第156話 キュンキューンしたいクリスマス
朱里と別れて、陽向は両手いっぱいに買い物袋を提げたまま電車に揺られていた。
窓の外には、十二月の街が流れていた。
駅前のイルミネーション。
ビルのガラスに反射する白い光。
街路樹に巻き付けられた青い電飾。
ホームへ滑り込むたび、冬の夜がきらきらと車内へ差し込んでは、またすぐに後ろへ流れていく。
久しぶりに遊んだ。
久しぶりに買い物をした。
受験が終わって、ようやく自由になった。
ようやく、胸の奥に長い間ずっと停滞し続けていた違和感に、じっくり向き合えるような気がする。
向き合わなきゃいけないような気がした。
陽向は膝の上に置いた紙袋を見下ろす。
淡いピンクのリボンが、電車の揺れに合わせてふわりと揺れた。
その時、朱里の言葉がもう一度、胸の奥へ蘇る。
(だからひなちゃんも、俊ちゃんを好きなままだからって、別の誰かに恋をしないなんてこと、ないんじゃないかな)
好きなまま。
消えないまま。
忘れないまま。
その言葉は、陽向の中へ静かに沈んでいった。
俊ちゃんへの想いを消さなくてもいい。
あの恋をなかったことにしなくてもいい。
忘れられないままでも、前へ進んでいい。
そう言われたことは、確かに少しだけ救いだった。
けれど同時に、胸の奥でずっと蓋をしていたものへ、そっと指先を掛けられたような気もした。
陽向は窓に映る自分の顔を見つめる。
街の光に照らされたその表情は、どこか頼りなく揺れていた。
その直後。
ふと、いつかの咲との会話が蘇った。
(新しい恋したらいいんじゃない?)
(……新しい恋?)
(そう!また好きな人が出来たら藤崎先輩への寂しさも紛れると思うよ!)
(そんな簡単じゃないよぉ〜……)
(今まで恋愛対象じゃなかった友達に目を向けてみるとか……)
(ずっと近くにいたけど、逆に近くにいすぎてこれまで全然意識してこなかった相手とか……)
その言葉を思い出した瞬間。
陽向の胸が、ほんのわずかに跳ねた。
「新しい恋……か……」
電車の走行音にかき消されるくらい小さな独り言が、ぽつりと零れた。
陽向は伏せていた視線を、ゆっくり窓の外へ戻した。
流れていくイルミネーションの光が、瞳の奥で滲む。
新しい恋。
その言葉の先に、誰の顔を思い浮かべてしまうのか。
本当は、もう分かりかけている気がした。
脳裏に浮かびかけた顔を、陽向は反射的に振り払う。
違う。
それは違う。
そう思うより先に、胸の奥がざわついた。
思い出しただけで、胸が苦しくなる。
陽向はぎゅっと紙袋の持ち手を握り締めた。
考えちゃ駄目だ。
そこへ踏み込んだら、最悪のシナリオでしかない。
陽向は、その答えへ手を伸ばさなかった。
伸ばせなかった。
代わりに、自分の中で一番安らげる名前を、静かに胸へ浮かべる。
優しくて。
真っ直ぐで。
いつも自分を笑わせてくれて。
どんな時も、逃げずに側にいてくれた人。
自分を好きだと、何度も何度も伝えてくれた人。
陽向は小さく息を吸った。
胸の奥に残る痛みを、無理やり別の形へ整えるみたいに。
迷いを、決意へすり替えるみたいに。
窓の外へ流れていく光を見つめながら、陽向は静かに思った。
(…綾真のこと……そろそろ真剣に考えなきゃ)
その瞳には、強い光が宿っていた。
けれどその光の奥にある迷いを。
窓ガラスに映る陽向自身だけが、じっと見つめ返していた。
───────。
そして、翌日──月曜日。
朝の冷たい空気が、まだ校舎の廊下に残っていた。
窓の外では冬の日差しが校庭へ斜めに差し込んでいる。
青く澄んだ空の下、銀杏の葉はほとんど落ち切り、乾いた風が時折、昇降口の方から吹き抜けてきた。
ホームルームが終わると同時に、教室はいつもの賑わいを取り戻す。
