にいて。
喧嘩もして。
笑い合って。
腹が立つくらい世話を焼いて。
そんな日々の中で。
積もりに積もり続けた陽向への想い。
陽向という存在は、あまりにも長い時間を自分の中で生き続けてきた。
雫といつも一緒にいても。
雫を何度抱きしめても。
雫とどれだけ触れ合っても。
陽向が笑うと。
陽向が怒ると。
陽向が泣くと。
どこかで胸が反応してしまう。
それは反射で。
理屈じゃなくて。
なんの原理もなくて。
近くにいれば。
関わり続ければ。
今まで通り、その笑顔へ触れ続けてしまえば。
胸の奥へ押し込めたはずの炎は、きっと消えない。
消えたと思っても、灰の下で静かに燻り続けてしまう。
だから離れるしかない。
朔也は、”断ち切れない執着”を自ら強制終了させるために。
それが、雫に対する誠実さであり。
そして何より、自分自身が前へ進むために必要なことだと。
誰にも言えないまま胸の奥で静かに言い聞かせていた。
その時。
「………寂しい…」
ぽつり、と。
冬の夜気へ溶けるような、消え入りそうに小さな声。
吐く白い息と一緒に零れ落ちたその呟きは、静かな住宅街だからこそ、不思議なほどはっきりと朔也の耳へ届いた。
「は…!?」
朔也は思わず足を止め、振り返るほどに過剰反応。
予想もしなかった言葉に、思考が一瞬だけ真っ白になる。
「えっ!?」
陽向自身も、大きく目を見開いた。
(……え!?私…今…!)
心臓がドキッと大きく跳ねる。
心の声出てたっ!?!?
「え、なに…寂しいの?」
はっきりと。
は朔也は怪訝そうに眉を寄せながら、容赦なく聞き返してくる。
遠慮は、ない。
陽向の頭の中が、一気に真っ白になった。
(げ、やばい!!)
どうする。
何か言わなきゃ。
何でもいいから、誤魔化さなきゃ。
泳ぐ視線が、必死に逃げ道を探す。
その時だった。
街灯の下で尻尾をぶんぶん振りながら二人を見上げているレオの姿が、視界へ飛び込んできた。
「レオがっっっ!!」
咄嗟に口から飛び出した。
「朔也が家出たら、レオが寂しいな〜って…!」
慌ててしゃがみ込み、レオをぎゅっと抱き上げる。
腕の中でレオは嬉しそうに尻尾を振っている。
「こーんな小っちゃい時から、いっつも朔也に遊んで貰ってたし!!」
必死だった。
自分でも苦しいくらい無理のある言い訳だと分かっている。
それでも、この胸の内だけは知られたくなくて。
「まさか…朔也が居なくなっちゃうなんて……全然思ってもないし……」
言葉を重ねるほど、胸の奥が締め付けられていく。
「居るのが…っ…当たり前……で…… 産まれた時から……」
声が震えた。
瞳には、涙がうるうると滲み始めている。
「…っ…赤ちゃんの頃から……ずっと………」
最後の方は、もはや自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。
朔也は、思わず。
「えーと……」
何とも言えない顔で首を傾げる。
「レオの話し?」
「うん。」
陽向はこくり、と小さく頷いた。
その様子に、朔也は。
(下手くそだなーーーーーーーー)
心の中で、盛大に叫んだ。
強がっていても、すくに顔に出る。
思っていることは、そのまま口から零れてしまう。
誤魔化そうとしても、いつもどこか抜けていて。
嘘をつけばつくほど、不器用さだけが目立ってしまう。
あまりにもわかりやすくて。
誰よりも正直で。
純粋なほど、真っ直ぐで。
嘘のひとつも上手につけない、そんなひなが。
堪らなく愛しくて。
どうしようもないくらい可愛くて。
ずっと、大好きだった。
「朔也に会えると…嬉しくて。」
陽向は腕の中へ抱き寄せたレオの頭を、ゆっくりと撫でる。
ふわふわとした毛並みが掌へ伝わるたび、不思議と胸の奥まで温かくなる。
その温もりへ縋るように、陽向は小さく微笑んだ。
「朔也に撫でられるのも…」
陽向はレオの耳の後ろを優しく撫でながら、どこか懐かしそうに目を細める。
「朔也に抱きしめられるのも…」
小さい頃からの、沢山の思い出か蘇る。
胸の奥へ押し込めていた寂しさが、言葉になるたび少しずつ溢れ出していく。
「…………大好きで…」
最後の一言は、ほとんど囁きだった。
陽向はそっと顔を上げる。
冬の街灯に照らされた朔也の顔が、ぼんやりと視界へ映る。
涙に潤んだ瞳が、まっすぐ彼を捉えた。
そして────
「朔也のことが大好き。」
(…………え…?)
────ドクンッ
胸の奥で、心臓が激しく跳ねる。
まるで鼓動だけが、静まり返った夜道へ響いてしまいそうだった。
息が止まる。
身体が動かない。
思考だけが、一気に熱を帯びて暴れ始める。
その“大好き”は─────何の?
「……………。」
陽向の言葉だけが、何度も何度も頭の中で反響する。
街灯の下で揺れる陽向の瞳は、あまりにも真っ直ぐだった。
悲しくて。
寂しくて。
泣きそうで。
その目が、自分だけを映しているように見えてしまう。
けれど同時に、理性が必死に叫んでいた。
本当に、レオの話し?
レオの気持ちを代弁してる?
それとも、兄弟みたいな家族みたいな。
幼馴染みとしての俺への気持ち?
それとも────
(絶対、違う…!)
朔也は、奥歯をギリ…ッと噛み締めた。
勘違いしない。
期待しない。
信じない。
何回そうやって心に誓ったんだ。
一体どれだけ。
何度、傷付いてきた。
だから。
胸の奥で暴れ出した感情へ、ゆっくりと蓋をする。
「…………俺も………」
朔也は、小さく息を吐くと、レオへそっと両手を伸ばした。
ずっと、言えなかった。
これから先も、一生言えない。
「大好きだよ。」
この想いは、届かなくていい。
届いてはいけない。
レオのその柔らかな頭へ、そっと頬を寄せて囁くと。
温もりとは裏腹に、胸の奥だけが、ぎりぎりと締め付けられた。




