第161話 最強の手綱は、極上の愛
ポン。
静かな自室に、小さな通知音が響いた。
ベッドへ腰掛けたままネイルを磨いていた雫は、手を止めて机の上のスマートフォンへ視線を向ける。
画面に表示されていたのは、朔也からのメッセージだった。
”あと5分くらいでつく”
その一文を見つめたまま、雫は自然と画面左上の時刻へ目を移す。
15:52。
その数字を見た瞬間、昼過ぎの出来事が静かに蘇った。
保健室。
高熱の陽向を病院へ連れて行くため、朔也は急いで車を取りに部屋を出ていった。
あれからまだ数時間しか経っていない。
元々約束していた迎えの時間は、午後4時。
少しくらい遅れてくるかもしれないと、心のどこかで覚悟はしていた。
けれど、あと5分で着く。
つまり、約束より少し早いくらい。
その事実だけで十分だった。
陽向を心配する優しさも。
約束を守ろうとする誠実さも。
全部ひっくるめて───彼が最後に会いに来るのは、自分。
その事実が、胸の奥をくすぐる。
唇が、ふわりと緩んだ。
「………よくできました♡」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
その声音は、優しく頭を撫でるような柔らかさを帯びていた。
雫は鼻歌混じりに、ネイルケアの道具を一つずつ丁寧に片付ける。
蓋を閉め、小さなポーチへしまい、机の上を軽く整えると、壁に掛けられたコートへ手を伸ばした。
お気に入りのバッグを肩へ掛け、玄関へ向かう。
胸の奥では、クリスマスイブの待ち合わせを前にした、小さな高鳴りが静かに膨らみ始めていた。
ガチャリ、と重い車のドアが開いた。
滑り込むように助手席に乗り込んできた雫は、シートに深く身体を預けながら、いつもの見慣れた笑顔を朔也に向ける。
「早かったね!」
「そう?時間通りだよ」
「だって、今日は病院に行ったから……そんなに急がなくても良かったのに」
少し申し訳なさそうに、けれど嬉しさを隠せない様子で柔らかく微笑む雫。
朔也はそんな彼女の顔を、じっと見つめた。
「……。」
覗き込むように顔を近づける。
不意に縮まった距離に、雫の瞬きが止まった。
「俺が早く会いたかったんだけど。」
いたずらっぽく、けれど有無を言わせない熱を帯びた声が、車内の狭い空間に低く響く。
ドキリ、と雫の心臓は跳ね上がる。
ずいっとさらに距離が縮まり、朔也の端正な顔がすぐ目の前まで迫った。
その時、先ほど学校で会った時には感じなかった香りが、雫の鼻を掠めた。
「……香水、つけてる?」
「うん。臭い?」
「ううん、いい匂い…」
小さく首を振った雫は、誘われるように朔也の首元へと腕を回した。
そのまま、彼の香りを深く吸い込むように、そっと首筋へ顔を埋める。
その瞬間。
ゾクリ───
一瞬、陽向の吐息が、先ほど自分の首筋に触れた瞬間の感覚が蘇った。
「……っ」
しかし朔也は、すぐに愛おしさを堪えきれないように彼女の背中に腕を回し、指先で雫の長い髪を優しく梳いた。
ゆるやかに波打つ毛先が、指の間を滑り落ちていく。
「髪の毛巻いたの?」
腕の中で、雫が小さく顔を上げた。
「うん…可愛い?」
至近距離で視線が絡み合う。
「……めちゃくちゃ可愛い…」
熱を帯びた朔也の瞳に、雫の頬がほんのりと赤く染まる。
「朔也くんも……めちゃくちゃ格好良いよ……」
吐息混じりの言葉が溶け合うと同時に、二人は自然と引き寄せ合うように、深く唇を重ねた。
狭い車内は、たちまち二人の熱だけで満たされていった。
「朔也くん…っ」
雫は、自分を壊しそうなほどきつく抱きしめてくる朔也の胸を軽く押して、わずかに唇を離した。
名残惜しそうに、細い吐息がこぼれる。
「…早く行かないと…車混んじゃったら急いで来てくれた意味なくなっちゃう」
「あ、そか。ごめんつい。」
我に返った朔也は、パッと雫を離した。
カチリとサイドブレーキを解除する。
「夜は長いからな!」
ハンドルを握り、悪戯っぽく口元を緩める朔也。