椅子を引く音。
友達同士の笑い声。
移動教室の準備をする生徒達。
誰かが教科書を落とし、教室のあちこちで他愛ない会話が弾んでいた。
その喧騒の中で。
「クリスマスイブ、私とデートして下さい。」
唐突な陽向の言葉に、綾真の時間が止まる。
「・・・・・・・。」
パチリ、と目を瞬かせたまま固まり、口だけが半開きになる。
数秒。
完全な静止。
やがて、ようやく息を吸い込むようにして、小さく呟いた。
「…………もしかして俺、明日死ぬの?」
「いやなんで!?」
思わず陽向が突っ込んだ。
だってその一言は。
綾真が胸の奥へ何度も何度も思い描いてきた願いを、そのまま形にしたような陽向からの言葉だった。
綾真はまだ現実を受け止め切れず、慌てたように両手を振った。
「いや!さ、誘おうとは思ってたけども!!」
言葉が追い付かない。
「まさか…陽向からそんな…え!?てかまじ!?怖い!!幸せ過ぎて怖い!!」
混乱し過ぎて、もはや何を言っているのか自分でも分かっていない。
そんな綾真の姿が可笑しくて、陽向はクスッと笑った。
「絶対一緒に過ごしたいって思ってるだろうし、きっと誘ってくるだろうなーってわかってたから!」
ニコッと、少し照れたようにそう言って首を傾げる。
その笑顔はあまりにも無防備で。
あまりにも可愛くて。
「〜〜〜っ!!!」
綾真の胸を、何かが一直線に貫いた。
ギュンッッッッ!!!
心臓が暴れる。
可愛い。
嬉しい。
苦しい。
こんな幸せが、本当に自分にあっていいのか。
胸いっぱいに込み上げた感情は、もう言葉では収まり切らなかった。
気付けば身体が勝手に動いていた。
ぎゅ〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!
「ちょ…!綾真っ!」
綾真はそのまま勢いよく陽向を抱き締める。
制服越しに伝わる体温。
腕の中へすっぽり収まる柔らかな身体。
ようやく触れられた温もりを失いたくなくて、思わず力が入る。
賑わう教室内。
クラスメイト。
担任教師。
しかし、綾真の世界にはそのどれもが存在していなかった。
世界の中心には、腕の中の陽向だけがいた。
「陽向…!まじ大好き!」
嬉しさと、安堵と。
積み重ねてきた想いが、そのたった一言へ全部詰まっていた。
「おいおい朝から熱々だなー!」
「堂々とイチャイチャしてんじゃねーよ!」
「見境なく盛るなよ」
「綾真、ここ一応公衆だかんなー」
教室中から一斉に野次が飛び、笑い声が広がる。
その騒ぎの中でようやく我に返った綾真は、はっとしたように腕を緩める。
「あ…っごめんつい!!」
耳まで真っ赤に染めながら陽向を見ると、陽向もまた頬を赤くして、少しだけむくれたような顔でこちらを見上げていた。
「…喜び過ぎっ!」
その表情すら愛おしくて。
綾真は、照れ隠しのように頭をかきながら、もう一度だけ小さく笑った。
それから数日後 ───────。
冬休みを目前に控えた放課後。
美容系専門学校への進学が決まった咲。
共通テストまでのラストスパートを迎える蒼太。
この日咲は、蒼太が受けている放課後の補講が終わるまでの時間を潰すため、陽向を誘ってディンバードーナツへ来ていた。
ガラス越しには、夕暮れへ向かう街の人波。
買い物袋を提げた人々が行き交い、冬の澄んだ空気の中を白い息がふわりと漂っていた。
二人は窓際の席へ向かい合って座り、それぞれドーナツをつまみながら、他愛もない話をしていた。
大学生活への期待。
咲の専門学校のこと。
最近買ったコスメの話。
そんな何気ない会話がひと段落した頃。
「──はっ!?クリスマスイブに綾真に告るのっっっ!?!?」
ガチャンッ!!
