第157話 恋煩いと熱患い
そして──ついに、その日がやって来た。
十二月二十四日。
クリスマスイブ。
二学期最後の日。
校舎は今日でしばらく静けさを迎え、明日からは冬休みへ入る。
窓の外には、澄み切った冬の青空。
冷たい風に乗って、校庭の端に積もった枯れ葉が、さらさらと音を立てながら舞い上がる。
終業式を終えた校舎には、どこか解放感が満ちていた。
あちこちで弾ける笑い声。
冬休みへの期待と、クリスマスイブという特別な一日への高揚感が、校舎中を包み込んでいる。
教室でも、生徒達は通知表を片手に友達と見せ合ったり、冬休みの予定を話し合ったりと大騒ぎだった。
そんな賑わいの中。
「陽向、行くか。」
ホームルームが終わると同時に、綾真がいつものように陽向の席まで歩いて来た。
その声に、陽向は荷物をまとめながら顔を上げる。
「うん。」
ふわりと笑う。
その笑顔に、綾真も自然と頬を緩めた。
今日はクリスマスイブ。
今日は終業式とホームルームのみで午前中に学校が終わり、そのまま二人で街へ出る約束をしている。
クリスマスランチブッフェを食べて。
イルミネーションを見て。
そして夜は、陽向の家で陽向の母も交えたクリスマスパーティー。
綾真にとっては、夢みたいな一日だった。
二人は並んで教室を出る。
廊下にも、生徒達の楽しそうな声が響いていた。
部活動へ向かう生徒。
友達同士で写真を撮る生徒。
恋人同士で手を繋ぎながら歩く姿。
クリスマスイブらしい浮き立った空気が、学校全体を包んでいる。
そんな中。
昇降口へ向かう途中だった。
「…………っ」
陽向の足が、ぴたりと止まる。
視線の先。
そこには。
並んで歩く朔也と雫の姿があった。
二人は何かを話しながら笑っている。
その光景を目にした瞬間。
胸の奥が、ぎゅっと音を立てるように締め付けられた。
(……でた。)
鼓動が一つ、大きく鳴る。
身体が勝手に反応してしまう。
頭で考えるよりも先に。
「あ……ちょっとトイレ寄ってから行くわー」
努めて明るく。
何でもないように笑ってみせながら。
陽向は自然に踵を返した。
もう、この動きは癖になっていた。
見掛けたら避ける。
目が合う前に離れる。
目が合っても普通に避ける。
必要以上に近付かない。
それが、この数か月で身体へ染み付いてしまった、自分なりの防衛本能だった。
向こうもこちらへ気付いている。
でも普段なら、それで終わる。
お互い何も言わず。
何も起こらず。
今日もまた、少しだけ胸を痛めながら、すれ違うだけ。
──そのはずだった。
「……おい。」
背後から低く響く声。
ビクリと陽向の肩が跳ねた、次の瞬間。
ガシッ。
不意に腕を掴まれた。
「っ!?」
陽向の身体が震える。
驚いて振り返ると、そこには朔也が立っていた。
雫も、思わず目をぱちりと見開く。
「え…?」
綾真も状況が飲み込めず、二人を見比べた。
「な、なに……?」
陽向が戸惑いながら問い掛ける。
その顔を真正面から見た瞬間。
朔也の表情が変わった。
鋭く細められた朔也の瞳。
いつもの呆れ顔でも、不機嫌そうな顔でもない。
何かを確信したような、真剣な眼差しだった。
そして、間髪入れずに言い放つ。
「お前、今すぐ保健室行って熱測ってこい。」
「……は?」
あまりにも突然の言葉だった。
陽向はポカンと目を丸くする。
隣では綾真も陽向の顔を見つめた。
「え…熱?」
改めて見れば、確かに。
いつもより頬がほんのり赤い。
瞳にも、どこか熱を帯びたような潤みがある。
それでも、さっきまで普通に笑っていた。
本人も体調不良を訴えてはいない。
だからこそ、綾真には半信半疑だった。
しかし朔也だけは迷わなかった。
「タラタラしてねーでさっさとしろ!」
有無を言わせない口調。
そのまま陽向の腕を掴んだまま歩き出す。
「ちょ、朔也っ!」
陽向が慌てて声を上げても、朔也は振り返らない。
