第162話 サンタクロースのプレゼント
クリスマスイブから、一夜が明けた。
まだ夜の名残を少しだけ残した冬の早朝。
カーテンの隙間から、淡い朝陽が静かに部屋へ差し込み、シーツの上へやわらかな光を落としている。
陽向は、静かに目を開く。
一晩中、長く眠っていた気がする。
部屋の空気はしんと静かだった。
昨夜まで耳を塞ぐように鳴っていた頭痛も、身体を押し潰していた鉛のような重さも、少しだけ遠ざかっている。
解熱剤が効いているのか、昨日とは比べものにならないほど楽だった。
今日は、クリスマスの朝。
そして目覚めた枕元。
ボーッとしながら、ふと横へと視線を流し。
ぼんやりと霞んだ、視界の先へ映り込んできたものを────
見た。
「…っ!?」
陽向の瞳が大きく揺れた。
枕元のすぐ傍。
床へ腰掛けたまま。
両腕をベッドへ預け。
そのまま伏せるように眠っている──────
朔也の寝顔があった。
それはまるで、陽向への。
サンタクロースが置いてくれたクリスマスプレゼントみたいだった。
穏やかな寝息。
少し乱れた前髪。
長い睫毛が朝陽を受けて淡く影を落としている。
(な…なんで……)
鼓動が跳ねる。
こんな近くで眠っている。
ダウンジャケットを着たままで。
鞄すら脇に抱えたまま。
その姿を見た瞬間、陽向はすべてを理解した。
きっと夜遅くに。
デートから戻って、一旦自宅へ寄る事すらしないで。
真っ直ぐここに、帰ってきたんだ。
自分の様子を見に。
その事がわかると、陽向の胸に熱いものが競り上がる。
(しいちゃんが待ってるから。今すぐ行って。)
昨日、そう言ったのは自分だった。
彼女を待たせちゃ駄目だって。
急かすように送り出したのも、自分だった。
だから。
もう戻って来ないと思っていた。
朝になれば、きっと当たり前にそのまま家で眠っているんだろうと。
そう思っていたのに。
帰ってきてくれた。
ここに、自分のために。
それだけで。
胸の奥へ込み上げてくるものを、もう止めることができなかった。
(……バカ…っ)
泣きそうな笑みが浮かぶ。
どうして、この人は。
いつだって。
こんなにも優しいんだろう。
陽向は起こさないように、そっと指先を伸ばした。
眠る朔也の手へ触れようとして。
あと数センチのところで、その手は静かに止まる。
触れたい。
でも。
起こしたくない。
脳裏へ浮かんだのは、昨日の処方箋待合席だった。
手を繋ぎたくて。
伸ばしかけた指先を、自分で引っ込めたあの瞬間。
そんなことをしていい立場じゃない。
その想いだけが、自分を引き止めていた。
だから、今。
この手に触れてしまえば、何かが変わってしまう気がした。
胸の奥で、小さな葛藤が波紋のように静かに広がっていく。
「………。」
陽向は唇をきゅっと結ぶ。
それでも。
今なら。
誰にも見られていない。
本人だって眠っている。
この一瞬だけなら。
誰も傷付かない。
誰にも知られない。
迷いながら。
静かに。
壊れ物へ触れるように。
震える指先を重ね。
朔也の手を─────そっと握った。
朔也の手の温もりがゆっくりと包んでいく。
その温度だけで、胸がいっぱいになる。
トクン。
トクン。
トクン。
鼓動だけが、静かな部屋に響いているような気がした。
抑えようとしても、もう抑えられない。
ずっと心の奥へ閉じ込めてきた想いが、静かに溢れていく。
陽向は眠る朔也を見つめた。
朝日に照らされた横顔は穏やかで。
安心しきった寝息が、静かな部屋へ規則正しく溶けていく。
その寝顔を見ていたら。
自然と唇が動いた。
「…………好きだよ。」
息と一緒に零れ落ちるほど小さな声が、眠る朔也の枕元にぽそりと落ちた。
届かなくていい。
届いてしまったら困る。
眠っている、今だから言えた。
ずっと。