冗談混じりにそう言いながら、子供のように無邪気に笑いかけてくれる彼の全てが、雫には愛しくてたまらなかった。
「…うん。そうだね」
心の奥から湧き上がる愛おしさを噛み締めるように、雫もまた、火照った頬を緩めてふわりと微笑んだ。
静かにアクセルが踏み込まれる。
低く唸るエンジン音とともに、滑り出すように車が発進した。
フロントガラスの向こうに広がる夜景を見つめながら、二人の特別な────
そして、長い聖なる夜が幕を開けた。
夕暮れが完全に夜へ溶ける頃。
冬の街は、どこまでも優しく光っていた。
赤や金、白のイルミネーションが幾重にも連なり、赤煉瓦造りの街並みを幻想的に照らしていく。
広場一面には無数の電飾が瞬き、冬の澄んだ空気を優しく暖めてくれるようだった。
中央にそびえる大きなクリスマスツリー。
その前では恋人たちが肩を寄せ合い、家族連れが笑い合い、子どもたちは歓声を上げながら駆け回っている。
どこを見ても、幸せそうな笑顔ばかりだった。
「綺麗……!」
雫が思わず足を止め、小さく息を漏らす。
その横顔を見つめながら、朔也は静かに笑った。
指先が触れる。
自然と恋人繋ぎになった手。
冷えた空気とは裏腹に、その温もりだけがやけに熱く感じる。
写真を撮って笑い合い。
温かいドリンクを分け合い。
屋台で小さなお菓子を摘まみながら歩く。
何気ない時間なのに、一秒一秒が宝物になっていく。
やがて時計の針が七時を指す頃。
二人は予約していたレストランへ向かった。
大きな窓いっぱいに広がる夜景。
港へ映る光がゆらゆらと揺れ、街全体が宝石箱のように輝いている。
キャンドルの灯りが静かにテーブルを照らし、グラスの中では琥珀色の光が揺れていた。
運ばれてくる一皿一皿は、まるで芸術品のように美しい。
クリスマス限定のコース料理を味わいながら、学校での出来事や幼い頃の思い出を語り合う。
笑って。
照れて。
見つめ合って。
そんな穏やかな時間が、ゆっくりと流れていった。
デザートが運ばれてきた頃。
朔也はテーブルの横へ置いていた小さな紙袋を手に取る。
「はい!メリークリスマス」
少し照れ臭そうに差し出されたそれを見て、雫の瞳が大きく揺れた。
「あ…私も!」
バッグの中から、同じように大切そうに包まれたプレゼントを取り出す。
思わず二人で笑ってしまう。
「せーので開ける?」
「うん。」
包装紙をほどく小さな音が重なった。
箱を開けた瞬間、互いの表情がゆっくりと花開く。
「…わー…可愛いー!ありがとう!めっちゃ嬉しいっ!」
たったその一言なのに。
どんな高価な言葉よりも、心へ深く響いた。
プレゼントを大切そうに抱き締める雫を見て、朔也は胸の奥がじんわりと温かくなる。
今日という日が、この笑顔のためにあったのだと、心から思えた。
気付けば時計の針は、夜九時を回っていた。
レストランを出ると、夜風が二人を優しく迎える。
海沿いの公園には、昼間とは違う静けさが広がっていた。
遠くから聞こえる波の音。
ゆっくりと行き交う遊覧船。
街明かりが水面へ長く伸び、まるで光の道を描いているようだった。
二人は肩を並べ、ゆっくりと歩く。
繋いだ手の温もりで、お互いの気持ちは十分すぎるほど伝わっていた。
冬の夜空を見上げる。
吐く息は白く。
肩が触れるたび、小さく笑い合う。
クリスマスイブ。
街は今も、数え切れないほどの灯りに包まれている。
二人はベンチへ並んで腰を下ろし、遠くに広がる幻想的な街並みを眺めながら、他愛もない話に花を咲かせていた。
学校であった出来事。
幼い頃の思い出。
最近ハマっている音楽や映画。
どんな話をしていても、不思議なくらい時間はあっという間に過ぎていく。
誰にも急かされない。
誰にも邪魔されない。
この世界には今、自分たち二人しかいないのではないかと思えるほど、穏やかな時間だけが静かに流れていた。
朔也は雫の肩を抱き寄せて、雫は自然と彼の胸へ身体を預けて。
重ねた手は指先までしっかり絡み合い、その温もりだけで互いの想いが伝わってくるようだった。
