第153話 沼堕ち、完了。
ディンバードーナツを出たあと、駅へ向かう朔也と雫の間には、重たい沈黙が落ちていた。
夕暮れの駅前には、買い物帰りの人々の声がぽつぽつと流れている。
店先の照明がひとつ、またひとつと灯り始め、ガラス越しに見えるドーナツ店の温かな光だけが、背後で少しずつ遠ざかっていく。
けれど、二人の周りだけは、まるで別の空気に包まれているみたいだった。
「…………。」
雫は俯いたまま歩いていた。
手元に視線を落とし、何度も瞬きをする。
さっきまで溢れていた涙はもう止まっている。
けれど、心の中はまだ、ぐちゃぐちゃに乱れたままだった。
隣を歩く朔也も、何も言わなかった。
ただ正面の一点だけを見据え、黙って歩き続けている。
その横顔は険しく、何かを必死に押し殺しているようにも見えた。
(雫、雫、雫、雫って……)
陽向の声が、何度も頭の奥で蘇る。
(なんで朔也はいつもそればっかなんだよっっっ!!!)
朔也は、無意識に奥歯を噛み締めた。
そんなの、当たり前だろうと思った。
付き合っているのだから。
雫は、自分の彼女なのだから。
目の前で傷付けられたら、庇うに決まっている。
あいつだって、それくらい分かっているはずだろう。
分かっているはずなのに。
なのに、どうしてあんな顔で。
どうしてあんな声で。
“なんで”なんて言うんだよ。
「…………。」
朔也の脳裏に、最後に見た陽向の顔が浮かんだ。
涙に濡れた瞳。
震える唇。
怒りきれず、憎みきれず、ただ何かに耐えきれないみたいに、自分を見上げていた顔。
陽向の泣き顔なんて、これまで数え切れないほど見てきた。
駄々をこねて泣いた顔。
悔しくて泣いた顔。
寂しくて泣いた顔。
藤崎俊輔を想って、壊れそうに泣いた顔。
それでも。
あんな顔は、見たことがなかった。
怒って泣いているわけじゃない。
悲しくて泣いているだけでもない。
あれは、もっと違う。
胸の奥をぎゅっと掴まれるような。
見ているこちらまで息が苦しくなるような。
あれは………………
切ない。
「……っ」
朔也は小さく息を詰める。
浮かんではいけない考えが、胸の奥からゆっくりと顔を出す。
もしかして。
いや、違う。
そんなはずがない。
あいつに限って、今さらそんなことはありえない。
期待するな。
勘違いするな。
今まで何度もそうだった。
少しでも期待して。
少しでも自分の方を見てくれた気がして。
そのたびに、あっけなく地面に叩き落とされてきた。
きっと今回も同じだ。
どうせ、すぐにいつも通りになる。
何事もなかったみたいに笑って。
藤崎俊輔の話をして。
自分のこの揺れだけが、また馬鹿みたいに取り残される。
もう二度と、信じたくない。
期待したくない。
望みたくない。
あんな思いしたくない。
頼むから。
もう、俺の心を揺らさないでくれ。
朔也はそう思いながら、ポケットの中で拳を握った。
隣では、雫もまた、地面を見つめたまま歩いていた。
街路樹の影が、夕暮れの歩道に長く伸びている。
その影を踏みながら、雫は先ほどの陽向の姿を何度も思い返していた。
(…そこ…………私の席なんだけど。)
あの声。
あの目。
あの瞬間、雫は気付いてしまった。
誰があの場にいても分かるくらい。
あまりにも、分かりやす過ぎた。
「…………。」
雫の喉が、きゅっと詰まる。
なんで、今更。
その言葉しか浮かばなかった。
初めて陽向に、朔也との関係を聞いた日のことを思い出す。
(…おえ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ)
壁に手をつき、全身で拒否反応を示していた。
(ほんっとーに、やめてくれる?ただの幼馴染みなんだけど。)
あれは、演技なんかじゃなかった。
本気で、彼のことを恋愛対象として見ていなかった。
(応援するよっ!!!)
そう言って、両手を握り締めてくれた。
その手は温かかった。
(朔也とLINE、繋いであげよっか!?)
(こんな可愛い子とLINE出来たら、朔也絶対喜ぶって!)
きっかけをくれたのは。
他の誰でもなく、星野先輩だった。
(朔也ー!しぃちゃんがこいつらに捕まったから、あとでご飯屋さんまで一緒に連れてきてー!)
