第164話 二人だけのクリパリベンジ
そして───────。
浴室の扉が開き、ふわりとシャンプーの爽やかな香りがリビングへ流れ込んだ。
タオルで髪を拭きながら顔を覗かせた陽向は、食卓を見た瞬間、ぱっと瞳を輝かせる。
「わぁ……!」
思わず足を止める。
テーブルいっぱいに並んだ料理は、まるで昨日の時間をそのまま今日へ運んできたようだった。
こんがり焼けたチキン。
オーブンの熱が残るピザ。
艶やかなローストビーフ。
色鮮やかな生ハムとチーズのリースサラダ。
箱から取り出されたクリスマスケーキ。
そして、その豪華な料理の真ん中に、どこか場違いなくらい家庭的な湯気を立てる一杯のうどん。
病み上がりの陽向のためだけに用意された、世界で一番優しい一皿だった。
「わー!美味しそー!」
さっきまでの恥ずかしさもどこへやら。
陽向は子どものように食卓へ駆け寄る。
その様子を見ていた朔也は、皿を並べながら小さく笑った。
「ドライヤーしなくていいの?」
「もうお腹すいた!」
即答だった。
昨日、水を飲むことさえ辛そうだった人間とは思えない勢いに、朔也は呆れたように肩を竦める。
「駄目だお前!くし付きドライヤーと普通のドライヤー2個あんだろ。ダブルでやれば一瞬だから来い!」
「いやーっ!鬼畜ー!!」
陽向は洗面所へ強制連行され、朔也と一緒にドライヤーを二台駆使して、爆風で髪を乾かされる。
そして再びリビングへ戻るも、陽向はふと思い出したように冷蔵庫を開けた。
「あ、てかそう言えばシャンメリーあるよ!」
小さく歓声を上げながら、冷えたボトルを嬉しそうに掲げる。
「せっかくだから開けようよ!」
朔也も自然と頷いた。
「じゃあ……クリスマスっぽい曲でも流すか。」
スマートフォンを手に取り、音楽アプリを開く。
画面をスクロールしながら苦笑する。
「適当にクリスマスミックスでいい?」
「うん!」
返事と同時に、スピーカーから静かに流れ始める鈴の音。
どこかで聞いたことのあるクリスマスソングが、穏やかに部屋を包み込んでいく。
昨夜まで灯りに包まれていたクリスマスイブは終わったけれど、家の中にはまだ少しだけ、聖なる夜の余韻が残っているようだった。
12月25日。
豪勢な料理が並ぶ食卓を挟み、二人は向かい合って腰を下ろす。
朔也がシャンメリーの栓をひねる。
──ポンッ。
軽やかな音が響き、甘い香りと小さな白い煙がふわりと立ち上った。
「おぉ〜!クリパっぽい!」
陽向が嬉しそうに笑う。
二人はグラスへ琥珀色のシャンメリーをゆっくりと注いだ。
細かな泡がきらきらと弾け、冬の陽射しを受けて小さな宝石のように輝いている。
向かい合った視線が重なり、どちらからともなく笑みがこぼれた。
昨日は、高熱でクリスマスどころではなかった。
家族みんなで囲むはずだった食卓も、そのまま静かな夜を迎えてしまった。
だからこそ今、この時間が少しだけ特別に思えた。
偶然が重なって生まれた、二人だけの小さなクリスマス。
「じゃあ、改めて…メリークリスマス!」
陽向が照れくさそうにグラスを持ち上げる。
「あぁ。まぁ、一応そうだな。」
少し照れながらも、朔也もグラスを掲げた。
「カンパーイ!」
──カチン。
澄んだ音が、クリスマスソングの流れる穏やかなリビングへ優しく響いた。
それからの時間は、まるで冷戦状態だっ昨日までの二ヶ月が嘘だったかのように穏やかだった。
クリスマスソングが静かに流れるリビング。
テーブルいっぱいに並んだ料理は少しずつ空になり、シャンメリーの泡もいつの間にか消えている。
「かっらっっっ!!なにこのピザーーーー!!」
「ギャハハハハ!!」