まるで、小さい頃から何度もそうしてきたように。
「雫ごめん。一瞬保健室付き合ってくんね?」
振り返りながらそう声を掛ける。
「……あ、うん!」
雫はすぐに頷き、小走りで二人の後を追い掛けた。
廊下へ残された綾真は、一歩遅れてその背中について行くしかなかった。
───────。
ピピピピ───。
静かな保健室に、電子音が小さく響いた。
雫は陽向から体温計を受け取ると、表示された数字へ視線を落とす。
「えー……38.6度ですね。」
その一言が落ちた瞬間。
「えぇっ!? ガチ熱ぅ!?」
綾真が弾かれたように立ち上がる。
「うっせーな!保健室で騒ぐな。」
朔也がすかさず鋭く睨みつける。
「えー……まじかぁ。全然わかんなかったわ……」
「星野先輩…この体温で無自覚って、結構ヤバいですよ。」
陽向がボーッと一点を見つめて呟くと、雫もまた、小さくため息をついた。
当の本人だけが、キョトンとしている。
頬は赤く、瞳は熱で潤み、どこかぼんやりとしているというのに、自分ではまったく気付いていなかった。
その様子を見て、保健室にいる陽向、雫、綾真の頭へ、まったく同じ疑問が浮かんだ。
(((なんで……この人、わかったんだ?)))
陽向本人ですら気付かなかった発熱。
廊下でほんの一瞬、顔を見ただけで異変を見抜いた朔也。
綾真は思わず背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(…恐るべし……星野陽向執着レーダー……)
そんな空気をよそに、養護教諭が顔を上げた。
「なにー?38.6度もあるの?」
驚いたように陽向を見つめる。
「親御さん、お家にいる?」
「いや……仕事で……。」
「連絡は取れる?」
「仕事中は携帯見ないです……。」
すると、それまで黙っていた綾真が一歩前へ出た。
「俺、家まで送ります。」
その言葉へ、朔也はすぐに首を横へ振った。
「これで電車乗せて帰んのかよ。」
「いや……でも……」
綾真が言葉を詰まらせる。
確かに、この熱で公共交通機関を使わせるのは不安だった。
朔也は何も言わず陽向の前へしゃがみ込み、そっと顔を覗き込んだ。
「…ひな。」
名前を呼ばれた瞬間。
陽向の心臓が、ドキリと大きく跳ねる。
「寒い?」
「…うん、寒い。」
その返事を聞いた朔也は、小さく眉を寄せた。
「つーことはまだ上がってるな…」
陽向の顔を見つめながら、朔也は思い出したように尋ねる。
「耳の下、痛い?」
陽向が発熱時、39度を超える高熱になる時は決まって耳の下が痛いと騒ぐのを知っている。
陽向は自分で耳の下へ指を当て、軽く押してみると思わず顔をしかめた。
「あ、やば…痛いわ。」
「したら39度超えるわ。家、解熱剤ある?」
朔也は即座に判断すると、続けて問いかけた。
「ママに聞かなきゃ分かんない……」
「じゃあ病院行くか…」
時計を見る。
迷いはなかった。
「くまさんクリニック、午後の診療2時からだよな…保険証と医療証どこ?」
「多分…リビングのカウンターの下の引き出し……」
「どの辺?」
「一番上かな…ママの母子手帳ケースが入ってる。」
「あー、花柄の?」
「そう。ピンクの花柄。」
朔也は小さく頷くと、陽向へ静かに手を差し出した。
「わかった。」
一拍置いて、当たり前のように言う。
「家の鍵、貸して。」
その一言に、保健室の空気がピタリと止まった。
「…………。」
綾真が目を瞬かせる。
雫も思わず朔也と陽向を交互に見比べた。
陽向は何の迷いもなく鞄の中から鍵を取り出そうとしている。
朔也もまた、それを受け取ることを少しも躊躇わない。
まるで何百回、何千回と繰り返してきた日常の続きをなぞるような自然さだった。
およそ二ヶ月もの間。
陽向は朔也を避け続け、目すらまともに合わせようとしなかった。
二人の仲違いは学年中が認識しているほどのレベルだった。