(それ結構……脈ありじゃない?)
(でもさ、しぃちゃんは余裕でオッケーラインだと思うよ?)
(自分がどんだけ最強に可愛いか、もっと自信持った方がいいよ)
(うん。だからしぃちゃん見てると、その頃の自分を見てるみたいで、つい応援したくなるんだよね。)
(…さ……誘ってみたら?)
(…………きっと。多分行けると思うよ。)
(しぃちゃん、おめでとっ!)
(……そっか。それなら私も嬉しいよ)
ずっと。
味方だった。
星野先輩は、私の背中を押してくれていた。
その言葉に。
その笑顔に。
その応援に。
どれだけ勇気をもらったか分からない。
星野先輩は、朔也くんのことなんて見向きもしていなかった。
彼がどれだけ星野先輩を見ていたか。
どれだけ苦しんでいたか。
どれだけ傷付いていたか。
そんなことには、少しも気付かないで。
彼の気持ちなんて、微塵もお構いなしで。
一切、興味なんてなかったくせに。
どうして、今更。
「…………。」
雫は、一瞬だけ朔也を横目で見た。
夕暮れの光に照らされた横顔。
少し険しい眉。
閉じられた唇。
何かを考え込むような目。
その表情を見た瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。
もし。
もしも、彼が。
今でも、星野先輩を想っていたら…………?
「……っ」
ズキンッと胸が痛んだ。
雫は思わず、自分の胸元をぎゅっと押さえる。
彼は、自分を大切にしてくれている。
可愛いと言ってくれる。
優しくしてくれる。
一緒にいたいと言ってくれる。
好きだと言ってくれる。
それはきっと、嘘じゃない。
抱きしめてくれる腕も。
頭を撫でる指先も。
名前を呼ぶ声も。
全部、確かに温かい。
それでも。
それでも、彼の心の一番深い場所にいるのが、自分じゃなかったら。
(…………………………私………嫌な子だ……………。)
雫は唇を噛んだ。
雫は、自分の胸元を抑えていた手を。
力が抜けたようにゆっくり降ろした。
そして、肩を落としながら、俯いた。
(…朔也くん……………)
ねぇ。
私は本当に。
このまま、あなたの隣にいてもいいの?
二人の足音だけが、夕暮れの歩道に静かに響いていた。
駅へ続く横断歩道の先で、改札上の列車案内表示板の光がぼんやりと滲んでいる。
けれど二人は、どちらもその光を見ていなかった。
同じ道を歩きながら。
同じ沈黙の中にいながら。
朔也は陽向の涙に揺れていて。
雫は、陽向の想いに気付いてしまっていた。
繋がっているはずの距離は、ほんの数十センチ。
けれどその間には、言葉に出来ないほど深く、暗いものが横たわっていた。
二人は改札の前で足を止めた。
夕暮れの駅は、人の流れで満ちていた。
改札を抜けていく学生達。
家路を急ぐ会社員。
ホームへ向かう足音。
アナウンスの声。
たくさんの人が行き交っているはずなのに、二人の周囲だけが静まり返っているようだった。
雫は俯きがちだった顔を少しだけ上げる。
「……じゃあ……また明日……」
小さな声だった。
無理に笑おうとしているのが分かる。
けれど、その笑顔はどこか弱々しくて。
今にも消えてしまいそうだった。
その顔を見た瞬間。
朔也の胸が、ぎゅうっと締め付けられた。
次の瞬間。
ぎゅっ───!
朔也は雫の身体を包み込むように抱きしめた。
「……っ」
雫の肩が小さく揺れる。
駅前を吹き抜ける秋風が、二人の間を通り過ぎていく。
けれど、抱き締める腕だけは離れなかった。
まるで何かを確かめるように。
失くしてしまわないように。
「……まだ一緒にいたい。」
耳元へ落ちた朔也の声は、少しだけ掠れていた。
雫は目を閉じる。
抱きしめる腕の力が、いつもより強い気がした。
「今から雫んち行っていい?」
甘えるような声音。
けれどその奥にある寂しさを、雫は感じ取ってしまった。
「え……今から?」
雫は困ったように眉を下げる。
「夕方には親帰ってきちゃうから……無理だよ。」
「じゃあこのままウチ来て。帰りは車で送るから。」
朔也は抱きしめたまま言った。
腕へ、さらに力が籠る。
離したくない。
そんな気持ちが、そのまま伝わってくるみたいだった。
雫は胸の奥が少しだけ痛んだ。
離れたく………ないよ。
優しい。
温かい。
大切にされている。
それは分かる。
分かるのに。
今日だけは、どうしても。
ほんの少しだけ不安になってしまう。
私の存在は、邪魔じゃないの?