「ロシアントラップ仕掛けんなーーーーー!!」
「ハバネロこんだけゴッソリ掛かってたらよく見りゃわかんだろ!お前ってなんでそんなチョロいの?」
「死ぬーーー!!ほんとまじお前殺す!!!」
そんな他愛もないことに笑って。
高校の話になり。
受験の話になり。
小学生の頃の思い出話しで笑い転げ。
気付けば、二ヶ月近く続いていた気まずい空気など、最初から存在しなかったかのようだった。
言葉を選ばなくてもいい。
変に気を遣わなくてもいい。
思いついたことを、そのまま口にできる。
そんな当たり前だった距離が、ようやく戻ってきた。
それは、失っていた時間を埋めるように。
空白だった二ヶ月分まで取り戻そうとするかのように。
二人の笑い声は、午後の穏やかな陽射しが差し込むリビングへ何度も響いていた。
そして──────。
「う〜〜〜〜〜……食べ過ぎたぁ〜〜〜〜〜……」
陽向はシャンメリーの瓶を片手に持ったまま、力が抜けたようにソファへ倒れ込む。
ふかふかの背もたれへ身体を預けると、満腹感と心地よい疲労が一気に押し寄せてきた。
久しぶりに、こんなに笑った。
久しぶりに、こんなに食べた。
昨日高熱で何も口にできなかったことが嘘みたい。
そんなことをぼんやり思った、その時だった。
ズキンッ──。
額の奥を鈍い痛みが突き抜ける。
「……っ」
思わず眉を寄せる。
さっきまで忘れていた熱が、ゆっくり身体の奥から戻ってくるような感覚。
頬がじわりと熱を帯び始め、身体が少しだけ重くなる。
「…やば……薬……切れてきた……」
小さく漏れた声は、どこか力がなかった。
ロキソニン。
そう思った瞬間、脳裏に浮かんだのは二階の自室。
机の上へ置きっぱなしにした薬袋。
(……取りに行かなきゃ……。)
そう思うのに。
満腹になった身体は鉛のように重く、ソファへ沈み込んだまま動いてくれない。
キッチンからは、水の流れる音が聞こえる。
食器同士が軽く触れ合う乾いた音。
朔也が後片付けをしてくれている。
陽向はシャンメリーの瓶を胸へ抱えたまま、小さく息を吐いた。
ほんの少しだけ目を閉じる。
(……追ロキソしたいけど………)
二階まで行くの…………だるい………。
その一言が頭いっぱいに広がる。
「…………。」
病み上がりの身体は、想像以上に正直だった。
瞼は重く。
全身からゆっくりと力が抜けていく。
数分後────。
「……おい。」
食器を洗い終えた朔也が、タオルで手を拭きながらリビングへ戻ってきた。
そして目に飛び込んできた光景に、思わず足を止める。
ソファへ、ぐでぇっと身体を投げ出し。
シャンメリーの瓶を抱えながら眠りかけている陽向。
熱が少し戻ってきたのか頬はほんのり赤く染まり、力なく口を半開きにしたその姿は、どう見ても。
「酒瓶抱きしめてソファでぶっ潰れてる酔っ払いじゃねーか!!」
朔也は呆れたように眉を寄せながら叫ぶ。
けれどその直後、朔也はスッと真顔になる。
陽向の頬の赤みに気付いたからだ。
楽しそうに笑っていたさっきまでとは違う。
浅くなった呼吸。
額へ滲む汗。
力なく閉じられた瞼。
──薬が切れた。
そう確信した瞬間。
朔也の表情から、さっきまで浮かんでいた笑みが静かに消えていった。
(……だから言ったのに…)
解熱剤が効いているからといって、病気そのものが治ったわけじゃない。
風呂へ入って。
あれだけ食べて。
笑って、騒いで。
病み上がりとは思えないほど動き回っていたのだから、反動が来るのはある意味当然だった。
小さくため息をつきながらソファへ歩み寄り、ぐったりと横たわる陽向を見下ろす。
頬はほんのり赤く染まり、さっきまで元気に笑っていた目も今は力なく閉じられている。