咲は思わずアイスティーのグラスをテーブルへ勢いよく置いた。
氷が大きな音を立てて跳ね、水滴がグラスの外側を伝って流れ落ちる。
周囲の客が何事かとこちらを振り向いた。
「こ…声がでかいよ、咲っ!」
陽向は慌てて肩をすくめ、キョロキョロと店内を見回す。
「え、ガチ!?ついに!?まじで!?本気で言ってる!?」
咲はテーブルへ身を乗り出したまま、目をこれ以上ないくらい見開いていた。
陽向は困ったように笑い、小さく首を傾げる。
「いや……まだ分かんないけど……」
その言葉とは裏腹に、指先は落ち着かなかった。
スプーンをくるくると回し。
止めて。
また回す。
その仕草だけで、胸の中がどれほど騒がしいか伝わってくる。
陽向は視線をカフェラテへ落とした。
ふわりと浮かぶ白い泡を見つめながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「……俊ちゃんは、もちろん今でも好きだよ?」
その名前を口にすると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
いつまでもずっと、大好きな人。
その気持ちは、今でも嘘じゃない。
「好きなんだけど……多分……その気持ちがあまりにもデカ過ぎて…」
陽向はモジモジと。
視線をあっちへこっちへと恥ずかしそうに落ち着かない。
「綾真のこと……完全に”友達フィルター”でガッチガチにし過ぎちゃってたなって思って…」
今までなら、そんな考えすら浮かばなかった。
けれど朱里と話し、自分の胸の中を一つずつ整理していくうちに。
陽向はようやく、そんな可能性へ目を向けられるようになっていた。
陽向は、そっと息を吐く。
「だから。」
ゆっくり顔を上げた。
その瞳には、迷いと決意が同じくらい宿っていた。
「クリスマスにデートして!その時は完っっっ全に友達フィルターを解除して!」
咲は黙って耳を傾けている。
陽向は、一本、指を立てる。
「異性として見て!」
一本指をビシッと振る。
「彼氏候補として意識して!」
真っ直ぐ前を見つめる。
「一回ちゃんとデートして!綾真に男として無理な要素がなければ!」
胸の鼓動が少しだけ速くなる。
陽向は、小さく拳を握り締めた。
そして、ぐっと胸の前へ掲げる。
「綾真に告るっ!!!」
その宣言は、どこか照れ臭くて。
どこか吹っ切れたようでもあった。
咲は思わず目を瞬かせる。
「……無理な要素って………具体的になに…?」
恐る恐る尋ねてみる咲。
「うーん……そん時になってみないとわかんないけど…」
「じゃあ、綾真に告ろうって判断する場合の具体的要件は?」
陽向は人差し指を顎へ当てて。
「フィーリング?」
「綾真を異性として見るって、どこを、どんなふうに?」
「顔とか?綾真ってイケメンかなーって」
「彼氏候補として意識するって、例えばどうやって?」
「うーん…マインド!」
ぐっと親指を立てる。
そのあまりにも能天気な返事に、咲は完全に固まった。
「…………。」
(いやいやいやいや。)
心の中で盛大にツッコむ。
だって、つい先月。
(しぃちゃんに嫉妬バチバチ散らして、今だってジェラシーメラメラで朔雫カップルを拒絶しまくってるでわないか!!)
間違いなく、陽向はこの状況を強行打破しようとしている。
咲にはそれが手に取るようにわかった。
(…このまま送り出しても………失敗に終わる気がする………)
咲は、小さく息をついた。
このまま朔也と陽向の関係を泥沼騒動に持ち込むよりは、平和的に綾真と収まってくれた方がいいに決まってる。
陽向は自分の気持ちを自分でギリギリ自覚していない。
そう。
それは、不幸中の幸い。
取り返しのつかない事になる前に、ここは何とか綾真とのクリスマスデートを無事に成功させて貰って。
綾真に陽向の心をガッチリホールドして貰うしかない。
その為には。
陽向の恋愛モードスイッチを完全に起動させないと、このチャンスが無駄になる。
「えー、コホン。陽向さん。」
咳払いを一つして、姿勢を正す。
「恋をするのに必要なのは、顔とかフィーリングとかマインドとかそんなふわっとした話ではございません。」
「はい。」
陽向も背筋をピンと伸ばした。
「クリスマスマスイブという一年で一番ロマンチックな日に、鷹井綾真さんという一人の男性と素敵なひと時を過ごす。その時にあなたが必ず意識しなければならない事があります。」
「…と言いますと?」
陽向はゴクリと固唾を飲み込んだ。