ずっと隠してきた、本当の気持ち。
全然タイプなんかじゃない。
口は悪くて。
態度は偉そうで。
女たらしで。
私が憧れるような理想の人とは、到底かけ離れてる。
ずっと、家族みたいで。
兄弟みたいで。
空気みたいで。
あまりにも近すぎる存在で。
そんな朔也に恋をするなんて、ありえない。
そんなの絶対あるはずないって、ずっと思っていた。
思い込もうとしていた。
違うって。
これは恋なんかじゃないって。
認めたくなくて。
目を逸らしたくて。
何度も自分へ言い聞かせ続けた。
だけど。
本当はずっと。
とっくに、気づいてた。
一緒に笑うたび。
誰かといる姿を見て苦しくなるたび。
彼女と並んで歩く後ろ姿を見つめるたび。
胸の奥は、ちゃんと答えを知っていた。
もう、これ以上自分に嘘はつけない。
もう、この気持ちを誤魔化せない。
でもきっと。
あなたが私を好きになる日は、来ないよね、
着替えも平気でさせられちゃうくらい。
私を女の子としてなんて、意識した事ないよね。
私を女の子として見ていたら、あんなふうにはできない。
俊ちゃん。
綾真も。
きっと出来ない。
あなたの側には、誰よりも女の子らしくて。
可愛くて、素直で、健気で、優しくて。
心から大切にしたいと思える彼女がいるのに。
それを知ってて、あなたを好きになってしまった私は、本当に最低だ。
(…ごめんね……朔也…………)
心の中で、小さく呟く。
握った手へ、ほんの少しだけ力が入った。
この想いは。
私だけが知っていればいい。
幼馴染のままで。
今まで通り、何も変わらずに。
同じ距離で笑っていたい。
あなたの幸せを、一番近くで願える人でいたい。
ちゃんと、願うから。
迷惑は、かけないから。
だから。
この恋だけは、胸の奥へ静かにしまっておくね。
その時。
胸の奥へ長い間刺さったまま抜けなかった棘が、音もなく、すっと抜けていくような気がした。
苦しかった。
ずっと苦しかったはずなのに。
認めた瞬間、不思議と気持ちが楽になった。
ただ、長い冬を越えた朝のように。
胸いっぱいに張りつめていた違和感が、ゆっくりとほどけていく。
その痛みさえも愛おしいと思えるほど、静かで、優しい解放だった。
朝の陽射しは変わらず二人を包み込み、繋いだ手だけが、小さな秘密を知るように温もりを分け合っていた。
陽向は、まだ熱の残る頭でぼんやりと朔也の寝顔を見つめながら。
ゆっくりと────
再び意識は、夢の中へと沈んでいった。
───────。
太陽はすっかり高く昇り、冬の朝は穏やかな光に満ちていた。
カーテンの隙間から差し込む明るい陽射しが、部屋の空気を白く照らしている。
昨夜まで張りつめていた緊張も、静かな朝の光に少しずつ溶かされていくようだった。
その温もりに包まれるようにして、朔也はゆっくりと瞼を開く。
「───……っ!?」
眠気は、一瞬で吹き飛んだ。
視界の先。
自分の右手の上へ、小さな手がそっと重なっている。
それだけではない。
指先までしっかり絡めるように、ぎゅっと握り締められていた。
(……なんで!?)
心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
昨夜、自分は確かにベッドへ腕を預けた。
そして、そのままいつの間にか寝落ちしてしまった。
今、その手を握っているのは陽向だった。
規則正しい寝息を立てながら、何事もなかったかのように穏やかな表情で眠っている。
まるで安心しきった子どものように。
朔也は思わず陽向の寝顔を見つめた。
伏せられた睫毛。
熱で少し赤みを残した頬。
静かな寝息に合わせて、小さく上下する肩。
昨夜とは違う。
苦しそうだった呼吸も、苦痛に歪んでいた表情も、今は少しだけ穏やかになっていた。
(……熱…下がったのか……?)