「……お前、熱上がってんだろ」
陽向は薄く目を開け、だるそうに朔也を見上げた。
「だから…君はなんで見ただけでわかんの……?」
熱で少し掠れた声。
朔也は呆れたように肩をすくめる。
「解熱剤効いて調子乗って、あんだけはしゃぐからそーなんだよ」
陽向はシャンメリーの瓶を胸へ抱えたまま、むにゃむにゃと反論する。
「ロキソニンブーストで…お風呂入ったりご飯食べたり……クエスト達成すんだよ……」
「ロキソニンは変身アイテムじゃねーぞ」
「ロキソニン隊長……いい仕事してくれんだわ……」
「とっくに営業終了してんじゃん」
ぴしゃりと言い返されても、陽向はどこ吹く風だった。
「追ロキソしたいけどぉ……薬の袋、部屋なんだよねぇ……」
言い終わる頃には、再び瞼が重たそうに閉じかけている。
その姿を見て、朔也は思わず腰へ手を当てた。
苦笑ともため息ともつかない息を漏らしながら、陽向の手に握られていたシャンメリーの瓶をひょいっと取り上げる。
「おい。」
瓶をテーブルへ置き、もう一度陽向を見下ろす。
「お前、もう上行って薬飲んで寝ろ。」
その声は呆れているようでいて、どこまでも優しかった。
無茶ばかりする幼馴染に、何度言い聞かせても同じことを繰り返される。
それでも結局、放っておけない。
幼い頃から、それだけは何一つ変わらなかった。
すると、その時だった。
ソファへぐったりと身体を預けていた陽向が、ゆっくりと瞼を開く。
熱のせいで少し潤んだ瞳が、ぼんやりと朔也を映した。
そして。
スゥ……っと。
毛布の上から、細い両腕がゆっくりと持ち上がる。
まるで小さな子どもが親へ甘えるように。
朔也へ向かって、そっと伸ばされた。
「…………抱っこ……。」
熱に浮かされたような、か細い声が静かなリビングへ落ちた。
「────っっっ!?!?!?」
朔也の全身がビクリと跳ね上がる。
心臓が、一気に喉元までせり上がった。
熱でほんのり赤く染まった頬。
少し潤んだ瞳。
ぼんやりと自分を見上げる上目遣い。
吐息さえ熱を帯びていて、その弱々しい声は、普段の陽向とはまるで別人だった。
「……な、おま……お前……」
言葉が出てこない。
脳みそが一瞬で真っ白になる。
視線が泳ぐ。
耳まで一気に熱くなっていくのが、自分でもわかった。
「ハッ…!!」
慌ててテーブルに置かれていたシャンメリーの瓶を掴み上げる。
「まさかシャンメリーで酔っ払ってんのっ!?!?」
「……へ?」
陽向はキョトンと瞬きをした。
何をそんなに慌てているのか、本気でわからない。
本人の中では、ただ身体がだるくて起き上がれないだけ。
いつものように、両腕を引っ張って起こしてもらおうと思っただけだった。
その一言が、朔也へ核爆弾級のダメージを与えていることなど知る由もない。
朔也は瓶をひっくり返すようにしてラベルを何度も確認する。
「これほんとにシャンメリーだよな!?」
バタバタと忙しなくキッチンへ駆け込む。
そして空き瓶を一本ずつ確認し始めた。
「全部シャンメリーじゃねぇか!!」
再びリビングへ戻ると、ダランと横たわったままの陽向へ向かって必死に訴える。
「ひな!!シャンメリーはノンアルだぞ!!」
肩をガシっと掴みながら叫ぶ。
さらに目を覚まさせるかのように懸命に揺さぶる。
「お前それ、完全にプラシーボ効果だからな!!」
「……うるさいなぁ……わかってるよぉ……。」
陽向は半分眠ったような顔で小さく眉を寄せた。
その返事はどこまでも気のないものだった。
そして再び。
朔也へ向かって両腕を伸ばす。
「ねぇ〜……」
熱で少し掠れた甘い声。
「早くぅ〜……」
「…っっっ!!」
