第165話 ラストデート
冬休みも、気づけば終わりが近づいていた。
正月明けの夜。
外はしんと静まり返り、窓の向こうには澄みきった冬の夜空が広がっている。
その静けさとは対照的に──
陽向の部屋だけは、妙に熱気を帯びていた。
ベッドの上へ並んで腰を下ろす、女子二人。
部屋着姿の二人は毛布へ足を突っ込みながら、年頃の女の子らしい”女子トーク”をひっそりと囁き合う。
「ねぇ、しぃちゃん。」
陽向は雫へ視線を向けながら、不思議そうに首を傾げた。
「しぃちゃん身体小さいから…朔也のは大きすぎない?」
「大きいですけど……まぁ、上から下まで全部入るので…」
「入れば良いって感じか……」
「てか星野先輩。」
「なに?」
「硬い方がいいですよ?朔也くんのは硬いんです。」
「硬すぎると痛くない?」
「硬ければ硬い方が気持ちいいです。」
「えぇ〜……でも朔也のは硬すぎるよ……」
「こんな柔らかい枕使ってたら、首こりや肩こりの原因になりますよ!」
雫は抱えていた枕を掲げながら、大げさに肩を落とした。
「そんな文句言うなら、朔也の部屋から硬い枕持ってこい!!」
「それは面倒くさいです」
陽向が勢いよくツッコむと、雫は真顔で即答する。
「スウェット貸してあげようか?やっぱり朔也の服じゃブカブカで動きづらそうだよ。」
雫は自分が着ている大きめのスウェットの袖を見下ろしながら、小さく笑う。
「一枚で上から下まで全身入るから、この方が楽なんですよ。」
ぶかぶかの袖へ手を半分埋めながら嬉しそうに笑うその姿は、小さな子どもが大人の服を着ているようで、どこか微笑ましかった。
「それに……」
雫は照れくさそうに袖に鼻先を埋める。
「朔也くんの匂いがするので、結構好きなんです。」
照れ笑いを浮かべる雫を見ながら、陽向もつられるように笑った。
冬の静かな夜。
暖房の効いた部屋には、すっかり仲が元通りになった二人の笑い声が、穏やかに響いていた。
少し前まで胸の奥に張りつめていたぎこちなさが嘘だったかのように、二人の間には以前と変わらない空気が流れている。
「さて、そろそろ朔也くん問題集解き終わったかなぁ〜」
雫が壁掛け時計へ目を向けながら、小さく笑う。
「戻るの?」
「こっちにあんまり長居すると、怒られちゃうんで」
「わがままな男だな」
「あははっ」
雫は楽しそうに肩を揺らした。
「また来ますね」
ニコッと笑って、雫は立ち上がる。
部屋のドアが開き、廊下へ出る足音が少しずつ遠ざかっていく。
パタン。
静かに扉が閉まる音だけが響いた。
陽向は、パタリとベッドへ倒れ込む。
「ふぅ…」
柔らかなマットレスへ身体を預けながら、ぼんやりと天井を見上げる。
真っ白な天井。
そこへ浮かぶのは、仲良さそうな二人の姿だった。
朔也と雫。
肩を並べて笑い合う姿は、誰が見てもお似合い。
只の幼馴染として。
側にいながら笑顔で二人を見守ると、心に決めた。
雫に対しても、以前のようにチクチクしたりモヤモヤしたりすることは無くなった。
あんなに優しくて、真っ直ぐで、一生懸命な子を嫌いになんてなれる筈ない。