あなたの本心は。
あなたの本当の幸せは。
こんなに側にいたいのに。
こんなに離れたくないのに。
こんなに彼のことが、好きなのに。
私はこれから先、どうしたらいいの?
それでも雫は、その不安を飲み込むように小さく微笑む。
「……わかった。」
そっと朔也の背中へ手を回した。
「一緒に行く。」
朔也は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ安心したように目を閉じる。
やがて二人は身体を離した。
改札の向こうでは、電車の到着を知らせるベルが鳴っている。
夕暮れの光は少しずつ薄れ、街には夜の気配が降り始めていた。
二人は並んで歩き出す。
そして、そのまま朔也の利用する路線の改札を通った。
繋いだ手は離れていない。
けれど二人の胸の中には、それぞれ誰にも言えない想いが静かに沈んでいた。
───────。
すっかり日は落ちて、窓の外には完全な夜が訪れていた。
住宅街の灯りがぽつぽつと滲んで見える。
部屋の中には、エアコンの微かな作動音だけが静かに響いていた。
あれから二人は、特別な話をすることもなく、いつも通りに寄り添いながら、二人きりの甘い時間を過ごしていた。
「そろそろ帰らなきゃ…」
雫は小さく呟き、ベッドから身体を起こした。
時計を見る。
思っていたよりもずっと遅い時間だった。
沈黙を破るように、雫はベッドの端からゆっくりと腰を浮かせて、スカートの裾を整えながら立ち上がろうとする。
しかし、その瞬間。
「…!」
背後から伸びてきた朔也の長い腕が、逃げる隙を一切与えないほどの強さで、雫の腰回りにぎゅっと回った。
「……まだ帰らないで。」
背中に、朔也の体温がダイレクトに伝わってくる。
いつもより少しだけ速い、彼の心臓の鼓動。
しがみつくように抱きつく朔也の腕は、微かに震えているようでもあった。
「でも…もう遅いから……」
雫は困ったように眉を下げ、身体ごと振り返る。
そう返しても、腕は離れなかった。
むしろ少しだけ力が強くなる。
「泊まってってよ。明日学校休みだから良くね?」
朔也は、雫の胸元へ顎をを押し当てながら、子供みたいに雫を見上げていた。
何かに怯えているような、置いていかれることを恐れているような、そんな痛々しいほどの寂しさが、その声音には滲んでいた。
「雫と離れたくない。」
直球すぎるその言葉が、雫の胸の奥を鋭く抉る。
離れたくない──それはきっと、嘘じゃない。
今、この瞬間、朔也が雫を必死に求めているのは紛れもない事実だった。
雫は、自分にしがみつく朔也の姿をじっと見下ろしながら、切なさに胸を締め付けられつつも、そっと手を伸ばした。
そして、彼の柔らかい髪を、壊れやすいガラス細工に触れるように優しく撫でる。
さらりと指先を抜けていく髪の感触が、たまらなく愛おしくて、同時に酷く寂しい。
私を見上げる、その瞳。
真っ直ぐで。
逃げ場なんてどこにもなくて。
その瞳の奥には、私を離したくないという強い想いが宿っている。
優しくて。
不器用で。
少しだけ危ういほどに深い愛情。
まるで境界線の内側へ閉じ込めるように、自分だけを見つめてくるその眼差しに、雫は思わず息を呑んだ。
暗い瞳の奥へ、ゆっくりと引き込まれていく。
「……朔也くん……」
小さく名前を呼ぶ。
その声は、自分でも驚くほど弱かった。
雫は諦めたように、ふっと息を吐く。
愛しい。
ただ、それだけだった。
傷付いている時も。
拗ねている時も。
不安そうにしている時も。
どんな朔也も愛しかった。
だからこそ。
こんな瞳を向けられてしまったら、振り切れるはずがない。
離れたくないと言葉にされるよりも。
好きだと伝えられるよりも。
この真っ直ぐな視線の方が、ずっと胸に響いて捉えられてしまう。
雫は視線を逸らせなかった。
まるで吸い寄せられるように。
ゆっくりと。
ほんの少しずつ。