朔也がぽつりと呟く。
「…この辺、どっか泊まってこうか」
冗談なのか本気なのか、わからない声だった。
雫は思わず小さく笑う。
「また?いつも急にそんなこと言って…」
「だって雫といると帰したくなくなっちゃうんだもん」
朔也は子供みたいにそう言って、雫の肩を少しだけ抱き寄せる。
「今日は彼氏とイブデートってこと親に言っちゃってるし…いつもみたいに”友達んち”は通用しないよ」
少し困ったように笑いながら雫は肩をすくめる。
朔也は苦笑しながらベンチの背もたれから起き上がり、雫を正面からぎゅぅっと抱き締めた。
「わかってるよ。言ってみただけ。」
雫の胸が、キュンと鳴った。
その少し寂しそうな甘えた仕草が、たまらなく愛おしい。
雫も静かに腕を伸ばし、朔也の背中へそっと回した。
優しく抱き締め返す。
彼の体温が、冬の冷たい空気を忘れさせてくれる。
この温もりを、ずっと感じていたい。
そう思った、その時だった。
ふと雫は、まるで何かを確かめるように静かに口を開く。
「……ところで。」
小さく息を吸う。
「星野先輩は、大丈夫だった?」
その瞬間。
ピタリ、と朔也の身体がわずかに固まった。
抱き締めていた腕の力も、ほんの少しだけ抜ける。
「……なんで今、あいつの話?」
低く返ってきたその声は、さっきまでの甘く柔らかな響きとはまるで違っていた。
雫は一瞬も間を空けず、淡々と答える。
「心配だから。」
その一言には何の棘もなかった。
朔也は小さく息を吐き、雫の身体をそっと腕の中から離した。
そして優しく微笑む。
「雫は本当に良い子だな。」
ふわり、と。
長い髪を撫でる手は、どこまでも優しかった。
雫は、その朔也の眼差しをじっと見つめ返す。
「そう……心配なの。」
あなたの事が。
もっと知りたい。
あの人のことを見る時、この瞳はどんな色になるのか。
自分自身でも気付かないほど僅かな想いを、まだ胸の奥へ隠しているのか。
全部。
全部、知りたい。
ずっと。
この先も一生、永遠に。
この瞳が、誰のことも映さなくなるくらい。
その心が、ほんの隙間もなく、全部が私だけで溢れ返るほど満たされるくらい。
何もかも溶かしてしまいたい。
そんな静かな願いを胸の奥へ沈めたまま、雫は朔也の瞳を見つめ続ける。
「雫がそんなに心配しなくても、大丈夫だよ。」
朔也は何も知らないまま、優しく笑った。
「ちゃんと横になって、星野先輩を安静にさせて移動したの?」
雫は、さり気なく探る。
「後ろの席で。」
あくまでも心配している後輩として。
声色も、表情も変えないまま、何気ない質問を投げかけた。
一体どこに、彼女の温もりが残っているの?
朔也は、いつものように答えた。
「もちろん。39度超えてたからね…ずっと寝てたよ」
雫は満足そうな笑顔で、ニッコリと微笑んだ。
その笑顔は、どこまでも優しく。
どこまでも穏やかで。
その胸の内に秘めた小さな確認も、ほんのわずかな安堵も、誰にも悟られることはなかった。
少しの沈黙が流れる。
夜風だけが二人の間を静かに通り過ぎる。
雫は繋いだ手を見つめ、小さく息を吐いたあと、ゆっくりと顔を上げた。
「……もう行こう。」
その声は穏やかだった。
けれど、どこか先ほどまでとは違う響きを帯びていた。
雫は朔也の手をそっと引き、ベンチから立ち上がる。
「え、もう行くの?」
少し意外そうに問い返しながらも、朔也は抵抗することなく歩き出した。
二人は海沿いの遊歩道を抜け、駐車場へ向かう。
イルミネーションの光がアスファルトへ淡く映り込み、吐く息は白く夜空へ溶けていく。
並んで歩く足音だけが、静かな駐車場へ規則正しく響いていた。
静まり返った公園の片隅。
夜の闇に沈むように駐車されていた車へ、二人の足音が近づいていく。
ピッ。
リモコンキーで鍵が開く電子音とともに、ハザードランプが小さく瞬く。
朔也は自然と運転席の扉へ手をかけようとした。
───その時。
ガチャ。
静かな音を立てて開いたのは、後部座席のドアだった。
(……え?)