しかし、そんな二人とは到底思えないほど、会話は驚くほど滑らかだった。
必要な情報だけを、無駄なく交わす。
その一つひとつに迷いはなく、互いの言葉を最後まで聞かなくてもお互い何を考えているのか理解してしまうような呼吸があった。
十八年間。
幼馴染という時間だけが育ててきた、説明のいらない信頼。
それを目の当たりにした綾真も、雫も。
そして養護教諭ですら、話のテンポについて行けずに呆然とそのやり取りを見つめるしかなかった。
「えっと…担任の先生に伝えてくるんだけど、つまりこのあと黒川くんが病院に連れて行くって話しで親御さんの職場にお電話入れる流れで大丈夫?」
「大丈夫です。俺こいつのママのLINEあるんで俺からも連絡入れときます」
「え…そうなの?ご親戚かなにか?」
「まぁ…家が隣?生まれつき」
「へーそうなんだ!黒川くん、一回帰るんだよね?」
「一旦帰って車で来ます。一時間くらいで戻ります」
その時、養護教諭の眉毛が寄った。
「ん?車?….えーと…運転は校則違反だけど……まさか黒川くんが自分で乗ってくるわけじゃないよね?」
「あ…っえー……ウチの親が!俺の母親専業主婦なんで!暇なんで!」
朔也は慌てて誤魔化した。
実際母親は忙しい上に、免許すら持っていない。
「わかった。じゃあよろしくね」
養護教諭は優しく頷くと、陽向へ視線を向けた。
「じゃあ黒川くんが戻るまでの間、星野さんは右側のベッド使って。一旦職員室に行って担任の先生に伝えてくるから何かあったらすぐに知らせて。」
そう言い残すと、養護教諭は静かに保健室を後にした。
ドアが閉まる音だけが、小さく保健室へ響いた。
「……おし。」
保健室の時計へ一度だけ視線を向けた朔也は、小さく息を吐いた。
陽向を病院へ連れて行く準備。
車を取りに一度家へ戻り、必要な物を揃えて、もう一度学校へ戻って来る。
頭の中では、この後の段取りが目まぐるしく組み立てられていた。
その中で、ふと視線を隣へ向ける。
「じゃあ行ってくるけど……」
声を掛けられた雫は、静かに顔を上げた。
朔也は少しだけ表情を和らげる。
「ちゃんと予定通り、4時に迎えに行くから。帰って支度しててな」
そう言って、ごく自然に雫の頭へ手を乗せて柔らかく撫でた。
何気ない仕草。
けれどその声色や手つきには、恋人へ向ける甘さや優しさが滲んでいた。
心配そうな瞳が、朔也を見つめる。
「でも間に合う?お店は7時予約なんだから、そんなに急がなくても大丈夫だよ?」
クリスマスイブ。
今日は二人で過ごす約束の日。
それでも雫の声に、不満は少しも混じっていない。
ただ、無理だけはしてほしくなかった。
朔也は小さく笑って首を横へ振る。
「イブなんだから、道路渋滞しちゃうだろ」
窓の外へ一瞬だけ目を向ける。
街はきっと、もう人で溢れ始めている。
「向こう着くの遅くなったらイルミネーションゆっくり見る時間なくなる。」
「お店出てから見に行くでもいいよ?」
そう提案すると、朔也は困ったように笑った。
「嫌だよ。」
即答だった。
「飯食ったらもう人混み行くの嫌だし、二人でゆっくりしたいじゃん。」
その言葉を聞いて、雫はふっと頬を緩める。
「「………………。」」
陽向と綾真は、二人の口からあまりにも自然に飛び出る甘すぎる会話に、何とも言いようのない気まずさに包まれていた。
陽向の胸が、ズキンッと痛む。
そこから目を逸らすように俯いて、指先をぎゅっと握りしめた。
雫は朔也へ優しく頷く。
「わかった。でも、安全運転でね。」
少しだけ念を押すように言うと、朔也も真っ直ぐ頷き返す。
「もちろん。」
短い返事。
けれど、その声には迷いがなかった。
「えっと雫は帰るから…鷹井は俺が戻るまで残る?」
「残るよ」
朔也の問いに、綾真は当然のように即答した。
「じゃあちょっとひなに上着貸してやって。校門の前に車付けて先生に見つかるとマズイから、着く5分前くらいにひなに連絡入れる。」