「それは、ズバリ。」
咲は満面の笑みで、人差し指と親指を重ねたハートマークを立てる。
「キュンです!」
「…キュン?」
「そう!キュン!ときめき!!胸が熱くなる感覚!!」
陽向は首を傾げる。
「キュンかぁ……」
「綾真にキュンとした事ある?」
「えー…あるかなぁ…」
「ないんかい!!」
咲は思わずテーブルを叩いた。
陽向は慌てて手を振る。
「で、でも綾真と一緒にいて楽しいし、安心出来るし、胸がポカポカする感じはあるよ!」
「うーーーん……惜しいとこまでは行ってる気がする……」
咲は腕を組む。
陽向は天井を見上げた。
「キュンかぁ〜…キュンってどうやって起こすんだ?」
「藤崎先輩にはどんな時にキュンとした?」
咲の問いに、陽向は一秒も考えなかった。
「目が合ったら。いや後頭部でも。視界の端っこに一部でも映ったら。」
そして、ポッと染まる頬を両手で抑える。
「なんなら妄想でも♡」
「怖い怖い怖い怖い」
店内へ引き気味な咲のツッコミが響くも、陽向は幸せそうに頬を緩めている。
その様子を見た瞬間。
「それ!!」
咲はハッとなり、勢いよく陽向を指差した。
「今!キュン!!」
「へ?」
陽向はきょとんと瞬きを繰り返す。
「陽向、今キュンキューン♡ってなってたでしょ!!」
「そりゃなるよ。俊ちゃん思い浮かべれば0.1秒で。」
陽向は、さも当たり前の常識かのように即答した。
「その感覚を!イブの日に!ずーーーーっと綾真に向けることを意識しながら過ごすんだよ!!」
「あ、なるほど。」
陽向はポン、と手を叩く。
咲は勢いよく頷く。
「手を繋いで、キュン!一緒に食事して、おいしいねって笑い合った時、キュン!抱きしめられた時、キュン!見つめ合って、キュン!そのままキスして──」
「咲ー、そこまで行かないですよー」
そこで陽向のストップが掛かる。
「とにかくデートの時、どんな些細なことでもいいから…」
すぐさま気を取り直し、人差し指を一本立てる。
「手を繋いだ時、目が合った時、笑い合った時、近くで声を聞いた時。」
そう言って、自分の胸へそっと両手を重ねた。
「そういう全部の瞬間で、”あ…やば…♡なんか…綾真にキュンとしちゃうかも♡”って、常に自分で意識をしながら自分の心をちゃんと見てあげることが!」
今度は指先を、まっすぐ陽向へ向けた。
「綾真を異性として見る、彼氏候補として意識するって事です!」
「おぉーー!」
陽向は目を輝かせながら、パチパチと素直に拍手を送った。
「よしっ!」
陽向はぐっと拳を握る。
その瞳に、さっきまでの迷いはもうほとんどなかった。
「クリスマスデートで、綾真へのキュンをガチ意識しながら本気で過ごすわ!!」
その宣言は、まるで試合前に気合いを入れる選手のようで。
恋心に鈍感過ぎる少女が、自分の気持ちに向き合って踏み出そうとする小さな決意でもあった。
「うんうん!綾真なら絶対めっちゃキュンとなるよ!!」
咲は満足そうに何度も頷く。
(よしっ!)
心の中で、咲も小さくガッツポーズを作る。
もう今さら、陽向へ朔也の気持ちを教えるつもりはない。
朔也への想いは自覚しないまま、綾真と付き合ってラブラブになって貰って、朔也への恋はフェードアウトさせないと。
誰一人、幸せにならない。
だからこそ。
クリスマスイブだけは。
陽向がちゃんと綾真だけを見つめて。
綾真が、その心を掴み切ってくれることを願うしかない。
(まじ頼んだよ……綾真………)
咲は心の中でそっと呟き、目の前で「気合い入ってきたー!」と一人で盛り上がる陽向を見つめて、小さく笑った。
その笑顔はどこか心配そうで。
それでも、親友の幸せを信じようと決めた人の笑顔だった。
ふと、咲は思い出したように首を傾げる。
「因みにデートプランはどんな感じ?」
「終業式終わったらそのままクリスマスランチ行って、一緒にイルミネーション見に行くよー」
「夜は?」
「ウチでホームパーティ!」
「えっ!陽向んち泊まり!?」
「なわけ!!」
「確か…陽向は毎年イブはママと過ごしてるもんね」
「そ。だから今年はママと綾真と3人でクリパー!」
「ママよくOKしたね」
「うちのママ、綾真のこと好きだからむしろ喜んでたよ」
「ヤバ。公認彼氏やん」
「否定してるんだけどね〜ママは彼氏だと思ってる。勝手に。」
「頻度っしょ。綾真、陽向ん家行き過ぎだから。」
「あははっ!それなー!」
その笑い声は、店内へ流れるクリスマスソングに溶けるように静かに広がっていった。