むしろ、朔也には、もったいないくらいだ。
朔也の歴代の元カノを思い返してみても、こんなに夢中になっている姿を見たことがあっただろうか。
恐らく朔也は史上最大レベルのハマり様。
基本的に朔也は恋愛へ執着しない。
付き合っても、どこか余裕があって。
別れても、案外あっさりしていて。
そんな、そこそこドライな雰囲気が朔也だった。
そんな朔也が、今や雫の通知ひとつで浮かれてる。
受験の合間を縫っては鳩のように雫のところへ飛んでいき、家に連れて来てベタ惚れしている。
きっと。
過去最高に好きなんだろう。
外見史上主義である朔也が沼るのも納得の圧倒的ビジュアル。
それでいてあんなに素直で、誰に対しても優しくて、少し天然で可愛くて。
あんなに一生懸命、彼氏を大切にしてくれる女の子。
性格も非の打ち所がない。
……勝てるところなんて、一つも思い浮かばない。
つけ入る隙も。
脇目を振る理由も。
どこにもない。
どんなに浮気性の朔也だって、他の誰のことも何も目に映らない。
きっとこのまま。
二人はお互いだけを見つめて、何年先も変わらず笑い合って。
きっとその愛はいつか実を結んで、温かい家庭を築いて。
誰もが羨むような幸せを手にして、末永くいつまでも幸せに暮らしていくのだろう。
その未来は、不思議なくらい簡単に想像できた。
朔也が幸せなら、それでいい。
二人が笑っていてくれるなら、それでいい。
そう、自分で決めた。
決めた、はずなのに。
胸の奥で、小さな本音がそっと顔を覗かせる。
正直やっぱりちょっと、羨ましい。
(……私も…)
ぽつりと浮かんだその続きを、誰に聞かれるでもないのに飲み込もうとする。
けれど、もう誤魔化せなかった。
(……朔也に会いたいな。)
心の中で呟いた、その瞬間。
胸の奥が、ふわりと熱を帯びる。
同時に、お腹のあたりがむずむずとくすぐったくなった。
「〜〜〜っっっ」
思わず布団へ顔を半分埋める。
好き。
そのたった二文字を自覚してしまっただけで。
”会いたい”だなんて、そんな当たり前の気持ちさえ、どうしようもなく照れくさい。
今まで十八年間。
会おうと思えばいつでも会えた。
隣の家に行けばいた。
学校へ行けばいた。
気付けば隣にいるのが当たり前だった。
だから今まで、一度だって”会いたい”なんて思ったことはなかった。
そんな、あの朔也なんかに。
今更“会いたい”だなんて。
ほんと、どーかしてる。
「はぁ…」
小さく溜め息がこぼれた。
受験勉強の追い込み。
雫が頻繁に朔也の家へ通っていること。
その為、冬休みに入ってからほとんど顔を合わせていない。
その”少し会えない”だけで、こんなにも胸が寂しくなるなんて。
知らなかった。
当たり前だった時間は、失いかけて初めて、その贅沢さに気付く。
「あー……切な……。」
小さく漏れた独り言。
それは静まり返った部屋へ溶けるように消えていった。
そして。
───ポン。
静けさの中へ、小さな通知音が響いた。
枕元へ置いてあったスマートフォンへ手を伸ばく。
画面を開くと、表示されたのは綾真からのメッセージだった。
“明日現地?”