確かめるように、そっと空いている手を伸ばす。
指先が陽向の頬へ触れた。
昨日のように燃えるような熱さは、もうない。
まだ少し熱は残っているものの、その温度は確かに穏やかになっていた。
その瞬間、胸の奥で固く張りつめていたものが、ふっとほどけていく。
心地よい安堵だけが、静かに胸いっぱいへ広がっていく。
朔也は小さく息を吐き、もう一度だけ陽向を見つめた。
眠る横顔は、朝の光を受けて驚くほど柔らかく見える。
こんなふうに無防備な寝顔を、どれくらい眺めていただろう。
不思議と時間の感覚が薄れていく。
静かな部屋。
冬の朝。
繋がれたままの手。
その穏やかすぎる空気に身を委ねていると、心のどこかが─────
このまま動きたくないと、囁いてくる。
(……駄目だ。)
小さく胸の中で呟く。
これ以上、この寝顔を見つめていたら。
この温もりに委ねていたら。
また昨日みたいに、自分の気持ちが揺らいでしまう気がした。
雫の顔が浮かぶ。
もう迷わないと決めたはずなのに。
その決意ごと、この静かな朝へ溶かされてしまいそうだった。
朔也はゆっくりと視線を伏せる。
繋がれた手を見る。
陽向の細い指は、小さな子どもが安心を求めるように、自分の手をぎゅっと握り締めたままだった。
起こさないように。
指先をほんの少しずつ動かしながら、自分の手を静かに抜いていく。
離れていく温もりに、陽向は小さく身じろぎしたものの、そのまま再び穏やかな寝息を立て始めた。
朔也は思わず苦笑する。
「……ふぁ〜……」
大きく欠伸を漏らしながら立ち上がる。
凝り固まった身体をゆっくり伸ばすと、肩や背中の節々が小さく軋んだ。
窓の外では、冬の朝を告げる鳥の鳴き声が遠くから聞こえてくる。
時計を見ると、もうすっかり朝だった。
(……帰ろ。)
小さく息を吐く。
最後にもう一度だけ、眠る陽向へ視線を向ける。
布団の中で穏やかに眠るその姿を確認すると、朔也はどこか安心したように口元を緩めた。
静かに踵を返す。
ドアノブを回す音さえ忍ばせるように部屋を出ると、扉は音も立てずにゆっくりと閉じられた。
階段をゆっくりと降りていく。
昨日は一日中忙しく動き回っていたせいか、足取りはどこか重い。
肩や首にはまだ鈍い疲労が残っていた。
リビングの方からは、朝の情報番組の賑やかな音声と、キッチンから漂うコーヒーの香りがふわりと流れてくる。
そんな穏やかな朝の空気の中──
「あら、朔おはよー!また上で寝落ちした?」
ぱっと花が咲くような明るい声が飛んできた。
陽向の母・早苗だった。
リビングから顔を覗かせ、いつものように朗らかな笑顔を向けてくる。
「うん…やったわ。」
朔也は苦笑しながら続けた。
「昨日ごめんね。夜中にLINEして。」
「全然?韓国ドラマ見てたから、」
早苗はケロッと笑う。
「寝た方がいいよ?忙しいんだから。」
陽向の母親、早苗の笑顔に朔也の肩の力が少し抜ける。
夜中に早苗へ突然送った連絡だっただけに、起こしてしまったかもしれないと少し気になっていた。
「さなちゃん、もう仕事行くの?」
「あとちょっとしたら出る!」
時計へ目を向けながら答える。
早苗は続けて問いかけた。
「今日から冬休みでしょ?朔は今日どっか出掛けるの?」
「いや。共テ近いから今年の冬休みはどこも行かない。」
「そっかぁ!偉っ!」
早苗は感心したように頷いたあと、声を上げる。
「ねぇねぇ!昨日のチキンもピザもケーキも、ほとんど手付かずなんだよぉ〜家いるなら今日食べちゃってくれない?」
「まじか。」
思わず笑みが漏れる。
昨日は陽向の高熱で、恐らく星野家はパーティどころではなくなってしまった。
クリスマスイブのご馳走が、そのまま残ってしまったのだろう。
「わかった。俺一旦帰って寝るから…起きたらまた来る。
眠気を堪えるように欠伸を噛み殺しながら答える。
「ありがとー!」
早苗は嬉しそうに笑う。
「一応、ひなにはうどん作ってあるから!朔が後で来た時にまだ食べてなかったら食べるように言っといて。」
「わかった。」
「私、鍵閉めて仕事行っちゃうから、玄関に置いてあるひなの鍵持ってってねー。」
「はーい。」
返事をすると、朔也は玄関へ向かい、靴箱の上へ置かれていた陽向の家の鍵を手に取った。
小さな金属音が静かな玄関へ響く。
ポケットへ鍵をしまい、靴を履く。
「じゃーねー」
「うん!よろしくねー」
早苗に軽く手を振り返し、朔也は外へ出た。
冬の朝の冷たい空気が、火照った身体へ一気に流れ込む。
一晩張りつめていた緊張がようやく解けたのか、どっと押し寄せる眠気に襲われながら、朔也はゆっくりと自宅へ戻っていった。
───────。
それから。
陽向が再び目を覚ましたその時には───────。
「………………。」
もう、朔也の姿はどこにもなかった。
静まり返った部屋。
カーテンの隙間から差し込む冬の陽射しだけが、穏やかに部屋を照らしている。
ぼんやりとした頭で壁の時計へ視線を向ける。
針は、朝十時を少し過ぎていた。
しばらく瞬きを繰り返す。
そして、ぽつりと胸の中で呟いた。
(……夢……だったのかな…………)
あんな夢を見るなんて、よっぽどだ。
好きだなんて言って。
手なんか繋いで。
あんな恥ずかしい夢を見るなんて、自分でも笑えてくる。
それでも。
(あれは…….)