朔也は反射的に一歩後退る。
「無理!!」
さらにもう一歩。
「キショイ!!」
耳まで真っ赤にしながら叫ぶ。
「甘えんな!!」
全力で拒否しているはずなのに、その顔は照れ隠しがあまりにも分かりやすかった。
一方の陽向はというと、拒否された理由すら理解できず、不満そうに口を尖らせるだけだった。
病み上がりで熱に浮かされた天然と、たった一言で理性を吹き飛ばされた幼馴染。
クリスマスの夕方のリビングには、二人らしい騒がしい空間がそこにはあった。
しかし、その瞬間。
ポン。
リビングへ、小さな電子音が鳴り響く。
ソファ脇のコンセントへ繋いであった朔也のスマートフォン。
画面がふわりと光り、通知が一件表示される。
朔也は反射的に視線を向けた。
ロック画面へ表示された送り主の名前を見た瞬間、その表情が「あっ」という現実へ引き戻されたように変わる。
スマートフォンを手に取り、メッセージを確認する。
「やべ。もうこんな時間じゃん!」
慌てたように充電ケーブルを抜き、スマートフォンをポケットへ滑り込ませる。
その一連の動きを、陽向はぼんやりと見つめていた。
「…もう帰るの…?」
少し寂しさを滲ませながら、見上げる陽向。
それに対し、朔也はごく当たり前のように続けた。
「うん。雫が泊まりにくるから」
「はっ!?今日も会うの!?」
陽向は思わず声が裏返った。
「クリスマスは今日までなんだよ。」
その言葉は、悪気なんてこれっぽっちもない。
ただ、恋人同士なら当たり前の予定を口にしただけ。
それなのに。
陽向の胸は、小さくチクリと痛んだ。
朔也はその痛みに気付くこともなく肩を竦める。
「冬休み中は勉強漬けで引き籠るから」
そして、ふざけたように笑う。
「雫は俺のモチベの為に、新学期始まるまでは通い妻♡」
「…あっそーですか…………」
力の抜けた返事だけを残しながら。
コテン。
陽向はそのまま力尽きたかのようにソファへ頭を預けた。
「ほら!立つぞ!」
返事をする間もなく、朔也は陽向の肩と背中へ腕を差し込み、そのまま上体を支えるように抱え起こした。
その隙に朔也は陽向の背後へ回り込む。
そして、両腕を陽向の脇の下からすっと差し入れ、そのまま細い身体を後ろから包み込むように支えた。
前へ回した腕は、陽向のお腹の前でがっちりと組まれる。
逃がさないと言わんばかりのホールド。
「移動します!!いちっ、にっ、さんっ!!」
医療ドラマの救助隊員のような掛け声で、腕に力を込めて。
「おりゃ!!」
陽向の身体がふわりと浮いて、勢いよく立ち上がらせた。
「そのまま歩いて!はい!全速前進っ!」
「ひぇ…」
廊下をビシッと指差す。
病人相手とは思えないスパルタぶりに、陽向は情けない声を漏らしながら、ふらふらと歩き始める。
たった今まで「抱っこ」と言われて真っ赤になっていた男とは思えない切り替えの早さ。
その雫からの、あまりにも強靭な手綱の握られ方の完璧さときたら、異常な程だった。
雫からのメッセージひとつで、ここまでスイッチが切り替わるとは……
「薄情ものーーーーーー!!!」
「〜♡」
口元を緩ませながら、スマホにメッセージを打ち込んでいる朔也は陽向の叫びなど聞いちゃいない。
それからも散々煽り立てられ、陽向は重い足取りで階段を登りながら、心の中で泣いていた。
しかし、陽向は気がついていない。
自分がかつて俊輔と付き合っていた頃。
当時、俊輔へ熱を上げながら朔也を散々雑にしてきた酷い扱いよう。
その頃の自分とまったく同じことを今度は朔也にされているという事実に。
特大ブーメランは、時間をかけてぐるりと一周し、今まさに陽向の額へ見事に突き刺さっていた。