その短い一文を見つめながら、陽向の口元へ自然と小さな笑みが浮かぶ。
返事を打ち込み、送信ボタンを押す。
「あ、明日の服どうしよっかな」
陽向はベッドからゆっくり立ち上がり、そのままクローゼットの扉を開ける。
ハンガーへ並んだ冬服を指先で一枚ずつなぞりながら、小さく首を傾げた。
ニットにしようか。
それともコートに合わせてワンピースにしようか。
鏡へ服を当てながら、そんなことを考える時間は、本来なら少しだけ胸が弾むはずだった。
クリスマスイブ。
高熱で中止になってしまった約束。
綾真は陽向の体調が回復すると、すぐに家まで顔を見に来てくれて、初詣にも一緒に行ってくれた。
そして明日は、クリスマスイブの果たせなかった約束をやり直すための、リベンジデート。
楽しみにしてくれていることも。
優しさも。
全部、ちゃんと伝わっていた。
だからこそ。
服を選ぶ手が、ふと止まる。
クローゼットの奥を見つめたまま、小さく息を吐いた。
(…なんて……切り出そうかな。)
その一言が、胸の奥へ静かに沈んでいく。
明日。
デートが終わったら、綾真へ打ち明ける。
好きな人が、出来たことを。
その決意だけは、もう揺らがなかった。
綾真と過ごす時間は楽しくて。
無理をしなくても自然に笑えて、一緒にいる空気は穏やかで心地いい。
隣を歩くことも。
他愛ない話をすることも。
全部、好きだった。
だからこそ、その時間を失ってしまうことが怖い。
今まで通りではいられなくなるかもしれない。
もう二人で笑い合えなくなるかもしれない。
そう思うだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
それでも。
自覚してしまった朔也への想いを隠しながら。
このまま綾真と一緒にいるのは、違う。
このまま隣にいてもらうことはできる。
何も言わず、曖昧なまま笑って過ごすことだって、きっとできる。
けれど。
何も知らない綾真の優しさへ甘え続けることだけは、どうしても出来ない。
そんなの、まるで綾真を騙しているみたいで。
綾真の真っ直ぐが。
真っ直ぐ笑って。
真っ直ぐ気持ちを伝えて。
真っ直ぐ自分だけを見てくれる。
その真っ直ぐさに触れるたび、胸のどこかが痛くなる。
自分だけが、本当の気持ちを隠したまま笑っている。
そんなの、あまりにも卑怯だ。
楽しいから。
寂しくなるのが嫌だから。
失いたくないから。
そんな自分勝手な都合だけで、綾真を隣へ繋ぎ止めておくなんて。
それは自分のエゴだ。
陽向は洋服を選んで、そっとクローゼットの扉を閉めた。
静かな音が部屋へ溶ける。
胸は苦しい。
考えれば考えるほど、喉の奥が締め付けられる。
それでも、その苦しさから逃げるわけにはいかなかった。
明日で終わらせよう。
ちゃんと、自分の口で伝えよう。
その決意だけを胸へ抱きながら、陽向は小さく息を吐き、静かな冬の夜へ視線を向けた。
窓の向こうには、澄み切った夜空がどこまでも広がっていた。
───────。
翌日。
冬の青空はどこまでも澄み渡り、吐く息だけが白く空へ溶けていく。
改札前を出ながらスマホに視線を落としていた陽向は、不意に聞き慣れた声で名前を呼ばれた。
「陽向!」
顔を上げると、人混みの向こうで綾真が笑顔で手を振っていた。
チャコールグレーの細かなチェック柄が入ったショート丈のアウター。
中には真っ白なプルオーバーパーカーを重ね、フードが首元から覗いている。
黒の細身のパンツはすっきりと脚のラインを見せ、足元はシンプルな黒のレザーシューズ。
モノトーンで統一された落ち着いた色合いの私服姿はどこか新鮮で色気があって、少しだけ大人びて見える。
いつもより少しだけ髪を整えたその姿は、どこか気合いが入っているようにも見える。
「なんか今日いつもより格好良くね?」
「サラッと照れること言うのやめれる?」
「綾真って普段の私服スポーティ系だったくね?」
「まー夏はね。しかも今日は一応クリスマスデートだし!」
「そうそう!正月明けのクリスマスデート!」
ニコッと陽向の笑顔が弾ける、
(…ほんと、可愛いな)
綾真は胸の奥で、小さく息を呑む。
ふわりと揺れる淡いグレージュのカーディガン。