間違いなく、私の本音だ。
それが、わかったら。
長い間必死で抵抗していた自分の気持ちに諦めがついて、胸の奥が不思議なくらいスッキリしている。
その時。
ズキンッ──。
鈍い痛みが額の奥を走った。
「いたた……」
昨日ほどではない。
身体も動く。
熱も少し下がったみたいだ。
それでも、まだ鉛を抱えたような重さは残っている。
昨日飲んだ解熱剤の効果は、もう切れてるはず。
ふと机へ目を向ける。
そこには、半分ほど残ったグラスの水。
そして、薬の袋。
陽向はゆっくりと身体を起こした。
「……よっ……こいしょ……」
ベッドから降りると、ふらつく足取りのまま机へ向かう。
袋から薬を取り出す。
解熱剤のシートを指先で摘まみ、その銀色の包装を見た、瞬間。
(手伝えるところまで手伝うから。)
頭の中へ。
昨日の記憶が、小さな火花を散らすように蘇る。
(……最後のところは、自分で何とかしろよっ!)
カチリ。
何かのスイッチが入った。
次の瞬間。
ドバーーーーーーーーーッ!!!
洪水のように雪崩れ込んだのは、昨日解熱剤を服用するに至るまでの映像。
秒速で巻き戻されて、そこから脳内で鮮明に再生される。
背中を支えられて。
(ひな…)
耳元で名前を呼ばれて。
後ろから抱き起こされて。
ワイシャツ。
ボタン。
ボボボボッ
「〜〜〜〜っっっ」
陽向の頬は燃えるように熱くなり、耳まで真っ赤に染まった。
解熱剤を飲まされて。
頬を触られて。
熱を確かめられて。
薬を飲み終えたあと、ベッドへと寝かせられて。
(映像の破壊力ハンパな!!!!)
陽向は、恥ずかしさを押し込めるように解熱剤を勢いよく口へと放り込む。
そのままグイッと水で一気に流し込む。
パタパタッとベッドへ戻ると。
ボブンッ!!
勢いよくダイブ。
毛布を頭からすっぽり被る。
穴があったら入りたいかのように、布団の中で身体を小さく丸め込む。
「……………。」
静かになった。
……はずだったのに。
勝手に再生される。
止まらない。
頭の中の陽向メモリアル上映会が、絶賛ノーカット放映中だった。
そして、流れてきたのは。
夢の中のあの光景。
朝日。
穏やかな寝顔。
枕元。
それはまるで、サンタさんからのプレゼントみたいで。
そっと伸ばした手。
ぎゅっと重ねた指先。
そして。
ラスボスのよう登場してきたその映像が再生された。
(…………好きだよ。)
「…………。」
数秒の沈黙。
そして。
「…………いやん♡」
(キショ過ぎるだろーーーーーーー!!!!!!)
ぽそりと自分で言った次の瞬間、毛布の中で盛大な心の絶叫が響き渡った。
全開乙女モードの自分を。
誰よりも全力で否定する陽向なのであった。




