第151話 油断大敵
10月末日。
総合型選抜試験を終えても、受験はまだ終わらない。
結果発表を待つ間にも、公募推薦の出願準備は進んでいく。
総合選抜は、確かに手応えがあった。
けれど、それはあくまで自分の感覚で、合格を保証してくれるものではない。
結果がどうなるかは分からない。
だから立ち止まれなかった。
日曜日の午前中。
数日前にWeb出願を済ませた陽向は、公募推薦試験の受験票を印刷するため、自宅近くのコンビニを訪れていた。
自動ドアが開く。
店内へ足を踏み入れると、コーヒーの香りと揚げ物の匂いが微かに混ざり合っていた。
入口近くのマルチコピー機へ向かう。
陽向は財布から小銭を取り出した。
チャリン、と硬貨が受け皿へ落ちる。
コピー機の画面へ指を伸ばした、その瞬間だった。
「えっ!? 星野先輩っ!」
突然聞こえた声に、陽向は反射的に振り返った。
心臓が跳ねる。
そこに立っていたのは────
「あ……」
雫だった。
そして、その隣には朔也。
どうやらちょうど会計を終えたところらしい。
「しぃちゃん……」
思わず名前が零れる。
予想もしていなかった遭遇だった。
心の準備なんて、何ひとつ出来ていない。
「わー! 星野先輩に会えて嬉しいです!」
雫は、ぱっと表情を明るくして歩み寄ってくる。
その笑顔は相変わらず眩しかった。
そして────
陽向の視線が、ふと下へ落ちる。
絡められた指。
自然に繋がれた手。
恋人同士の手。
ざわっ…
胸の奥で何かが波打った。
当たり前に、分かっていること。
二人が付き合っていることも。
仲が良いことも。
何度も見てきた。
それなのに。
どうしてだろう。
妙に、その光景が胸へ刺さった。
「……今から朔也んち?」
聞かなくても分かる。
けれど、それ以外に口に出来る言葉が見つからなかった。
「はい!」
雫は嬉しそうに頷く。
「星野先輩は印刷ですか?」
「うん。受験票。」
答えながら、陽向は無意識に朔也の持つレジ袋へ視線を向けていた。
ペットボトル飲料。
おにぎり。
サンドイッチ。
サラダ。
スナック菓子。
チョコレート。
プリン。
袋はパンパンだった。
その量を見ただけで分かる。
まだ午前中。
これから二人は、長い時間を一緒に過ごすのだろう。
朔也の部屋で。
ごく普通の恋人同士の休日。
気づけば、夕方になっている。
そんな一日。
その光景が陽向の頭の中へ勝手に浮かんでしまった瞬間だった。
「……っ」
陽向は小さく息を呑む。
頭の中に浮かんだ想像を振り払うように、視線を逸らした。
嫌だな、と一瞬思った。
何が嫌なのかは分からない。
雫は大切な後輩で。
朔也だって大切な幼馴染だ。
二人には幸せでいてほしいと思っている。
本当に。心から。
それなのに。
どうして胸が苦しいんだろう。
どうして、自分だけ取り残されたような気持ちになるんだろう。
胸の奥で膨らみ続ける感情に押されるように。
気付いた時には、言葉が口を突いて出ていた。
「受験生なんだから、勉強くらいしたら?」
自分でも驚くほど、声は低かった。
空気がぴたりと止まる。
雫の笑顔が僅かに固まった。
「あ?」
朔也の眉がぴくりと動く。
「勉強するから家呼んでんだよ。」
陽向は止まれなかった。
止まりたいのに。
胸の奥で暴れ出した何かが、次の言葉を押し出してくる。
「ろくに相手もしないつもりで家呼んでんの?」
「一緒にいたいんだから仕方ねぇだろ。」
迷いのない返答だった。
それが余計に胸へ刺さる。
陽向は唇を引き結んだ。
「……あんたの我儘に休日を使わされる、しぃちゃんが不憫だわ。」
「雫も一緒にいたいっつってんの!」