毛足の長い、もこもことした生地は冬らしい柔らかな温もりをまとい、肩には小さなリボンが結ばれている。その下からは同じ色合いのインナーが覗き、優しい色味が陽向の白い肌をより一層引き立てていた。
腰から下へ広がるのは、チャコールグレーのロングスカート。
透け感のあるオーガンジーが幾重にも重なり、歩くたびに空気を含んでふわりと揺れる。
その生地には小さなパールが夜空の星を散りばめたように無数にあしらわれ、駅構内の照明を受けるたび、控えめにきらりと光を返していた。
手には、小さな黒いバッグ。
くしゅっと寄せられた持ち手と、大きなリボンが可愛らしく、それでいて全体の色合いは落ち着いていて甘くなりすぎない。
どこか大人っぽくて。
でも、柔らかくて。
ちゃんとお洒落をしてきたことが、ひと目で伝わってきた。
“デートだから”
そんな気持ちが伝わってくる私服姿だった。
綾真は一瞬だけ見惚れたあと、自然と笑みを浮かべる。
「陽向はどこ行くにしても…いつもお洒落だね」
名前を呼ぶと、こちらへ気付いた陽向がぱっと顔を上げる。
その笑顔まで含めて。
今日の冬の景色の中で、一番目を奪われる存在だった。
「銀河いち、可愛い!」
「それな!」
改札前には二人の笑顔が弾けた。
そして、そのまま自然に。
陽向と綾真はいつものように、手を繋いで歩き出した。
駅前の喧騒を抜けると、ガラス張りの通路の向こうには、色とりどりのアトラクションが立ち並ぶレジャーエリアが広がっていた。
レールを駆け巡る大型コースター。
ゆっくりと空へ昇っていく観覧車。
子どもたちの歓声と、どこか懐かしいメリーゴーランドの音楽。
ショッピング施設やレストランが並び、休日を楽しむ家族連れやカップルで賑わうその場所は、冬休みらしい活気に満ちている。
「何から乗る?」
綾真が園内マップを広げる。
「ジェットコースター!」
陽向は迷いなく指を差した。
「は、いきなり?」
苦笑しながらも、その表情はどこか嬉しそうだった。
「んじゃ行くぞー!」
陽向が拳を突き上げ、二人は人波を縫うように歩き始める。
白いレールが冬の青空を大きく切り裂くように伸びている。
ビルの合間を縫うように走る大型コースターは、轟音とともに頭上を駆け抜け、そのたびに歓声が広場へ降り注いだ。
それを見上げながら、陽向は子どものように目を輝かせた。
列へ並び、順番を待つ時間さえ楽しい。
他愛もない話をしているうちに、順番はあっという間にやって来る。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
陽向は子どものように声を上げた。
隣では綾真も大笑いしている。
風景が流れていく。
空。
街。
レール。
歓声。
一瞬一瞬が眩しかった。
ジェットコースターの余韻でまだ少し高鳴る鼓動を抱えたまま、二人は園内をゆっくりと歩いていた。
「最高っ!」
陽向は満面の笑みで飛び跳ねる。
綾真が笑いながら園内マップを広げる。
「次どこ行くかぁ〜……」
指先が園内を辿る。
その時だった。
「あ、お化け屋敷。」
綾真がその言葉を口にした瞬間、さっきまで輝いていた陽向の表情がぴたりと止まる。
「…………。」
数秒の沈黙。
そして陽向は、綾真が広げているマップをそっと閉じようとした。
「え?陽向、お化け苦手なの?」
綾真は思わず笑う。
「…お化け屋敷行くとか…ガチで言ってる?」
明らかに声が上ずっていた。
「じゃあ行こう!」
「待てーいっ!!」
綾真は悪戯な笑顔を弾けさせながら、必死で抵抗する陽向の手を引いていく。
二人は園内の一角に佇むお化け屋敷へと足を向けた。
怖くて前を見ることができず、綾真の背中へ半分隠れるように歩く姿は、普段の勝気な陽向からは想像もできないほど頼りなかった。
それでも綾真は笑って茶化すことはせず、驚くたびにそっと歩みを止め、落ち着くまで静かに待ってくれる。
陽向が涙目になりながら必死についてきた姿も、驚くたび何度も腕へしがみついてきたことも、綾真は全てが愛おしく感じた。
外へ出た瞬間、遊園地の賑やかな音が一気に耳へ戻ってくる。
子どもたちの笑い声。
アトラクションの走行音。
どこからか漂うクレープの甘い香り。
ほんの数十分前まで当たり前だったその景色が、ひどく安心できるものに思えた。
他愛もないやり取りを交わしながら、二人は再び賑わいの中へと歩き出した。