自らの顔を朔也へ近付けていく。
朔也もまた、雫の動きに応えるように静かに顎を上げた。
互いの呼吸が触れ合う。
距離が消えていく。
そして───
二人の唇が、そっと重なった。
雫は静かに目を閉じる。
腕の中から伝わる温もりを感じながら。
ただ、この瞬間だけは何も考えないように。
胸の奥に沈んだ不安も。
言葉にならない痛みも。
全部そっと閉じ込めるように。
雫はそのまま静かに、その温もりへ身を委ねた。
朔也は、自分の全てを雫で満たすように。
何もかもを雫で埋めつくすように。
只々。
浸すらに。
雫を求めた。
胸の奥で渦巻く不安も。
消そうとしても消えない迷いも。
言葉に出来ない痛みも。
何も考えたくなかった。
朔也は、雫の温もりへ縋るように目を閉じる。
今はただ、この温もりだけを感じていたかった。
雫がいる。
自分を見てくれている。
自分の名前を呼んでくれる。
その事実だけを確かめるように、朔也は雫の名前を呼んだ。
「……雫…… 好きだ……」
掠れた声が零れる。
自然に言葉が溢れた。
「雫……」
もう一度名前を呼ぶ。
まるで呼ばずにはいられないみたいに。
「可愛い……」
その声には、愛しさが滲んでいた。
雫は堪らない幸せに胸がいっぱいになり、きゅっと目を閉じる。
抱き締める腕の強さ。
何度も呼ばれる名前。
真っ直ぐに向けられる想い。
その全てが胸へ染み込んでくる。
「……朔也くん……大好き………」
雫もまた、そっと彼の名前を呼んだ。
静かな声だった。
けれど、その言葉には嘘も迷いもなかった。
言葉を交わして。
何度も名前を呼んで。
温もりを分け合って。
まるで離れてしまいそうな何かを繋ぎ止めるように。
雫は、朔也の火照った頬を両手で包み込んだ。
逃がさないように、その瞳を真っ直ぐに見つめる。
自分を夢中で求めてくる、この盲目的な光。
傷ついた迷子のような、あまりにも脆く悲しげな色。
そして────自分を境界線の内側へと幽閉しようとする、狂おしいほどの深い愛。
最高に、堪らない。
雫の胸の奥から、せり上がるような熱い歓喜が込み上げてくる。
「私は……」
堰を切ったように、心の声が唇から溢れ落ちた。
「あなたと……ずっと一緒にいてもいいの…?」
朔也は、迷うことさえしなかった。
「ずっと俺の側にいて……どこにも行かないで……」
懇願するように、朔也が雫の首元へと顔を埋める。
雫の甘い香りが朔也の胸いっぱいに広がった。
「もしも…私が、あなたから身を引いてしまったら?」
「…嫌だ……離れて行かないで…雫…」
縋りつくようなその力は、折れそうなほどに強く、激しい。
「雫がいないと、俺……生きていけない」
雫は満足感に目を細め、朔也の柔らかな髪を優しく、慈しむように撫でた。
「……この先も、ずっと……?」
囁きながら、雫は自分の首筋に深く沈んでいた朔也の顔を、拒む隙を与えずにそっと持ち上げる。
息が触れ合うほどの至近距離。
この大好きで堪らない、朔也の目。
全身が、熱くなる。
「誰よりも一番……私のことが好き?」
底のない朔也の深い瞳を、雫は真っ直ぐに射抜いた。
「この世で一番、雫を愛してる。」
その言葉が鼓膜を震わせた瞬間。
雫の背筋をゾクゾクとした甘美な電流が駆け抜けた。
歓喜のあまり、自然と口角が吊り上がっていく。
「……あは♡」
(星野先輩……)
あなたが今更どんなに足掻いたって、もがいたって、苦しんだって。
朔也くんの心が、あなたの元へ帰ることなんて二度とない。
例え私が身を引いて突き放したところで。
私に夢中で。
私に溺れて。
私に縋って。
この人はもう、この底なしの沼からは抜け出せない。
朔也くんは、もう完全に。
私という底へ、堕ちてくれたのだから。
夜は静かに更けていく。
けれど、狭い世界に閉じこもった二人だけは、時間の流れさえ忘れたかのように、互いの存在へ、深く深く沈み続けていた。