朔也の声が少し強くなる。
その瞬間。
陽向の胸の奥で、何かが嫌な音を立てた。
分かっている。
全部、自分が悪い。
雫は何も悪くない。
朔也だって悪くない。
二人はただ付き合っているだけだ。
ただ普通に恋人同士として過ごそうとしているだけ。
なのに。
「……あっそ。」
陽向は視線を逸らした。
「ま、私には関係ないからどーでもいいわ。」
吐き捨てるように言う。
自分でも最低だと思った。
それでも止められなかった。
陽向は逃げるようにプリンターの画面へ向き直る。
震えそうになる指で操作パネルへ触れた。
背後から朔也の声が飛んでくる。
「お前なんなの?」
苛立ちを隠そうともしない声だった。
「いちいち突っかかってくんの、マジでイラつくんだけど。」
その瞬間。
ぐいっ、と雫が朔也の腕を引いた。
「朔也くん……!」
小さな声だった。
「星野先輩は私に気を使って言ってくれてるから…」
けれど必死さが滲んでいた。
雫は朔也を宥めるように見上げてから、ゆっくり陽向へ向き直る。
「星野先輩。ありがとうございます。」
優しい声だった。
責める色なんてどこにもない。
陽向の肩が僅かに揺れる。
「でも私が朔也くんに会いたくて、一緒に過ごさせてもらってるので。心配しなくて大丈夫ですよ。」
雫はふわりと笑った。
その笑顔が眩しかった。
あまりにも真っ直ぐで、優しくて。
まるで、自分の醜さだけが浮き彫りになるみたいだった。
「…………。」
陽向は何も返せなかった。
返せる言葉が見つからなかった。
ただ無言のまま、プリンター画面を見つめる。
印刷設定を選ぶ指先だけが機械的に動いていた。
「もういいよ。行こ、雫。」
朔也が雫の手を引いた。
「え……あ、星野先輩っ!また!」
雫が声を投げる。
けれど陽向は振り返らなかった。
振り返ったら。
今にも泣きそうだったから。
自分でも理由の分からない感情が、喉元まで込み上げてきていたから。
自動ドアが開く音がする。
二人の足音が遠ざかる。
やがて店内は元の静けさを取り戻した。
コンビニの店内には、軽快なBGMが流れている。
レジでは次の客の会計が始まっている。
いつもと何も変わらない、日曜日の午前中。
それなのに。
陽向の胸の中だけが、ひどく荒れていた。
印刷された受験票が排出口から出てくる。
けれど陽向はすぐに手を伸ばせなかった。
ただ俯いたまま、自分の掌を見つめる。
どうしてあんなことを言ったんだろう。
どうして止められなかったんだろう。
胸の奥が重い。
苦しい。
そして何より────
そんな自分が、どうしようもなく嫌だった。
───────。
コンビニを出ると、ひんやりとした秋風が頬を撫でた。
雫と朔也は手を繋いだまま、住宅街へ続く道を並んで歩く。
休日の午前中。
空は高く澄み渡り、どこか穏やかな空気が流れていた。
けれど雫の表情だけは、どこか晴れなかった。
「……星野先輩……体育祭と総合型選抜終わっても、まだ気張ってるのかな……」」
その声には心配が滲んでいた。
朔也が横目で見ると、雫は繋いだ手を見つめたまま、小さく眉を下げていた。
さっきのコンビニでの陽向の様子が、雫の頭から離れない。
どこか棘のある言い方。
無理をしているような笑顔。
そして自分の声に、最後まで振り返らなかった背中。
朔也は少しだけ考えるように空を見上げた。
「試験終わったあと、別に普通だったけどな」
総合型選抜を終えたあと。
顔を合わせた時も、陽向は「試験めっちゃ上手く行ったー!」と嬉しそうにして、いつも通り騒がしかった。
少なくとも、あんな雰囲気ではなかった。
「もしかして何かあったのかな……」
雫は小さく呟く。