朔也は思わず手を止める。
雫は開いたドアへ片手を添えたまま、ゆっくりと振り返った。
街灯の光が横顔を淡く照らす。
その瞳には、いつもの柔らかな笑顔だけではない、どこか計り知れない静かな熱が宿っていた。
「こっちだよ、朔也くん。」
首を少しだけ傾け、ふわりと微笑む。
潤んだ瞳が朔也を捉え、その口元に、ゾクリとするほど美しい、妖艶な笑みが咲く。
「……まだ……時間大丈夫だよね?♡」
吐息の混じる甘い声。
雫は細い腕で優しく、朔也の腕をぐいと引き寄せた。
逃げ道を塞がれた檻の中へ、獲物を甘美な罠で誘い込むように。
二度とここから出さないと、優しく閉じ込めるように。
バタン。
滑り込んだ車内。
逃げ場のない狭い空間に、後部座席の扉が重く閉まる。
ガシャリと、鍵の閉まる無機質な音が、二人の世界を完全に孤立させた。
すぐさま響いた集中ドアロックの音は、彼らの退路を完全に断つ合図だった。
遮断された夜の世界。
昼間はあの人が横たわり、その息を潜めていたはずのシート。
街灯の光すら届かないシートの闇の中で、雫の瞳だけが濡れたように妖しく光っている。
その美しさに囚われた瞬間、この愛の檻からは決して自力で這い上がることなど出来ず、只々堕ちていくだけ。
外の冷気はガラス一枚隔てた向こう側へと追いやられ、代わりに狭い車内を満たしたのは、じっとりと甘い雫の香りと、二人の呼吸の熱だった。
あの人が残していった僅かな気配も、彼の記憶の残滓も、容赦なく蹂躙し、消し去っていく。
「ねぇ….私のこと…好き?」
鼓膜に直接注ぎ込まれるような、至近距離での囁き。
雫の甘い声音は、朔也の理性を絡め取っていく。
「好きだよ…」
朔也の吐息には、すでに隠しようのない熱が混じっていた。
「可愛い?」
しなやかな動きで身をくねらせながら、甘えたような上目遣い。
細く白い指先が這うような滑らかな動きで、彼の強張った顎のラインをなぞり、そのまま掌がそっと頬へと添えられた。
「…すんげー可愛い」
傲慢なほどに美しい雫を、朔也の熱を帯びた視線が上から下まで往復する。
ゴクリ、と狭い車内に喉の鳴る音が小さく響いた。
「どこが可愛い?」
今度は朔也の前髪をくすぐるように弄りはじめる。
弄ぶような仕草だけれど、潤んで見上げるその瞳は、朔也の視線を捉えて離さない。
「全部だよ」
焦燥感に急かされるように、堪らず朔也の唇がぐっと近づいてきた、その瞬間。
ピタリ、と。
雫は朔也の熱い唇へ、自らの人差し指を縦に当てて動きを止めた。
制止された拍子に、朔也の熱い吐息が彼女の指先を包み込む。
「今から朔也くんが私に触れたい場所を、全部褒めて。可愛いだけじゃだめだよ。」
試すような、あるいは絶対的な服従を強いるような瞳が、真っ直ぐに朔也を射抜く。
息を呑み、わずかに躊躇った朔也だったが、彼女の瞳の引力に抗えるはずもなかった。
「………雫の唇は……」
喉を鳴らし、掠れた声で紡ぎ出す。
「蕩けそうなほど柔らかくて…色がピンクでめちゃくちゃ綺麗…」
「ふふっ♡いいよ」
お許しが出た瞬間に指が退けられ、二人の唇は激しく、貪るように重なった。
「…柔らかくて……蕩けそう…?」
吐息と共に、雫の声が唇の隙間から囁くようにこぼれる。
「…うん……やばい……堪んねー……」
奪い合うような口づけの最中、熱を帯びた朔也の手が、雫の髪へと伸びる。
そのシルクのような毛並みを柔らかく撫でた、その瞬間。
ガシッ、と。
強い力で、朔也の手首を雫が掴んで止めた。
「褒めて。」
ねだるような甘い声とは裏腹に、手首を掴む指先には容赦がない。
朔也は翻弄されながらも、熱い吐息を漏らして言葉を絞り出す。
「…雫の髪は…艶々でサラサラで……指を通すと柔らかくて気持ちいい…」
「…いいよ♡」
拘束を解かれた手が、再び彼女の髪を這う。
それからの朔也は、雫のすべてを我が物にするために、ありとあらゆるパーツを、貪欲に、這いつくばるような言葉で褒め称えていった。
気付けば言葉が止まらない。
ひとつの言葉を紡ぐたび、雫の口元からは歓喜に満ちた、妖艶な笑みがこぼれ落ちる。
「…雫……愛してる………やばい……めちゃくちゃ最高だよ…雫……」
逃げ場の無い密室で、どちらのものかも分からぬ心臓の音が、うるさいほどに重なり合う。
「朔也くん…もっと………もっと褒めて………」
引き寄せられたままに、朔也は盲目的に彼女が巧妙に仕掛けた底なしの沼へ、真っ逆さまに溺れていくことしかできなかった。
もはや、そこから抜け出そうという意志すら融解している。
「…可愛いよ…雫は素晴らしいよ……世界一…大好きだよ……」
思考が全て溶けてきってしまったかのように、朔也はもう何も考えられない。
「…最高に……堪んないよ……雫……好きだ……」
只々夢中でうわ言のように、雫への愛を延々と囁き続ける。
その朔也の五感のすべてに、雫は二度と消えない自分だけの印を深く刻みつけるように。
「…朔也くん…大好き……愛してる……朔也くん……朔也くん…」
彼の縋るような欲望を、聖なる夜の闇の底へと深く、深く沈めながら。
(あー…最っっっ高…♡♡♡)
あの人の気配を完全に塗り潰した、その完璧な勝利に、美しく、残酷に嗤っていた。