朔也は淡々と、綾真に説明をする。
「そしたら正門出て右に真っ直ぐ行った角のとこまで、ひなのこと連れてきてくんない?」
「あ、あぁわかった。」
「じゃあ雫、行くか。」
朔也が雫の手を引いて歩き出そうとした、その時。
「朔也くんは急いだ方がいいから先に行って。」
保健室のベッドへ一瞬だけ視線を向ける。
「私は星野先輩が横になるのを手伝うから。落ち着いたら適当なタイミングでゆっくり帰るから大丈夫。」
朔也は一瞬だけ陽向を見つめる。
そしてすぐに雫に視線を戻した。
「……わかった。ごめんな、雫ありがとう」
小さく頷いて、少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。
この二ヶ月近く、雫もずっと陽向に冷たくされていたにも関わらず、そんなことは微塵も気にしていない素ぶりで、酷いことを言われた相手に思いやりを向けられる。
その雫の聖女のような優しさに、朔也は改めて愛しさを実感した。
そして雫は優しく笑う。
「星野先輩のこと、お願いね。」
その笑顔に背中を押されるように、朔也も柔らかく笑みを返した。
「じゃあ、また後で。」
そう言い残し、保健室の扉を開ける。
冷たい冬の空気が、ふっと室内へ流れ込んだ。
扉が静かに閉まる音を聞きながら、雫は小さく息を吐く。
静かになった保健室には、熱で眠そうに目を伏せる陽向と、どこか落ち着かない様子の綾真だけが残されていた。
この短い時間で綾真には、はっきりとわかった事がある。
黒川朔也が陽向へ向けられる態度。
幼馴染の域を超えた家族や兄弟、生活の一部のような空気。
だって黒川朔也は、陽向との会話の中ではひと言も車で再び迎えに来るとは口に出していなかった。
それなのに陽向は、“電車に乗せるのは無理だ”の黒川朔也のたったひと言だけで。
まるで当たり前のように、その後の流れを何も言わずにお互いに共通認識していた。
それに対して、小野雫へ向けられる態度は、完璧に惚れ込んでいる恋人のそれ。
声のトーンは甘く。
髪を撫でる仕草は優しく。
小野雫を見つめる眼差しは柔らかい。
クリスマスイブ。
恐らく、渋滞を気にする距離という少し遠出のドライブデート。
7時に予約のディナー。
その後二人きりでゆっくり過ごす甘い時間。
二人の短い会話の中に、圧倒的なゼロ距離の恋人関係が成立していた。
陽向と雫。
二人へのその態度の違いが、明確に浮き彫りだった。
どちらの方がが大切だとか、どちらの方が強いだとか、そういう次元の話しでは無い。
それでも綾真は知っている。
朔也の異常なまでに強かった陽向への執着。
そして、同時に悟る。
胸の奥で、小さく息を呑む。
あいつは。
ああいう優しさを。
ああいう恋人らしい時間を。
本当なら、陽向へ向けたかったんじゃないか。
そう思った瞬間。
今までずっと疑問に思っていた事。
黒川朔也は陽向を好きな筈なのに、小野雫を隣に置いている理由。
その胸につかえていた疑問が、ゆっくりと一本の線で繋がった。
陽向へ向ける異常なほどの世話焼き。
過保護。
執着。
あれは恋人として甘えたり甘やかしたり出来なかった十八年間の積み重ね。
行き場を失った恋人としての愛情が。
幼馴染という形へ姿を変え。
”世話を焼く”という唯一許された形で溢れ続けていただけなのかもしれない。
だから。
恋人として向ける甘さは雫へ。
幼馴染として向ける執着は陽向へ。
二つはまるで別物なのに。
その根っこには、きっと同じ”愛情”が流れている。
綾真は小さく拳を握った。
(……やっぱり…)
黒川朔也という男は。
こんなにも小野雫に深く入れ込んでいる。
それでもなお。
陽向を、簡単には切り離せない。
十八年という時間は。
それほどまでに、人の心へ深く根を張ってしまうものなのだと。
綾真は、改めてその重さを思い知らされていた。