胸の奥がざわつく。
陽向は、雫にとって大切な先輩だった。
優しくて。
頼りになって。
時々抜けていて。
だからこそ、あんなふうに荒れている姿を見るのは苦しかった。
けれど朔也は、どこか不機嫌そうに肩を竦めた。
「知らねーよ。だとしても、関係ないこっちに八つ当たりしてくんなって話。」
コンビニでのやり取りを思い出したのか、僅かに眉を寄せる。
雫は何も悪くない。
それなのに、陽向はまた不貞腐れるような態度を取っていた。
それがあまりにも陽向らしくなくて、朔也には許せなかった。
「……。」
雫は返事をしなかった。
しばらく俯いたまま歩いていたが、やがて小さく口を開く。
「でも……私は星野先輩が心配だな。」
その言葉に、朔也は足を止めそうになる。
相変わらずだと思った。
雫はいつだって、相手のことを考えている。
視線を落としたまま歩く雫の頭へ、朔也は繋いでいない方の手を伸ばした。
ぽん、と軽く触れる。
そして、そのまま優しく髪を撫でた。
「雫はほんと、優しい子だな。」
呆れたような。
けれどどこか愛おしそうな声で、柔らかく笑う。
その優しい笑顔に、雫もふわりと笑った。
「朔也くんも優しいよ。」
そう言って見上げてくる。
柔らかな秋の日差しを受けたその笑顔に、朔也は一瞬だけ言葉を失った。
そして照れ隠しのように視線を逸らす。
「……雫が可愛いからな」
その言葉に、雫はポッと頬を染める。
繋いだ手は、少しだけ強く握り返されていた。
二人は再び歩き出す。
秋風が木々を揺らし、その葉音だけが静かに背中を追いかけていた。
───────。
その日の夜。
「ちょっとー!ひなー!いい加減にしてっ!!」
キッチンから、母親の叫び声が飛んだ。
ソファでレオと寛いでいた陽向は、弾けるよう立ち上がり、キッチンへ駆け寄った。
「なんで受験票が冷凍庫でカッチコチになってんの?」
母親の手には、午前中に陽向がコンビニでプリントアウトしてきた受験票が、クリアファイルに入って冷気を纏っていた。
「…げっ!!??」
陽向は目を見開いた。
コンビニ行って。
朔也と雫に会って。
甘いものでも食べて心を鎮めようと思って。
アイスを買って。
ぐちゃぐちゃと色んな事を考えながら帰って。
えーと。
えーと。
そこからの記憶はございません。
「なんでーーー!!???」
「こっちが聞きたいわーーーー!!!!!」
星野家のリビングに、母親の怒号が響いた。
───────。
そして、週が明けた。
週末のコンビニでの出来事が、どうしても気になっていた雫は陽向を心配して、そのことを咲へ相談した。
星野先輩の様子がおかしい。
文化祭が終わった頃から、どこか無理をしているように見える。
総合型選抜試験が終わった今も、それは変わらない。
話を聞いた咲は、すぐに思い立ったように言った。
「じゃあさ!みんなで陽向を元気づけようよ!」
その一言で決まった。
放課後。
いつものディンバードーナツ。
久しぶりに集まったのは、朔也、雫、蒼太、そして咲の四人だった。
店内には甘い香りが漂っている。
窓際の席へ腰を下ろし、それぞれ飲み物やドーナツを広げていた。
けれど。
「で、陽向は?」
蒼太の問いかけに、咲が答えた。
「あー、陽向のクラスに行ったら、クラスの子が”図書室行ったよー”って言ってたから」
咲はストローをくるくる回しながら続ける。
「とりま”みんなでディンバーいるから待ってるねー”ってLINEだけ打っといた!」
「それで本当に来んのかよ!」
間髪入れず朔也が突っ込む。
咲はケロリとしていた。
「来なきゃ来ないで別にいいっしょ。また今度集まれば♡」
咲はニコッと軽く笑う。
相変わらずの適当さだった。
そして、蒼太が口を開く。
「しかし…また図書室通い復活したな」
「あーね、なんか…忙しさから解放されたらそっち行っちゃったかぁーって感じだよね…」
そう言って視線を落とす。
指先でストローを弄びながら、咲は少しだけ表情を曇らせた。
それに雫は首を傾げた。
「どういう事ですか?」
「いや…前はよく、藤崎先輩と別れて寂しい寂しいって言ってたんだけど…」
咲は肩を竦めた。
「最近は忙しさもあってか、あんま言わなくなってたんだよね。」
そして少しだけ寂しそうに笑った。
「でも最近余裕が出来たからなのか…また藤崎先輩との思い出に浸って闇堕ちしちゃってんのかなぁって」
雫はコンビニで見た陽向の顔を思い出す。
無理に平静を装っているような笑顔。
どこか追い詰められたような目。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「え…それでこの前星野先輩、元気なかったんですかね…」
心配そうに呟く。
その隣で。
朔也はグラスを机へ置いた。
「また藤崎俊輔かよ」
その声には苛立ちが混じる。
「もはや執念だよな。それで周りに八つ当たりされたらいい迷惑だっーの」
眉を寄せて、吐き捨てるように言いながらテーブルに肘をついた。
ディンバードーナツの窓の外では、夕暮れへ向かう秋の光が静かに街を染め始めていた。
ポン。
図書室へ足を踏み入れた瞬間、陽向のスマホが小さく震えた。
ポケットから取り出し、画面を開く。
“みんなでディンバーいるから待ってるねー”
咲からのメッセージだった。
その一文を読んだ瞬間、胸の奥がふわりと温かくなる。
そういえば最近、みんなで集まっていなかった。
以前は放課後になると当たり前のように足を運んでいたディンバードーナツ。
けれど高校三年生になり、全員が受験生になった。
剣道の大会前は、部活がない日も自主練していたし、部活を引退しても忙しさは減らない。
受験勉強、生徒会、進路活動。
それぞれが自分の戦いを抱えるようになり、自然と集まる機会も少なくなっていた。
特に二学期に入ってからは、一度も行っていない。
ふいに懐かしさが込み上げる。
放課後。
くだらないことで大笑いして。
恋バナで盛り上がって。
時には言い合いになって。
結局また笑って。
あの頃は、それがずっと続くものだと思っていた。
窓際の席。
甘いドーナツの香り。
賑やかな声。
思い出すだけで自然と頬が緩む。
今からまた、あの場所へ行く。
咲がいて。
蒼太がいて。
そして──朔也もいる。
きっといつものように騒がしくて。
きっといつものようにくだらないことで言い合って。最後にはみんなで笑っている。
朔也とも。
きっと、賑やかで、穏やかに笑い合える。
そう思うだけで、胸が少し高鳴った。
陽向はスマホをしまうと、返却ボックスへ歩み寄った。
読み終えた本をそっと入れる。
総合型選抜が終わってからも、本を読む習慣は続いていた。
図書室で本を借りて。
読み終えたら返して。
また新しい本を借りる。
そんな日々が、自分の生活へ戻ってきている。
陽向は書架の間を歩きながら、今日借りる一冊を探した。
並ぶ背表紙へ視線を滑らせる。
気になった本を手に取る。
数ページだけ開いてみる。また戻す。
そんな時間が好きだった。
やがて一冊の本を選び、貸出カウンターへ向かう。
管理用紙へ名前を書き込む。
借りた本を胸に抱えると、自然と足取りが軽くなった。
久しぶりのディンバー。
久しぶりのみんな。
そして、久しぶりの放課後。
陽向は胸を弾ませながら、夕暮れへ染まり始めた校舎を後にした。




